世界夢
短編小説です。
表現の至らぬ点が多いですが、皆様の妄想力でカバーしていただけたら幸いです。
グリンバルムの夜空に浮かぶ二つの月は、人類と魔王軍の最終決戦を見守っている。
剣士・ユークリッドは王国騎士団を率い、仇敵の根城である魔王城に攻め込んでいた。
大広間は両軍がぶつかり合う地獄絵図と化していた。剣と血、矢と魔法が幾重にも飛び交い、絶えず断末魔を反響させる。死体が折り重なり、もはや床面はほとんど見えない。
魔王の鎮座する謁見の間は目と鼻の先にある。飛びかかる魔物を視線も送らずに切り捨てると、ユークリッドは長く暗い廊下へ向け駆け抜ける。
「ユークリッド、私も同行します!」
並走する影が一人。レイピアを携えた女騎士のルシアだ。ここに至るまで、彼女の繰り出す剣技と癒しの術に何度も助けられてきた。
剣士は首肯すると、さらにその足を加速させる。
やがて二人は大きな扉にたどり着いた。この先が謁見の間。人類と魔王軍の運命を分かつ場所。
ユークリッドはルシアを見る。ルシアもユークリッドを見つめる。
「心の準備は出来ていますか?」
「もちろんだ」
ユークリッドは強くルシアを見つめながら答える。
「安心しろ。お前は絶対に死なせない」
絶対、とはこの世で最も信じられない言葉だ。ユークリッドに会うまで、ルシアはそう考えて生きて来た。しかし今は違う。彼が絶対と言ったらそれは確実に叶うのだと、彼女は確信していた。
「私も……私もあなたを守ります」
ルシアの青い瞳がユークリッドを真っすぐに見つめる。戦闘でも精神面でも、ルシアにずっと助けられてきた。彼女を失いたくない。絶対に二人で故郷に帰るのだと、そう誓う。
「行くぞ。最終決戦だ……!」
「……くん、戸増ユウトくん」
剣士の意識が現実へと戻される。戸増が辺りを見回すとそこは教室だった。
戸増を名指ししたのは樽の様に膨れた腹を持つ教師の田村だ。体とは不釣り合いな細い足に愛嬌を感じさせる。彼は黒板をチョークで軽く叩き、先刻書き込んだ問題の解を問うている。見ればその振動はあご下の肉までふよふよと伝わっていた。
「この問題が分かりますか?」
戸増は教師の指先に目を向ける。しかし妄想の世界では百戦錬磨の彼ですら、その解はちっともわからなった。グリンバルムには物理などという高度な学問は存在しないのだ。助けを求めて彼は隣席に目を移す。
「悪い、わからん」と小声で返すのは戸増の親友であるイケメンの成瀬だ。わかれば仲良く補講なんて受けてないって、と苦笑される。
いつもなら授業中であろうと喧噪が止まない教室も、今日ばかりは3人しかいない。あいつらは何故お喋りしてるのに勉強ができるんだ、戸増は赤点を取ったことを激しく後悔する。もちろんクラスメイトが赤点を取らないのはテスト前に勉強しているからだ。その単純な答えすら戸増にはわからない。わからないが、一度起立してしまった手前何か発しなければ後には引けない。戸増はそういう男だった。
待ちくたびれた教師の眉間に徐々にしわが寄っていく。彼の頭が30代の若さで禿げ上がっているのは自分のような学生のせいに違いあるまい、戸増はある種の使命感のようなものを感じ、呪文のような問に真剣に向き合った。
「……答えは?」
突如ドアの外から小さな黒い塊が転がり込む。金属音を経てながら数回バウンドしたそれは、田村の革靴に当たってぴたりと止まった。
「手榴弾……」
戸増から放たれる解。それは問とは全くの無関係ではあるが、今最も解決しなければならない問題でもあった。
「ユウト!」
いち早く反応したのは成瀬。弾かれたように飛び出すと同時に戸増を押し倒す。
成すすべもなく仰向けに転がる戸増。彼の視線はまだ黒い塊を捕らえていたが、すぐに成瀬の腕が視界を覆う。
瞬間、発せられた衝撃が室内を貫く。投げ込まれた物体は手榴弾ではなく、音響閃光弾――つまりスタン・グレネードだった。親友の腕で覆われているはずの視界がオレンジ色に染まる。自身の瞼に這う血管すら視認できる程の光を感じ、直後に衝撃波と共に飛んできた爆音が戸増の耳を劈いた。衝撃が五臓六腑を揺さぶり、呼吸もままならない。
永遠にも感じる一瞬を終え、戸増に残ったのは嗚咽と強烈な耳鳴りだった。かろうじて守られたぼやけた視界に映るのは、大きな銃を持ったフルフェイスマスクの男達。それが続々と3人教室になだれ込んで来る。
仰向けに転がりながら戸増は思う。自分はまだ妄想の世界にいるのか、と。ここに至っても戸増は事態の深刻さに気付いていなかった。
フルフェイスの一人が銃口を上げる。無駄の無い一瞬の動き。その先には教師の田村がいた。スタン・グレネードを至近距離で浴びた彼は窓にもたれかかり、一時的ではあるが全感覚を失っていた。何度も何度も目を擦る。その数センチ先には長く伸びた銃口がある事も知らずに。
状況すら理解できないまま、涙と唾液で濡れた顔に銃弾が撃ち込まれる。
