5.青慈は勇者だった
血泡を吐いて倒れている大黒熊に止めを刺して、その遺体を処理する前に朱雀がしたのは、青慈をお膝に抱っこして小さな足を確かめることだった。右足か左足か、蹴った方の足がどちらかを冷静に朱雀は見ている余裕はなかった。左右どちらの靴も脱がせて、靴下も脱がせて小さな足をしっかりと見る。折れていたり、曲がっていたりするところがないのを確かめてから、豆粒のような足の指一つ一つに触れながら朱雀は真剣に青慈に問いかけた。
「どこか痛いところはない?」
「あいちゃ、ないよ」
「足は痛くない?」
「あんよ、へーち」
どれだけ調べても青慈に怪我はないようだ。足の指や足の甲や足の裏を触っても、くすぐったいのかきゃっきゃと笑うだけで何も異常はない。
「これまで青慈は誰かを蹴ったりしたことはないよね。あれは誰に習ったのかな?」
「めってちたら、くまたん、どーん!」
誰も教えていないのに青慈は大黒熊の顎に的確に飛び蹴りを入れられたのだという。信じられないことだが、幼い頃から青慈を見ている朱雀は、青慈が誰かを蹴ったりするような姿は認めたことがなかった。大人しくていい子で、暴れたり、叩いたりすることすらなかったのだ。
「誰かに教えてもらった?」
「えーとね、みろりたんがね、とーたにやーなことちるやつには、えいって」
「緑さんか……」
「あんたんもね、あいたんもね、めってちなたいって」
蹴り方を教えた相手は分かった。そのおかげで青慈が助かったのだから、咎める気は全くなかったが、朱雀は確認しておきたかった。
青慈の小さな足に靴下と靴を履かせて、大黒熊の遺体を山の奥に埋めてから、家に戻って緑と杏と藍を呼び出す。
「聞きたいことがあるんだけど。青慈に蹴りの仕方を教えた?」
「青慈、大黒熊をやっつけたの? やるわね」
「教えたわよ。朱雀さんに言い寄る天敵は多いから、そういう奴を見付けたら、脛かアレを蹴り上げなさいって」
「一人で蹴り上げる練習をしてたから、練習の成果が実ったのね」
嬉しそうな緑と杏と藍に、朱雀は頭が痛くなってくる。
「2歳児に何を教えてるのかな!?」
「大事なことよ!」
「身を守るすべがないと、子どもでも生きていけないもの」
「魔王が動き出してるって話だし」
街で聞いた話を杏がし出す。
この山から遠く離れた魔族の領域では、百年程前に強い力を持つ魔族が生まれたのだそうだ。その魔族は数年前に魔族を治めていた王を弑逆し、魔王の座に就いた。魔族と言っても妖精種と同じように単純な種族の違いだけなのだが、魔王は人間を支配することを考えていて、人間と妖精種の暮らすこの国を侵略して来ようとしているのだという。
「今までの魔王はこの国と和平を結んでいたよね」
「今度の魔王はそれを崩すつもりでいるらしいわよ」
「二年ちょっと前に生まれた勇者を、育つ前に殺してしまおうと刺客を放ったって噂も聞いたわ」
山奥で一人で暮らしている朱雀と違って、杏も緑も藍もこの国の情勢に詳しかった。二年ちょっと前に生まれた勇者と聞いて、朱雀は足元で無邪気に遊んでいる青慈の方を見詰める。
2歳の子どもが蹴りだけで小山のような大きさのある大黒熊を倒せるわけがない。魔族の刺客を放たれて、青慈の両親は大黒熊に食われる前に死んでいたのかもしれない。そこに大黒熊が通りかかって、死体を貪った。あのままだったら青慈も大黒熊に食われて死ぬだろうと思って、刺客は青慈に止めを刺さずに去ったと考えれば全てが繋がる。
「青慈は勇者……!?」
かつて魔族がこの国を侵略していた頃、国王は妖精種に儀式を行わせて、強い力を持ち魔王を倒せる勇者をこの国のどこかに生まれさせていた。新しい魔王がこの国を襲おうとしているのを察知した国王は、和平を結んでいた間はやめていた儀式を再び行い、この国に勇者を生まれさせた。
しかし、勇者は生まれたときから魔族に命を狙われて、両親を殺して大黒熊に貪られたところで一緒に死んでしまったと思われているのかもしれない。
それならば、青慈を襲いに魔族たちが来ないのも理解できる。
「青慈を守らなければいけない……こんな小さな子が魔族に襲われるなんていけない」
深刻な表情になった朱雀に、藍と杏と緑が頷く。
「私たちも協力するわ」
「私たちにとっても青慈は大事な子どもよ」
「魔王のアレを確実にもげるように、教育しなきゃ」
女性というのは恐ろしいものである。
