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婚約者として初めて対面した日、気持ち悪いと言ってシェイラを嫌ったエルンストは、学術院の卒業年となる18になっても変わらなかった。
いや、悪化したと言ってもいい。
1歳年下のシェイラが学術院に入った頃は、婚約者として認めずひたすら無視していた。王子という立場から彼に憧れる者は多く、その中でも可愛らしい者を好み近づくことを許していた。それでも、無視こそ出来ても婚約者としてシェイラという重しの必要性をかろうじて理解していた。子爵家出身ということで王妃でありながらも貴族夫人達の支持を束ね切れてないマルグリッドをずっと見てきたエルンストは、シェイラと自身の妃として表のことをさせ、後宮に気に入った側妃を入れればよいといったことを考えていた。
エルンストは自身の側妃、真の妃をなる女性を探していた。
また、シェイラの方もそんな彼の行動を否定しないどころか、推奨さえしていた。
王命により婚礼が命じられれば受け入れる覚悟はあったし、そうなった時のための教育も真面目に受けていた。
最初は週に三度だったが、学術院の後半、4年生になる頃からは週に五度も王宮に呼ばれるようになっていた。礼儀作法、話術、歴史、ダンスや楽器など、将来の王妃としての立ち振る舞いの講義を受ける一方で、本来のマティアス侯爵家の人間らしく内政や外交、語学についても貪欲に吸収し、本来であれば王太子であるエルンストが請け負うべき仕事の一部を婚約者の立場にして手伝うようになっていた。
通常はあまりないことなのだが、フェルディナンド=マティアス直々に叩き込まれたシェイラのバランス感覚をアーデルベルトが重宝がったのである。それは、王妃としての才覚に乏しいマルグリッド、王宮に戻ら王太子としての講義もさぼり気味、遊ぶことを優先するエルンストという、決して褒められるべきものではない家族の事情が後押ししたのだが、不幸なことにアーデルベルトがシェイラを呼ぶたび、エルンストやマルグリッドとの関係を疎遠にした。学術院での講義こそ出席していたものの、放課後のほとんどの時間をエルンストとは別に王宮に拘束されるようになったからだ。
エルンストは当然面白くはなかった。それでもエルンストとの婚約関係は続いていた。すっかり義理の娘として利用しているアーデルベルトはもちろんのこと、家庭的なマルグリッド、目の前の女性と遊びを優先させるエルンストにとっても、シェイラに利用価値があったからである。
そんな均衡に影が差し始めたのは、エルンストが最終学年である6年生、シェイラが5年生となった頃だった。
「シェイラ」
学術院の廊下を早足で歩いていたシェイラは、自身が気づくより先に前方から歩いてきた女性に声をかけられ、歩調を緩める。
「あなたは本当に、いつも忙しそうね」
「ソフィア様」
またそんな硬い顔をしてと頬を撫でられ、表情を崩す。
ソフィアはカルロッタ伯爵、すなわち次期リッカ公爵の令嬢で、シェイラにとっては最も親しい女友達である。
5年間ずっと同じクラスだし、互いの家の仲のよさもある。
更には、互いの微妙な立場が2人の友情を深めたというのもある。
シェイラが王太子の婚約者であるのに対し、ソフィアは国内でも選りすぐりの名家の令嬢として王女の代わりのような扱いを受けている。
王家には王女がいない。万が一、もし万が一この国に危機が迫った時、例えば人質のような立場で他国の花嫁となる可能性を彼女は引き受けている。
だから、17歳の今も婚約者はいない。
アーデルベルトに新たに王女でも生まれればまた変わるのだろうが、今の状況ではもう何年かは婚約者は不在のまま、シェイラほどではないとは言え頻繁に王宮に上がり、王族としての教育も受けている。
年頃の女性としては、異性に心ときめかすこともできない不遇な立場だ。まだ何年も婚約者さえ決められない不安定な状況をシェイラは気の毒にも思っている。
以前、実際に問うたことがあったが、ソフィアは何事もないかのように切り返してきた。
いずれにせよ親の命令で婚約者を決められるのなら同じだわ。
それより、あのボンクラを押し付けられたあなたよりはましだと思っているわよ。
「ソフィア様、それは」
「あら本当のことよ」
ボンクラと再び告げにやりとする。
成績は中の中。あれだけ遊んでいて中ならば本来の能力は高いのかもしれないが、エルンストはとかくわがままで集中力が続かない。勉強も嫌いだし、剣術の稽古もさぼり気味である。生まれた当初は王太子になるような立場ではなかったのだから仕方のない部分もあるが、父王のアーデルベルトとは比べようもない凡庸、というより努力を怠る後継者だった。更に側妃を探すのだと王太子にして後宮のことばかりを考える女好きとなのだがら、確かにボンクラという言葉がぴったりかもしれない。