一瞬にして10数発の弾丸を浴びた田村は背後の窓ガラスを突き破り、校庭に落下していった。
破れた窓から風が入り込み、戸増はここが4階だったことを思い出す。ようやく事態の深刻さを把握した彼は、自身の上で俯せに伸びる親友を強く揺らすが、起きる気配はない。そして気付く。傍に男が立っている。まだ全快しない目で見上げてみれば、こちらを覗く深淵と目が合った。引き金に掛かった男の指に力が籠る。
ぱしゅんっ、と乾いた音が響いた。
力なく崩れるフルフェイスの男。見れば胸のあたりに握りこぶし大の風穴が空いており、男の向こう側が視認できる程だった。辺りは焦げ臭い香りが漂っている。視線を移すと先程まで寝ていた成瀬の手には真っ白のおもちゃの様な銃が握られており、その短い銃身の先からは煙が上っている。SFの世界から飛び出したような流線型のデザイン。銃身に並ぶ電灯がちかちかと光り流れていた。
直後身を翻した成瀬がフルフェイスの一人に肉薄する。迎撃するフルフェイスの銃口を、成瀬は流れるような動きで回避した。二人の銃が同時に唸る。フルフェイスのサブマシンガンが教室の壁を、成瀬の銃がフルフェイスの心臓を貫いた。男の背中から光の筋が伸びてすぐに消失する。戸増はいつか映画で見た光線銃を思い出した。
あっという間に最後の一人となったテロリストが成瀬から素早く距離を取る。その体を教卓の影に滑り込ませると、銃口だけ突き出して成瀬に弾丸を降らせる。無数の銃弾が成瀬を襲う。
戸増にはそれがアクション映画のように見えた。成瀬は先ほど殺したテロリストの襟首を掴むと、死体を盾にして銃弾の嵐に突っ込んだ。進むたび弾丸の雨を浴び、死体にハチの巣状の穴が出来上がる。成瀬はそのまま教卓を蹴り飛ばし、露になったフルフェイスに向かって死体を押し投げる。推定70キロはある肉袋を身に浴びた男は仰向けに崩れ落ちた。すぐに視線を巡り、追撃に耐えようとするが、その隙を成瀬は逃さない。
最後の銃声が教室に木霊する。
成瀬はテロリストのフルフェイスへ手を伸ばす。
「動くな」
振り返ると教室の真ん中で戸増が羽交い絞めにされていた。こめかみには銃口が突き付けられている。四人目のテロリスト。成瀬はちらりと視線を移す。教室後部のドアが開いている。後衛隊を失念していた、致命的な失態に思わず奥歯を噛みしめる。
「武器を寄越せ」
テロリストの要求を浴び、成瀬はふうっと溜息を吐いた。
「……そいつは見逃してくれ。ただここにいただけだ。何も知らない」
「それはお前の態度次第だ。武器を寄越せ」
成瀬はゆっくりと光線銃を床に下ろすと、それをテロリストの方へ滑らせた。
銃は戸増の足元にくるくると回転して停止する。テロリストは戸増のこめかみに付けていた拳銃を離すと、それを成瀬に突き付けた。
どん、と背中を押される。気が付いた時には戸増が成瀬を押し倒す体勢になっていた。成瀬がさっき使った手だ、そう気づいた時にはもう遅い。急いで体を回転させる。成瀬の上から離脱しようとするが、それよりも男が二人に照準を直す方が早かった。
振り向いた時には発砲音が鳴っている。
銃口から射出された弾丸。音速とほぼ変わらぬ速度で迫り来る弾丸がすでに目前まで迫っている。二人にできるのは弾丸が自身に届くのを待つだけだった。
直後、その弾丸に亀裂が入り、空中で二つに割れた。一対になった弾丸は二人を挟むように弾道を反らす。背後で着弾音がした。弾丸が掠り、戸増の頬を血が滴る。しかし少年はその血を拭うことも忘れ、ただ目の前の光景を眺めていた。
「助太刀します」
鈴の音の様な凛とした声音が室内に響く。
そこには少女が立っていた。少年達に背を向け、テロリストに向かい合うように。
白銀の軽鎧に銀髪。白をベースとした服装と、アクセントカラーの青い生地。彼女の手には抜刀したレイピアが握られている。見ればその刀身は細かく振動していた。弾丸を斬ったのだ、戸増は息を呑む。
「何者だ!」
テロリストが咆哮する。すぐに引き金に力を込めるが、彼女の一閃の方が早かった。
振りぬかれる細剣。鮮血と共にテロリストの右手が宙を舞う。少女は刀を返すと、二太刀目の袈裟切りでとどめを刺した。
納刀の際、短めに揃えられた銀髪がふわりと揺れる。その姿に戸増は心当たりがあった。
少女がくるりと振り返る。グリンバルムの女騎士、ルシアがそこにいた。ルシアが駆け寄り、少年の両手を強く握る。花の香りが鼻腔をくすぐった。
「ユークリッド、私……ずっとあなたに会いたかった!」
「俺、成瀬だけど」
「え……」
愕然とする少女。同じく茫然とする、成瀬の隣で腰を抜かした戸増と目を合わせる。その目は見開かれ、その視線の真意を知る者は彼女しかいなかった。
「とりあえずここを出よう」
成瀬の提案に二人は頷いた。廊下に出ると人の気配はなく、一刻前までの騒々しさが嘘の様だった。
教室のドアからちらりと中を覗けば、確かに争いの痕跡があり、これが現実だと思い知らされる。戸増は一つの違和感に気が付いた。