2歳の現在ですら大黒熊をひと蹴りで退ける青慈が、魔王の股間のモノをもぐように教育されてしまったら、どうなるのだろう。蹴り方も藍と杏と緑が教えただけで、一度も実践することなく、青慈は身に着けてしまった。
「とーた、おなかちーた」
「あぁ、こんな時間か。ご飯を作ろうね」
話し込んでしまってすっかりと日が暮れていることに気付いて、朱雀は台所に向かった。肉まんの生地を捏ねて、ひき肉の餡を作って、包んで蒸籠で蒸し上げる。出来上がった肉まんと卵とワカメのお汁を卓上に並べると、青慈が手を洗って子どもの椅子に腰かける。
肉まんもお汁も熱々だったので、吹き冷まして朱雀が青慈に食べさせた。藍が乳母と言うことになっているが、青慈はできる限り朱雀に世話を焼いてもらうことを望む。小さい頃から朱雀が世話をしてきたので、朱雀に甘えたいのだろう。そういうところも可愛いので、朱雀はできる限り青慈の世話を焼く。
どうしても手が離せないときなどは、青慈も理解して藍に面倒を見てもらっているが、調合中でも朱雀の手が空きそうなときはすかさず甘えてくる。
「あっち! ふーふーちて」
「熱かった? ちょっと待ってね」
お汁を入れた匙を吹き冷ます朱雀に、青慈が満足そうににこにこしている。紫音も冬が過ぎて少しずつ離乳食を食べるようになっていた。
藍に抱っこされて、一口肉まんの皮をもらった紫音が、紫色のお目目を輝かせて、お口を開ける。
「気に入ったの?」
「うー! うー!」
欲しがる紫音に、藍はくすくすと笑いながら肉まんの皮を千切って紫音のお口に運んでいた。自分の肉まんの皮がなくなっても、藍は気にしないくらい紫音を可愛がっていた。
お腹いっぱいになった紫音は、お風呂に入れられて、寝台に寝かされる。青慈のときに赤ん坊用の柵付きの寝台で寝かせなかったことを朱雀は後悔していたので、紫音のときには赤ん坊用の柵付きの寝台を買っておいた。これは三歳くらいまでは使えるようだ。
夜に紫音は赤ん坊用の柵付きの寝台で、青慈は朱雀の大きな寝台で、朱雀の寝室で眠る。夜泣きがどれだけ酷くても、朱雀は子どもたちと寝ることをやめなかったし、夜は藍に自分の時間を過ごしてもらうようにしていた。
使用人として住み込んでもらっているが、藍と杏と緑には一日に数度休憩があるし、夜は別棟でそれぞれの部屋で休めるようにしていた。休暇も欲しいと言われれば出すつもりだが、今のところは藍と杏と緑からそんな要求はされていない。
夜中に紫音はまだお腹が空いて泣いてしまうことも多いが、青慈は長時間眠るようになっていた。紫音が泣いても起きずにすやすやと眠っている。
泣いて起きた紫音のためにオムツを替えて、ミルクを作って、朱雀は紫音を抱っこして飲ませる。紫音は朱雀が親代わりだということを分かっているのか、藍にも懐いていたが、朱雀にもとてもよく懐いていた。
朱雀に抱っこされると泣き止んで大人しくなる紫音もやはり可愛い。青慈も可愛いし、紫音も可愛いのだが、青慈と紫音の可愛さは少し違うような気がする。青慈は朱雀が一目で天使だと思ったように天からの贈り物だと思っていたが、紫音はそれとは違ってこの子を立派に育てないといけないと責任感を持たせるような可愛さなのだ。
青慈が大きくなって家を出る日が来ると思うと胸が張り裂けるような気持になるが、紫音には大きくなったらいい相手と出会って幸せな家庭を築いて欲しいという応援するような気持すらある。
この気持ちの差がなんなのか朱雀にはまだ分からなかった。
「ちっち!」
「青慈?」
「あー! じぇったー!」
飛び起きた青慈がおしっこが既に漏れているのに気が付いて、両手で顔を覆って泣き出しそうになるのに、朱雀はミルクを飲み終わってご機嫌の紫音を赤ん坊用の柵付きの寝台に寝かせて、青慈を抱き寄せた。
「漏らしてもいいんだよ」
「ごめちゃい」
「謝らなくてもいいよ」
もうすぐ3歳になるであろう青慈にとっては、お漏らしをすることはとても悔しいことのようだった。昼間は少しずつお手洗いで排泄できるようになっているのだから、夜に寝ているときくらいは仕方がないと朱雀は思うのだが、青慈は納得できていない。
「おむちゅ、けこん、でちない」
「え?」
「おむちゅ、ないない。とーた、けこんちる」
オムツが取れれば朱雀と結婚できると思い込んでいる青慈に、ちょっとそれは早すぎると言えない朱雀だった。