ちょっと全部何もかも投げ出したくなる時くらいあるだろ? それだよ
誰しも、不意に何もかも嫌になる事くらいあるだろう。
なんとなく気が落ち込むとか、嫌な事ばかり考えてしまうとか。
嫌な事が続いたとか、何かと思い詰めてしまうとか。
そんな理由で。
そして、実際に投げ出してしまう者も中にはいる。
つまり家出というやつだが、早い話が私の現状だ。
いやだって、かなり長い間耐えていたよ。
堪え性のないわけでなくて、今まで堪えていたけどとうとう決壊したんだよ。
きっと私と同じような状況なら、誰だって同じような事をすると思うね。
ちょいと千年ばかり眠りもしないで働いてみればいい。
魔王業は想像を絶する激務なのだ。
……いや、せめて後釜くらい育ててからの方が良かったか?
でもそんな程度の暇すらなかったし。
まあ、残された面々も、私ほどではないにしても優秀な者たちだからなんとかするだろう。
差し当たって考えるべきは、これからどこへ行こうかという事だけだ。
「どうせなら人間の領に行きたいなぁ」
魔界は私の膝下なので、もしかしたら家臣が探しにきてしまうかもしれないからな。
流石に魔王が人間の国で暮らしているなどとは思うまい。
我ながら妙案だと思う。
あと、人間の生活って超興味ある。
そんなわけで、私は魔界と人間領の境あたりにいる。
人間にも魔族にも厄介な黒の森と呼ばれる場所で、律儀に歩いて人間の街を目指している。
魔界は殆どがこの森に覆われているため、迂回して人間領へ入る事はできない。
ここはそこそこ危険な魔物も出るので気を付けなくてはならないのだが、そんなわけで足場の悪い中こんなところを進んでいる。
……と、そんな事を考えていると。
「ぁ——っ……!!」
「人の声……?」
鳴き声や葉擦れの音で満たされる森の中で、魔王としての聴力が確かに人間の声を聞き分けた。
何を言っているのかは分からないまでも、どの方向から聞こえたのかくらいは認識できる。
先ほどからしきりに鳴いている豚か何かがひどく雑音となっているが、合流自体は難しくない。
「運が向いてきたか」
何か上手い事言いくるめて、人間の町に連れて行ってもらおう。
もしも魔族だと面倒なので慎重に接触するが、この辺りはもう人間領なので概ね大丈夫だろうと思う。
正直このまま迷いっぱなしで魔界に帰る事になるかと思った。
あまりにもダサいためそれだけは避けたい。なにせ私は魔王だからな。
「ブゥモオオ!」
……ん?
私は人間と接触しようとしたはずなのだ。
で、確かに人間はいる。
「は、離れろ貴様ぁ!!」
人間の子供が、3メートルくらいのイノシシを相手に膝を笑わせている。
赤い長髪を後ろで束ね、真っ黒の外套を羽織っている少女だ。目を患っているのか、右眼には眼帯をつけている。
イノシシはワイルド・ボウという魔物で、黒の森では一番ありふれたもののうちの一つだ。
しかし、こんなに人間領に近い場所に現れるのは珍しく、子供もきっと不意に遭遇してしまったのだろうと思われる。
「こ、ここ、この私を前にして! きき、貴様よくもそんなたぃ、態度をとれたものだな……!!」
何やってんだあのガキ。
ガクガク震えながら挑発している。
あんな大声を出したら、余計に興奮して襲い掛かられるだろうに。
ワイルド・ボウはますます鼻息を荒くして、ブルルブルルと音を鳴らしている。ちょっと滑稽で面白い。
ただ、このまま子供が惨殺される様を見ているわけにもいかない。
正直ちょっと気分が悪いし、何より初接触の人間だ。
あんな子供が黒の森の中を一人でうろつくとは思えないので、おそらく近くに親がいるはずだ。
「おい、危ないぞ童」
「え……っ?」
腕を引き、抱き寄せ、ワイルド・ボウの突進から身をかわさせる。
あの巨体の突進だ。もしも当たれば熟れ過ぎた果実のように弾けてしまう事だろう。
まあ、私は問題ないが。
「だ、だれ!?」
「お喋りは私も望むところだが、その前に少し片付けさせてもらうぞ」
魔物はこちらの都合を考えてはくれない。
せっかく私が手に入れた情報提供者と話をしようかと思っていても、御構いなしにまた突進してくるのだ。
ああ、何と哀れな愚物。
私はその勢いを正面から受け止めず、優しく側面方向へと逃してやった。
急な方向転換を余儀なくされた豚はバランスを崩し、無様に地面を転がる事となる。
もう動く事はできまい。すれ違いざまに捻り取った首が、もはやそこにあるのは単なる肉の塊であると主張している。
「え……?」
「さて、これでゆっくりと話ができるな」
目をまん丸くして、少女は私と豚を交互に見ている。
生き物の死体をそこまで興味深く見るか。この子の将来がちょっとだけ心配だ。