「死体が消えてる」
辺りを見渡してもその姿はない。あの負傷で動けるとは思えなかった。
「死んだからだ」
戸増の前を歩きながら、成瀬は断言する。いいか、と前置きして彼は首だけを戸増に傾ける。
「後で必ず説明する。今はここを出ることを考えるんだ」
幾分か冷静になった戸増がルシアを見やる。彼女は戸増の頬に手を伸ばし、先の戦闘での負傷を治癒してくれていた。暖かい光が戸増の頬を包み込み、次第に痛みが引いていく。
礼を言う戸増。いえ、とルシアはすぐに視線を前方へと戻した。
彼女が現実にいる。謎だらけの状況に戸増は苦悩するが、全てはここを出れば教えてもらえるだろう。そう楽観的に考えると距離が空いてしまった成瀬に駆け足でついて行く。
やがて三人は階段にたどり着いた。先頭を歩いていた成瀬が振り返る。
「さあ、お前たちは家に帰れ。能力者とはいえ一般人を巻き込むわけにはいかない」
「……お前はどうするんだよ」
「狙いは俺だ。ここで夢の主を倒す」
街中で襲われてもたまらないしな、と成瀬は笑う。
「夢の主?」
「先ほどの襲撃者を操っている人間のことです」
戸増の問いにルシアが応える。
「お前も詳しいんだな」
「ある程度は」
そのままルシアが成瀬を見る。
「主は敷地内にいると?」
「あまり離れると操れなくなる。多く見積もっても校内にいると見て……」
その時近くの壁が爆ぜた。跳弾が廊下の向こうに吸い込まれていく。振り返れば三人が歩いて来た方向とは別の廊下から2人のテロリストが駆けてくるのが見えた。
「説明はここまでだ、行け!」
いつの間にか成瀬の手元には白い大きな銃が握られている。またしてもおもちゃの様なデザインだがさっきとは印象が少し違った。成瀬が階段へと戸増を押し込んだ。彼はポケットから通信機を取り出すと、戸増の胸にそれを投げつける。
「すぐ繋がるようにしてある。学校を出たらそれで応援を呼んでくれ」
警察は呼ぶな、面倒なことになる。成瀬はそれだけ告げるとテロリスト達を引き付けながら戸増達とは逆方向に駆けていく。途中テロリストと目が合うが、男達は成瀬に続き、その背中はすぐに見えなくなってしまった。
その光景を見守りながら、戸増は何もできなかった。
「本当にこのままでいいんですか?」
階段を下る戸増の背に、踊り場からルシアが問いかける。
「ご友人が生き残る保証は?」
「……あいつは強い。俺がいた方が足手まといだよ」
振り返らずに戸増が答える。足を止めず、階段を降りながら。
戸増だってもちろん成瀬を助けたかった。でも現実的に考えてそれは無理だ。今も足の震えを隠すのに精一杯だった。
「あなたはそうでも、私は戦えます」
ルシアの包み隠さぬ物言いに思わず歯噛みする。それでも戸増の足は止まらない。
「敵は何人いるかわからないんですよ? いくら強くても彼一人ではどうしようもありません」
戸増は踊り場へと差し掛かる。もう半階降りれば玄関口だ。
「現実のあなたが戦う力を持たないことはわかりました。でも、ユークリッドならたとえ戦えなくても仲間見捨てることはないはずです」
確かにユークリッドならば友人を救いに死地に飛び込むことを躊躇すらしないだろう。戸増は妄想の自分を振り返る。しかしここは現実だ。銃弾一つが当たれば命を落とす。妄想のようにやり直すこともできない。
踊り場からルシアを見上げながら、少年は投げやりに声を絞り出す。
「ユークリッドはただの妄想だよ。俺が行っても戦力になれない……行くならお前が行ってくれ」
「彼も言っていたでしょう。私はあなたから離れることは出来ません」
真っすぐな眼差しが戸増を捕らえる。
「私はあなたの夢。現実を変えるためには、現実の存在であるあなたが動くしかありません」
「無理だ……」
戸増はこの日初めて本物の銃を知った。それがもたらす威力も。命の危機という物を初めて体験した。グリンバルムでは味わうことのなかった恐怖が、今戸増を支配している。
「ユークリッド……」
「俺はユークリッドじゃない!」
思わず激昂する。ルシアが息を呑むのがわかった。沈黙は一瞬だったはずだが、戸増にはそれがとても長いものに感じられる。
「あの約束の通り、あなたの命は護ります。でも一つだけ……」
ルシアが目を細める。その瞳を戸増は知っている。魔王城進撃の直前、長い旅路を共にした仲間を失った時だ。その日と同じ瞳を、今ルシアがしていた。
「……あなたには失望しました」
今度は誰が死んだ? 戸増に思い当たるのは一人しかいない。グリンバルムの英雄を追ってこの世界に来てみれば、その正体は無力なガキだった。ただの無力ならまだしも、自らの命可愛さに友を見捨てる腰抜けだ。この瞬間、ルシアの知るユークリッドは死んだのだ。
戸増は階段を駆け下りる。力があれば、そう願わずにはいられなかった。俺がユークリッドなら、と。