「殿下の婚約者にされるくらいなら、王女のスペアの方がずっといいわ」
「ソフィア様…」
「10年もしないうちに適齢期は過ぎるもの、後は運だわ」
そうしたら自由に結婚が出来るわ。相手がいればだけど、ね。
意味深な視線を向けられ、シェイラはおし黙る。
カルロッタ伯爵はリッカ公爵の嫡男、すなわちカテリーナの姪、ジークヴァルトとは従兄弟にあたる。
ソフィアは友人では唯一シェイラが胸の内に隠しているものを知っている。ソフィアの視線に憐れむような色彩が帯びるのに気づき、苦笑した。
「貴族の令嬢ごときが陛下に逆らえるはずもございませんわ」
ほんの少し本音を織り交ぜて告げると、笑ったらこんなに可愛いのにねと、ソフィアはむぎゅりとシェイラの頬を引っ張る。
もちろん強い力ではない。
「ソ、ソフィア様?」
「エルンスト殿下ももったいないこと」
シェイラはまばたきをする。無意識に右目を覆う前髪に手をやると、隠された碧が困ったように細められる。
「今更ですわ。後宮に側妃を入れ、多くのお子を作られればいいのです」
「辛辣だこと」
「そうすればソフィア様も早々に自由に解放されますわ」
「そうねぇ」
つぶやいたソフィアは、シェイラの胸元へと手を置く。冬用の制服の厚い生地では分からないが、シェイラが胸の内ポケットに隠し持っているものをソフィアは知っている。
殿下に不要と言われました。けれど私には返せないのです。もう少し縋らせていて欲しいのです。そう、目の前の友人が泣きじゃくったのは、彼女達が15の頃だった。
シェイラはエルンストと結婚する時までには返すと言っていた。結婚してなお持っているのが許されるものではないとも言っていた。
覚悟はしている。
けれど、隠された右目より理知的なまなざしを持つ左のアンバーは、エルンストを見ている。
婚約者を見るあまい視線ではなかった。寧ろすべてを暴き見定めるかのような双眸は、17の少女が持つものとも思えない。
行きましょうとシェイラを促しながら、ソフィアはそっとため息をついた。
シェイラが手厳しい言葉を放つのも無理ないことだった。
エルンストが最終学年に上がった春、1人の少女が5年生に編入してきた。2人とは別のクラスだったが、5年生という微妙な時期の編入生は一部で噂になった。
名前をアリア=カラフェといった。カラフェ男爵が平民の女性に産ませた娘を本家に引き取っての編入とのことだったが、貴族社会においては外聞がよくないもののままあることである。一介の男爵令嬢の編入など一時噂になるくらいのものだったが、このアリアという令嬢はそれだけに終わらなかった。
ピンクブロンドの巻き髪に赤い大きな瞳。そして、制服をはちきらんばかりの豊かな胸は、院内の男子生徒の一部の心を鷲掴みにした。
男爵も娘が学術院で身分の高い男をつかまえるのを期待し本家に入れたのかもしれない。
が、男爵とて予想外だっただろう。アリアは事もあろうにエルンストとその取り巻きに近づき、王太子のお気に入り、側妃候補の筆頭、いや、王妃候補とさえ噂されるようになったのである。
3月に学術院は卒業の季節を迎える。
2月と言えば、すぐ下級生である5年生を中心に卒業式とその後の卒業パーティーの準備に余念がない。家の格式上生徒会の役職をたまわっているシェイラとソフィアもてんてこ舞いである。
「今日は何時までいられるの?」
「14時です、15時には宰相府に呼ばれています」
「相変わらず宰相閣下は人使いが荒いわね!」
「ソフィア様」
役職持ちと言っても副会長のソフィアと単なる委員のシェイラでは仕事の量が違う。それでも、多少ペースを落とすことを許されているが、週の半分以上王宮に通っているシェイラに卒業式の準備はやはりオーバーワークだ。ソフィアだけではなく生徒会長であるマリウス=レノもよく分かっているから、少しでも負担を軽くしてくれようとしてくれるのだが、卒業生である王太子の婚約者の存在は不可欠である。シェイラもそれが分かっているから18時には戻ってきますと返す。卒業生の家族だけでなく、国王一家を迎えてのパーティーは、文字通り成人貴族の門出で、その場のやり取りが以後の立ち位置の大きく影響を与えることも少なくない、重要イベントだ。
王宮で終えられなければ、一部の文書を持ち帰り夜寮で書けばいいだろう。ひとまず14時までにパーティー会場の花の手配を終えてしまわなければと業者が待つ院内の応接室に1人で移動していると、突然呼び止められる。
「シェイラ様」
語尾にハートマークでもついてきそうなあまい声に頭痛がした気がしたが、一度首を振り堪える。
その声の持ち主のためではない。
寧ろ、その背後。
「お前は相変わらず陰気臭い顔をしているな」
声をかけるより前に視線を落とし、礼を取る。
「せめてアリアくらい愛想よくしていればいいものを」
アリアとエルンスト、そして彼の取り巻き達だった。