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シェイラは書類の入った封筒を抱えたまま王の執務室を辞した。
持ち出した書類はライドゥルの王都に置かれた大使館からの報告書で、隣国の情勢について分析されたものだった。そのうちの一部、ライドゥルの新聞の記事をスクラップしたものは今夜中に訳す予定だ。
政治、商業関係のものばかりだが、一般人向けの文章は比較的容易で、さほど時間もかからない。
学術院に戻れば、卒業式の準備が続いているだろう。
国王とのやり取りがなければ、仕分けだけで終えた書類も進捗しただろうし、宰相府にも立ち寄る時間もあったのにと残念に思うが、残された時間は少ない。
王太子の婚約者としては王妃への挨拶をしていくべきところだが、とてもそんな気には慣れないし、彼女の方も嫌がるだろう。
何せ、男爵令嬢に首飾りを贈るほどに、シェイラは嫌われているのだ。
それで構わなかった。
シェイラにとってはただただ王命だった。
お前など必要ないと言われる日を期待していた、決して言葉にしたことはないけれど。
が、アーデルベルトはシェイラという駒を捨てる気はないらしい。
王の子を産む覚悟はあるか。
覚悟はないわけ、とは言えない。
エルンストの妻となり、並び立ち、子を産むことを覚悟していたシェイラにとって、エルンストがアーデルベルトに代わることなどさしたることではない。
親子ほどの年の差も問題ではない。
アーデルベルトは民衆に愛される国王だし、平時にあっても決して政務を疎かにしない。
今の境遇を考えれば、寧ろ喜ぶべきことだろう。
分かっている、嫌というほどに分かっている。
最初の婚約は5歳の時、大人の事情によりその婚約は破棄され、新たな婚約者が充てがわれた。
また同じことが繰り返されるだけのこと。
貴族の子女に自由な恋愛など許されない。高位の貴族であればあるほど、より国と家の間で雁字搦めになるのが運命だ。
未だ婚約さえ許されないソフィアだって、耐えているのだから。
王の執務室を辞し、政務が執り行われている北宮から出たあと、シェイラは王太后宮こと西宮へと足を向けた。各宮殿は回廊でつながれているが、本来のルートを離れ、庭へと降りる。
庭を回った方が時間がかからない、人に会うことも少ない。
庭に移動するとともに足早となり、木々の間を抜けていく。
時間がないとは言え、王太后カテリーナに対し、礼を失するわけにはいかなかった。カテリーナはエルンストの婚約者になったシェイラに王妃としてのすべての教育を施してくれた、もう1人の母と慕う存在でもある。
そう、母だ。
歩きながら、シェイラの喉が鳴った。
だめだ、耐えろという叱責と、だから人目を避けているのではないかという開き直りのような感情が、頭の中を混乱させる。
足取りが段々と遅くなり、やがて、止まる。
ちょうど、南宮の庭に入ったあたりだ。
王太后宮の女官ならば、見つかったところで目溢ししてくれるだろうという油断もあった。
四阿にたどり着き、石のテーブルに荷物を置き、その上に手をつき、それを頼りになんとかしゃがみこむのをこらえる。
片方の腕に寄りかかりながら、もう片方の手で制服の内ポケットを探す。
ぶつかった柔らかな布の感触に息を吐き、誰もいないのだからとそっと取り出す。
保存用の小さな巾着の中、さらに上質なクロスで包んだそれ。
王に指摘され、けれど、取り上げられずにすんだもの。
丁寧にクロスをめくり、中から青い石を取り出す。
傷1つない、見るからに希少なものと分かるサファイヤは、ごくありふれた革紐が通されている。
シェイラはそれを首に通したことも、腕に巻いたこともない。
けれど大切に、身につけてきた。
どうか、あの方がすこやかでありますように。
どうか、あの方が幸福でありますように。
どうか、あの方が私を忘れないで…。
「殿下」
分かっている、理解しているし受け入れてもいる。
逃げ出したいと思わないわけではないが、シェイラは今の地位を捨てられない。
これはこの国に貴族の娘として生まれ落ちた者の義務だ。
そして。
より高貴な者として、より多くに責務を持って生まれ、同様にその立場から離れられないだろう人から、これ以上遠くに行きたくない。
同様に大人たちによって決められた婚約だった。
それでも12年前、幼いシェイラは恋をした。
いや、恋なんて自覚はなかった。
自覚したにはもっと後、エルンストの婚約者となった後だ。
離れて改めて、ともに過ごした幼い日々が幸福で、かけがえのないものであったと知った。
今も遠目にでも見かける度、公式の場で声を聞く度、ほんの数言でも言葉を交わすことがかなう度、胸がさざめき、訴える。
シェイラは、唯一つながれた絆を握りしめる。
こみ上げた感情に、ひとすじ涙がこぼれる。
名を呼ぶことさえ憚られる今の自身の立ち位置が悲しい。
「王弟、殿下」
「マティアス侯爵令嬢?」
思いもかけず戻ってきた声に、シェイラの肩が憐れなほどに震え、支えとしていた腕が力を失う。
「シェイラ!」
けれど、崩れかけた上半身は、石のテーブルに叩きつけられることなく支えられる。
隣でリオンの産んだ子犬のディーンが一哭きし、制服のスカートにまとわりつく。
呆然と見上げながら、何故ここにこの人がいるのだろうとぼんやりと考える。
支えられた腕の強さが、かつて自身が知るよりずっと強くて混乱をする。
当然だ、5年前に軍属し、対ライドゥル国境の防衛の責務にある人が、強くないはずがない。
「泣いているのか」
剣を握る硬い皮膚が、そっと、壊れ物にふれるかのように、シェイラの頬をたどる。
シェイラは言葉を失い、視線を落とす。
大きな手が、不自然に握り締められたシェイラの右の拳を取り上げる。
この拳を解いてはならないと思うけれど、力が抜ける。
こぼれ落ちた守り石を、同じ色の双眸が見つける。
「ジークヴァルト殿下」
観念したように名を呼び、途方に暮れたようにシェイラは緩く笑んだ。
細く細く冷たい、雨が降り出した。