校舎の屋上。普段は施錠され、一般生徒は立ち入り不可の領域に成瀬が立っていた。
強い風が吹き、髪とボロボロの服を揺らす。破れた衣服の隙間からは血が滴っており、鮮血が左腕を這い、床に雫を垂らす。
「よくここがわかったな」
下卑た声が屋上に響く。成瀬の視線の先には金髪の男が立っていた。
「……お前がテロリストの主か」
やっとの思いで声を絞り出す。ここに至るまで、親友の助けになればと見かけた兵士を全て相手にしてきたのだ。成瀬には能力によって常人を超えた身体能力があったが、正直今は立っているだけでやっとだった。出血がひどく、足元の血だまりが徐々に広がっていく。
今はただ、虚勢を張るしかない。
「ご自慢の兵はもう弾切れか?」
丸腰の金髪に問う。前線に立つ者の体つきではないな、そう成瀬は見定める。成瀬の見立てでは男の能力は兵の召喚のみ。自らの身心に強化を施すタイプではないと当たりを付けた。
「兵ね……」
金髪が汚い声でせせら笑う。ひとしきり笑った後、枝のように細い腕を持ち上げ、嫌味っぽく指を鳴らす。小気味の良い音が響く。
「取って置きが残ってる」
金髪の目の前の空間がぐにゃりと歪む。真夏の陽炎のように歪んだ空気は徐々に色を持ち、幻想の世界から現実が生み出される。
やがて虚空からぬっと片足が現れた。かなり大きい。そのまま歩き出すように歪みから大男が現れる。フルフェイスマスクをしておらず、表情には一切の感情がない。両手には一丁ずつ拳銃が握られており、肩ベルトにはナイフが括りつけられている。
「言っとくが、こいつは今までのやつらとは一味違う。その体でどこまで持つか見物だなあ!」
巨漢が成瀬を睨み付ける。なるほどこれは取って置きだ、成瀬は冷汗を流しながら素早く小型光線銃を構えた。
大男は膝に溜めを付けると、成瀬の発砲と同時に真横へ駆け出した。その体格からは予想もできない素早さで成瀬の光弾を回避する。成瀬の焦りもあり、発砲したすべてが一瞬前まで大男の蹴り足があった地点に吸い込まれた。着弾した光は床面を削り消滅する。大男が走りながら拳銃をこちらに向ける。
大男の発砲。たまらず成瀬は転がりながら回避、まだエネルギーの残っている拳銃を投げ捨て、虚空から新たな銃を取り出した。白を基調とした流線型のデザイン、サイズは大き目で銃口が傘のように広がっている。
目を離した隙を突き、巨漢が直線的に走り迫る。
「これなら――」
体勢を整える。動かぬ左手は無視し、右手のみで巨漢に照準を向けた。
放射状に細かな光弾を発射するそれは、先の光線銃と比べればはるかに動く対象に当てやすい。
「どうだ!」
発砲。
直後、大男が跳躍した。先ほどまで大男がいた床面が驟雨でも浴びたように捲れかえる。大男の跳躍力は常人をはるかに超え、立ち上がった成瀬の頭上を通り過ぎる。驚愕しながらも成瀬が振り向くが、着地の際に繰り出された巨漢の後ろ蹴りが少年の腹を捕らえた。腹部で生々しい音が鳴り、その刹那経験したことのないスピードで吹き飛ばされた。飛距離は3mを超え、屋上の床を転がりながら柵にぶち当たり停止する。
上体を起こそうとし、吐血。体が言うことを聞かない。必死に立とうと力を振り絞るも足は動かず、成瀬にできたのは柵に背を預けることだけだった。
腹を確認するとあばら骨が折れていた。横隔膜をやられたのか呼吸も満足にできない。やがて成瀬を大きな影が覆った。
見上げると、銃口。銃を握るのはもちろん大男で、脇には金髪が嫌な笑みで立っていた。
「馬鹿な奴。お前が組織に近づかなけりゃこんなことにならなかったのによ」
成瀬は何か言おうとするも、もごもごと籠って満足に声にならなかった。
「いたぶるのは趣味じゃねえ。死にな」
金髪が手で合図を送る。それを確認した巨漢が無表情のまま指に力を込めた。
その時、屋上を一つの影が駆け抜ける。
「やれ! ルシア!!」
「指図しないでください」
一瞬で大男の背後に肉薄するルシア。大男が振り返る隙も無い。彼の上体はあっけなく下半身と切り離された。大男が絶命し、その姿が幻に戻り消えていく。
「そんな……」
金髪がへなへなと腰を抜かす。まさかこちらに仲間がいるとは思わなかったのか、圧倒的有利な態勢を崩され声も出せない。
「無事の様ですね」
「お前、ユウトの……」
ルシアが剣をしまう。成瀬の怪我を確認すると、すぐに両手を伸ばして治癒術を発動させた。徐々に傷がふさがり、痛みが引いていく。全快には時間がかかりそうだが、今は止血で十分だ。
成瀬が視線を向けるとあけ放たれた屋上の出入り口から二つ目の人影が飛び出した。
かなり足が遅い。やっとの思いで成瀬の元にたどり着いたその影は、再会を喜ぶ前に勢いを活かして金髪の顔面にドロップキックを叩き込んだ。
「ぶべっ!!」
金髪が白目を剥く。
「いって! 膝擦りむいた!! 膝!!!」
「ユウト……お前家に帰ったんじゃ」
痛がりながら戸増は金髪の気絶を確認するためにビンタをかます。念のためもう一度かましたところで後ろから「あなた弱ってる敵にはめっぽう強いのね……」とあきれた声がかかった。
完全に気絶した金髪を捨て、戸増が通信機を成瀬に投げ返す。
「連絡しといたぜ。後始末はしてくれるってよ」
安堵した様子の成瀬に肩を貸す。しっかりとお互いの肩を抱き、足に力を込めて立ち上がる。ルシアが後ろからついてくる。あとは帰るだけだ。三人の緊張が緩和したその時だった。
乾いた音が屋上に響く。
完全に虚を突いた攻撃。戸増は自らの体を見直すが傷は見つからない。ならばと成瀬を見たところで、後ろでルシアが倒れる音がした。彼女が持っていた剣が床に転がり音を立てる。
「ルシア!」
すぐに駆け寄る。どうやら即死は免れたようで、ルシアが額に脂汗を溜めながら自身の太ももを抑えている。見覚えのある傷に息を呑む。着弾した太ももにはきれいな風穴が空いていた。焼け焦げた傷跡は出血すら許さない。つん、と鼻を突く肉の焼ける臭いが漂った。
「油断、しました……」
苦虫を噛み潰した様な表情でルシアが呟く。すぐに治癒術を行使するが、いつもより再生が遅い。痛みで集中できない様だった。追撃に備えて戸増は金髪を見るが、やつが起き上がった様子はない。
「やってくれましたね、君たち」
それは第三者の声だった。それでいて聞き覚えがある。三人が声の方向を見る。屋上の出入り口では、ドアに背を預けた一人の男が立っていた。右手に握る銃から煙が上っている。
「田村先生……」
「あんた、死んだんじゃ……」
生徒の質問に教師は答えない。おやもう弾切れか、と笑いながら光線銃を投げ捨てた。成瀬が舌打ちし、教師を睨み付ける。
「……あんたが真の親玉ってわけか」
「親玉? 私はただのバックアップさ。万が一彼が負けた時のためのね」
金髪を見ながら、大仰に田村が両手を広げる。その動作にでっぷりとした腹が揺れた。禿頭にわずかに残った無精髪が風に揺られる。
「正直、戸増君まで能力者とは驚きましたが」
醜く笑うその顔に、戸増は心から嫌悪した。少女を笑いながら撃てる男がこの世にいるのだと悲しくもなった。そしてその少女が戸増の特別な存在であることに拳が震える。恐怖ではない、それは純粋な怒りだった。
「戦うぞ、戸増」
「……ああ。同じ目に合わせてやる」
自分ですら聞いたことのない低い声。しかし戸増の怒りを意に介さず、未だ田村はニタニタした表情を崩さない。風に揺られた側頭部の髪をかき上げる。その仕草で幾本かの毛が風に乗って舞っていく。
「こういうのはどうでしょう? 学校に不審者が入り込み、生徒二人が殺された。奇跡的に生き残った私がその犯人を取り押さえた……というのは」
「奇跡と悲劇の熱血教師……新聞に載れるかもしれませんね」
成瀬が皮肉りながら生み出した大型光線銃を構える。
「俺たちに倒されなければ、ですが」
「面白い。さあ、補修の続きを始めましょう」
直後、田村が姿勢を低くして突っ込んでくる。しかしその体格からかスピードはない。どむどむと音を立てて近づく男に照準を合わせるのは容易いことだった。成瀬が引き金を引く。
光の豪雨。その光景に戸増が覚えた感想だった。眩い程の光の帯が放たれ、教師の下に殺到する。その威力は戸増にも想像がついた。出血すら許さない熱と貫通力。連射に巻き込まれた屋上の床が蒸発し、焦げ臭い濃霧が辺りを覆う。
その場にいる誰もが終わったと、そう思った。田村を除いては。
「……やれやれ。日焼けしてしまいますよ」
霧の中から姿を現した巨人はそう呟いた。スーツは破れ、彫刻のように鍛え上げられた肉体が浮き彫りになっている。特に上半身の発達が著しい。顔を守るために交差させたのか、突き出された二本の豪腕はそれぞれ丸太を彷彿とさせる逞しさだ。
「誰……?」
戸増が思わず疑問を投げかける。上半身に対しての下半身のミニマム感には見覚えがあった。まさか、と思わず唾を呑み込む。
突然現れた、黒光りした肌を持つその紳士はその問いにサイドチェストで応える。全身の筋肉が唸りを上げ、動きの切れに大気の振動を確かに、感じた――。
フサフサの髪を揺らしながら男はこう告げる。私は物理教師田村だ、と。鋼の筋肉を纏うフサフサ男は確かにそう言ったのだ。
今の田村は身長3mを超えている。もはや人間の枠を超えていた。グリンバルムで言えばオーガやサイクロプスと言っても過言ではない姿で少年二人に突貫する。
そうか、と戸増は記憶を辿る。教室で田村は至近距離でサブマシンガンを打ち込まれ、4階の高さから落下した。それでもダメージを感じさせずに屋上までやって来る程の頑丈さが奴にはあるのだ。
「銃が効かない相手とどう戦えってんだ!!」
投げやりに成瀬が叫ぶ。迫りくる巨人を茫然と見つめ、戸増も後ろのルシアに語り掛ける。
「ルシア、傷が癒えるのにどのくらいかかる」
「まだしばらくは……」
見ればルシアの傷はまだ半分も塞がっていない。苦悶の表情で必死に施す治癒術も焦りと痛みで安定しない様だった。
「戸増、俺たちで何とかするしかない」
成瀬の言葉に渋々頷く。そうしている間にも巨人が迫る。そのスピードは太っていた田村とは比べ物にならなかった。これ以上接近されるのはまずい。
「剣借りるぞ」
戸増がルシアの剣を拾う。細身の剣は妄想で振ってきた長剣より遥かに軽いはずだが、実物のそれは確かな重量を感じさせて右手に収まった。
「戸増、無理だと思ったら非常階段から逃げろ」
そう告げると成瀬は駆け出し、給水タンクの影に滑り込みながら田村に光弾を打ち込む。田村の体が傷つく気配は見えないが、連射の勢いに押されて近づけない様だった。
確かに戸増にも非常階段は目についていた。しかし今立っている場所は屋上の奥。校舎階段も非常階段も田村を挟んで対角線上に存在する。あそこまで移動するには何とかして田村の動きを止めるしかないだろう。
その上戸増には、今逃げるという選択肢はない。後ろでしゃがみ込むルシアをちらりと見ると、彼女を守る様に自身の影に隠す。
戸増は思考を巡らせる。大型の魔物と戦う定石は――。
「成瀬、目を狙え!」
「了解!」
指示を受けた成瀬が照準を変える。直後田村の頭部に光弾が降り注いだ。さすがの田村もこれには怯んだようで、顔を抑えながら後ろによろめく。
田村に生まれた隙を突き戸増が突っ込む。そのままの勢いを乗せて田村に肉薄し、レイピアを土管の様な脚部へ向けて袈裟に斬りつけた。
グリンバルムの素材と技術で鍛え上げられた剣の切れ味は、現実世界のそれとは比べ物にならない。内腿から外腿まで一文字に切り裂かれた田村が後退する。うめき声を上げながら鮮血のほとばしる傷口を抑える。
「傷が入った!」
成瀬が歓喜の声を上げる。
二太刀目を浴びせようと戸増が振り被るが、直後がむしゃらに振り回された剛腕を避けるために後ろに倒れ込んだ。直後田村の強靭な隋力で巻き起こされた突風が周囲を駆け巡る。叩きつけられた拳は容易く床を砕き、つぶてが四方八方に飛び散った。その内いくつかを被弾した戸増がたまらず後退する。すぐに傷を確認するが、幸いかすっただけで致命傷にはならなかった。
「なんて威力だよ……」
床に空いたクレータを見つめ、思わず呟く。
「授業で何度も説明したでしょう……」
田村がゆらりと立ち上がる。戸増の身長は決して低くはないが、その視線上は田村の太ももの高さだった。あまりにも巨大な怪物。しかし勝機はある。戸増は田村の状態に目を向けた。
敵は今万全の状態ではなくなった。成瀬の光弾によって片目はつぶれ、戸増の斬撃で左足の動きはぎこちない。
問題は田村もまだ余裕を保っていることだった。
「F=……」
田村の剛腕が振り被られる。まずいと直感で判断し、戸増が全力で後ろに下がる。
「ma!!」
残像が残るほどの速さで剛腕が振り下ろされる。その拳はもはや爆発だった。床への着弾と共に衝撃波を発生させ、田村の足元に広がるクレーターを呑み込み、さらに巨大なクレーターを出現させる。十分な距離まで下がったはずの戸増の両足が衝撃でわずかに浮いた。瓦礫と呼べるほどのつぶてが飛散し、先ほど感じた勝機はその一瞬で儚い希望となり打ち壊された。
田村の猛攻は止まらない。左足での移動が困難だと判断すると、周囲に散らばる瓦礫を巨大な手でわしりとつかむ。戸増の身長とほぼ変わらない直径を持つそれを振りかぶると力を溜め、何の躊躇いもなく生徒に向けて投げつけた。的にされたのは目の前の戸増ではなく成瀬。
高速で射出された瓦礫を回避するのは不可能に近かった。成す術もなく身を屈ませた成瀬だったが、幸か不幸か瓦礫は彼の隠れていた給水タンクに着弾する。爆発と共に水柱が空高く吹き上がった。ほっととするのも束の間。逃げ遅れた成瀬に壊れた給水タンクが倒れ込む。
悲鳴と共に屋上を地響きが揺らす。
目を凝らして見れば、成瀬の下半身はタンクの下敷きにされていた。成瀬は呻きながら必死に力を込めるが、タンクを動かすことも体を引き抜くこともできない。
「これで戸増、君だけです」
田村がにやりと笑う。不自然な程白く均一に並んだ歯が不気味に輝いた。
迫力に気圧される戸増。知らぬ内に尻もちを着いていた足に鞭を打ち、無理矢理にでも立ち上がる。その間に田村は片足を引き吊りながら巨体を揺らし迫っていた。
振り上げられる大木。脳裏に焼き付くような気味の悪い笑み。突風と共に振り下ろされる腕。戸増は回避のために全神経を集中する。驚く程ゆっくりと流れる視界の中、腕の軌道上に自身の胴が入ることを確信して青褪める。
迫りくる死を覚悟する瞬間、田村の腕に着弾した光がわずかに軌道を反らす。後方から放たれた光弾。動けぬ体で必死に繰り出した成瀬の援護射撃だ。結果、すんでのところで戸増は直撃を回避した。遅れて来た嵐のような鎌鼬に吹き飛ばされる。
「X=(V0 COSθ)t」
田村の満足げな声を遠く感じながら、戸増は放物線を描き床に叩きつけられた。ごろごろと転がった末、やっと止まったのはルシアの目の前だった。今にも泣き出しそうなルシアの瞳。彼女の足はまだ回復しきっていない。それを確認すると、震える腕に必死に力を込めて立ち上がろうとするが、戸増の体はあっけなくぺしゃりと倒れてしまう。低い視界の中で成瀬が力尽きているのが見えた。気絶か、それとも……。
「逃げて下さい……」
背中越しにルシアの悲痛な声が聞こえる。
「何言ってんだ……。さっきは逃げるなって」
「状況が変わったんです。私はまだ動けません……。ナルセももう限界でしょう。考えてみれば、一般人のあなたがここまで来ただけですごいことなんですよ」
戸増は体が暖かい光に包まれるのを感じた。ルシアが自分に割くべき治癒術をかけているのだ。戸増は慌てて止めるよう指示するが、彼女は構わず回復を続ける。
「約束したじゃないですか。私はあなたの命を守るって」
でもごめんなさい。ここまでみたいです。言って、彼女は笑う。今にも消えそうな儚い笑み。
「さあ、行ってください。……ユウト」
逃げる? 今の田村は満足に動けない。確かに逃げれば助かるかもしれない。運良く成瀬の仲間に拾われれば匿ってもらえるかもしれない。上手くいけばその後田村を倒してくれるかもしれない。
ここまで来て甘い囁きが戸増の逃げ腰に指をかける。それでも、戸増は自分に叱責して立ち上がった。
「今でも怖えよ……。正直逃げたくてたまらない」
握る剣の柄に力を込める。フラフラになりながら立ち上がる少年にルシアが息を呑んだ。
「だったら……」
「でもな、俺だってあの時誓った……お前を死なせないってな」
体はガタガタでも戸増の信念は揺らいでいなかった。あの男なら逃げない。たとえ負けるとわかっていても、ユークリッドなら潔く立ち向かうだろう。そう思った。
体が勝手に動く。いつもよりも体が軽く感じられた。
「やめて!」
後ろでルシアの甲高い声が聞こえたが、それを無視して駆け出す。
「熱心な生徒を持って私は嬉しい!」
田村が両手を広げて迎え撃つ。その胸にただ愚直に戸増が突進する。田村は懐に入った少年に向け、まるで羽虫を潰すかの如く両手を打ち合わせる。
半分死を覚悟しながら、少年はスライディングで田村の足元に滑り込む。背後で花火が爆発した様な音が響き渡った。拍手の風圧に押され、勢いを乗せて股下を潜りながら右内腿を斬りつけた。
追撃に備えて振り返る。田村は両膝を着いていた。両足の傷から鮮血が漏れている。
このチャンスは逃せない。振り返り体勢を立て直そうとする田村にとどめを刺すべく、戸増は飛んだ。まだ立ち上がる途中の田村と目が合う。狙うは首筋。レイピアを振りかぶる。見開かれる田村の瞳。戸増は収縮した筋肉を一気に解放する。その腕を全力で横一文字に振り切った。
さんっ、と肉を斬るには軽い音が耳に届く。剣が迫る直前、田村は首を傾けて紙一重で回避した。遅れた髪がレイピアによって切り裂かれる。髪は根元からごっそりと削られ、そよ風に揺られて校庭へと消えていった。
戸増が着地する。最大のチャンスを逃したことに表情がゆがむ。巨人にすぐに動く気配はない。ただそっと、自身の髪を触っている。フサフサにボリュームのあった彼の髪は、今は右耳からつむじまでを一直線に刈り取られていた。巨人の顔が真っ赤に染まり、手足が震えだす。
「君は、君たちは……。この姿からも髪を奪うのか」
不穏な雰囲気を嗅ぎ取った戸増。しかし逃げることは叶わなかった。一瞬にして田村が距離を詰め、戸増の胴体を掴んだからだ。思わずレイピアを取り落としてしまう。田村の両足からの流血がさらに激しくなるが彼は気にしない。巨大な右手で包み込んだ戸増をそのまま持ち上げる。
戸増は抵抗を試みるが、単純な筋力の差でどうすることもできなかった。徐々に自身を覆う握力が強くなっていくのを感じる。内臓が悲鳴を上げ、骨が軋み上がる。息ができない。
「大変なことをしてくれたな、君は」
目の前に田村の顔が迫る。彼にとって髪はどれほど大切なものだったのか。額には太い血管が這い、どくんどくんと鼓動しているのが見えた。顔は蒸気が生じるほど紅潮している。怒りに呑まれぬ様、必死に冷静になろうとしている様な、そんな葛藤が見えた。
「……徐々に力を込めて潰してあげますよ」
田村の臭い鼻息が顔にかかる。戸増を押し潰さんとする圧力は増し、抜け出そうにも体が言うことを聞かない。昔見たリンゴが握り潰されるCMを思い出す。今度こそ終わりか、戸増は目を閉じた。
「その汚い手を離しなさい」
鈴の様な凛とした声が響く。直後戸増は床に落下した。叩きつけられたのではない。ただ自然と重力に引っ張られて落下したのだ。 目を開けてみれば、相変わらず自らを包む田村の手。しかし力が微塵も入っておらず、ごつごつとした指はだらんとしなだれていた。うめき声に目を向ける。
視界に移るのは右腕が無くなった田村と、レイピアを握るルシアの姿だった。あの頑丈な田村が致命傷を負っている。
「お待たせしました」
女騎士が戸増を守る様に前に立つ。彼女の足の傷は塞がっていた。田村は膝から崩れ落ち、切断された右手の断面からは噴水の様な血が噴き出している。ルシアが剣先を田村に突き付ける。
「まだ続けますか?」
その言葉に田村はすぐに体勢を立て直すと、右腕の筋力に力を込める。噴き出していた血がぴたりと止まった。筋力止血だ。
その姿に降参の意志はない。喪失した右腕を嘆くこともなく、瞳にはまだ闘志が宿っていた。雄叫びを上げながら無傷の左腕を振りかぶりルシアに迫る。
巨人と少女。身長だけ見れば少女の体は巨人の半分にも満たない。横幅を比べればその差はさらに広がる。一目見ればわかることだった。少女は武器を持っているとは言え、これはゴリラと猫が戦う様なものだろう。だがそれは外見だけの話だ。
田村が剛腕を振り下ろす。傷ついているはずの体で繰り出される必殺の拳。しかしその拳はルシア捕らえることは出来なかった。
田村が捕らえたのは虚空。ルシアはいつの間にか田村の背後に移動していた。かちりとレイピアを鞘に納める音が響く。
直後、田村から鮮血が噴き出した。あの一瞬で切り裂いたのか、傷は大きい物から小さいものまで体中を何か所も覆っている。田村は意識を失っていた。徐々にその体が傾き、校舎を揺らしながら床に倒れ込んで沈黙した。
安堵した戸増。膝の力が抜けてかくんと落ちるところを、ルシアが抱き止めた。
「大丈夫ですか、ユウト」
「死ぬかと思った……」
気を失いそうになるほどの疲れを感じる。生き残ったのだ、今はただその実感が心地良かった。
成瀬の状態は思ったより軽傷だった。すでにルシアに治癒され、歩ける程元気を取り戻している。
二人の少年は屋上の端に寄り、校庭を見下ろしていた。背後ではようやく到着した成瀬の仲間達が作業を行っている。作業とは田村と金髪の搬送と、傷ついた建築物の修復だ。それに特化した能力者がいるのか、作業はスムーズに進行している。
作業員たちを傍目に、戸増は成瀬に振り返る。
「あいつらはどうなる?」
襲撃者の二人はどちらも命に別状はなかったらしい。作業員たちの会話から聞こえて来た情報だ。
「施設に送られる。俺も詳しいことは知らないが……」
そう言うと成瀬が真剣な目で戸増に向き直る。
「後で全部話すと言ったな」
首肯する。戸増自身自らに降りかかった状況を未だに理解しきれないでいた。消えた死体、銃を生み出す親友、体が変化する教師、そしてルシアの存在。
戸増の理解できる様、成瀬がいつもよりゆっくりとした口調で説明する。
「俺たちは想像を現実に反映できるんだ。世界に影響を与える夢……世界夢って呼ばれてる」
「……じゃあ大砲とか出せばよかった。筋肉田村ももっと楽に倒せたかもな」
戸増の軽口に成瀬は首を振る。
「この力はそんなに万能じゃない。よほど作り込まれたイメージじゃないとな」
だから驚いたよ、あんなに強い味方をお前が呼び出すなんてさ。と成瀬は笑った。
「お前も協力してくれないか? 能力犯罪を阻止するために」
成瀬の勧誘に、戸増はすぐに答えが出せなかった。
「何話してるんですか?」
背中から凛とした声がかかる。
成瀬は立ち上がると、また後で連絡する、と言って去っていった。校舎に入る前、こちらに親指を立ててにっこり笑う。
振り返るとルシアがいた。彼女は戸増に近づくと、その両手を強く握る。
「最初あなたを見た時、頼りない人だなって思いました」
青い瞳が戸増を覗く。若干へこんだ戸増は苦笑いを浮かべてしまう。
「ナルセを置いて逃げようとした時、本気であなたを軽蔑しました」
「うん……」
結果はどうあれ、あの時階段で逃げようとしたのは本当だった。今でも戸増は自分を許せない。あの時ルシアを傷つけたことも含めて。
ルシアは握る手に力を込める。
「それでも最後は、逃げられたのにあなたは立ち向かいました」
「約束したからな」
「あなたは弱いかもしれない……でも、心はやっぱりユークリッドなんですね」
ルシアがにこりと笑う。成瀬は気付く。少女の体が徐々に透けて、空気に解けていることに。
「また会えるか?」
戸増は問う。ルシアはもちろん、と頷いた。
「あなたのピンチには必ず駆け付けます。私も約束しましたから」
でも、あまり危険なことはしないで下さいね。そう言うと、彼女は光に包まれて消えていった。
辺りは茜色に染まっていて、夕日が山の谷間に沈んでいく。少年は振り返ると、晴れやかな気持ちで階段へと駆け出した。
最後まで読んでいただいてありがとうございます。
寝る前の妄想って楽しいですよね。でも意外な展開ってやっぱり作りづらいと思うんですよ。
そこで今思いつきました。数字にあらかじめ展開を箇条書きしておいて、寝る前にサイコロを振って展開をランダムに決めるのはどうでしょう。誰か実践してみてください。
それでは、皆様の妄想に幸あれ――!