ヘ音とト音
この世界に、新たなピアノが生まれました。
彼はまだちゃんと音を鳴らせませんが、今鳴らせる音を精一杯元気に鳴らしています。
名曲を奏でられなくても良い。
ただただ元気に真っすぐ強く成長してくれる事が両親の望みでした。
いつの日か彼が精一杯奏でる曲を聴けたらならどんなに嬉しいだろうか。
彼は両親に大切に育てられ、音の鳴らし方を教わりました。
何度も失敗しながら繰り返し練習をして、少しずつ音が鳴らせるようになりました。
次は簡単な曲を教わり、同じように何度も失敗しならが繰り返し練習をして、少しずつ演奏できるようになりました。
彼は上手く演奏出来る事が楽しくなり、そんな彼を見て両親もとても嬉しくなりました。
年月は過ぎ、成長した彼には友人が出来ました。
皆で色々な曲を演奏したり、時には競い合ったり意見をぶつけ合いながらも、お互いの演奏に刺激を受け、成長して行きました。
そして、お互いを大切に思い合う、とてもかけがえの無い相手が出来ました。
優しくささやくような美しい高音を奏でる彼女をとても好きになりました。
彼女と楽しく幸せな日々を過ごしていましが、彼はこんなことを考えるようになりました。
『もっと高い音が出せたなら、そうしたらもっと彼女に色々な曲を聞かせてあげられる』
そうしたらもっと演奏が楽しくなるのでは無いか。
彼はもっと上を目指し、自分を高めたいと考えました。
ピアノ達は鳴らせるオクターブ数(鍵盤の数)に違いがあります。
高音域の鍵盤が多いピアノ。低音域の鍵盤が多いピアノ。1オクターブしか鳴らせないピアノ。5オクターブも鳴らせるピアノ。
みんなそれぞれに違いがあります。
そして彼の鍵盤は、低音域の3オクターブ分の鍵盤なので、高音域が鳴らせません。
自分に鳴らせない音域を鳴らせるようになるには経験と資格が必要です。
勉強をして資格を取得することで鍵盤の数を増やしてもらい、今まで鳴らせなかった音が鳴らせるようになります。
彼は高音を鳴らせることを目指して毎日練習を繰り返しました。
それは少しずつですが、確実に成長していきました。
もちろん辛くて投げ出したくなったことや、挫折しそうになった時もありました。
けれど今よりもっと上手に演奏したい。
もっと楽しく演奏が出来るようになりたいと思い、練習を繰り返しました。
『怪しいピアノ』それは唐突に現れました。
「こんにちは。いつも君を見ているよ」
不協和音のような気持ちが不安定になる声で怪しいピアノは話しかけて来ました。
「毎日の練習も大変だね。色々と辛い事もあるのに良く頑張っているね」
普段であれば、そんな得体の知れない怪しいピアノは怪しく思い素通りする所ですが、日々の練習や上達しない不安や、疲れていたこともあり、つい耳を傾けていました。
怪しいピアノであっても、優しく労いの言葉をかけてくることを少し嬉しく感じました。
「君は毎日頑張っていのに、なかなか上達出来なくて楽しく演奏できない事に不満を感じているね。いつになったら上を目指せるんだろうって思っているね」
怪しいピアノは彼の心を見透かすように、不安に思っていることや心配事を次々と言い当てました。
気づくと彼は、怪しいピアノに日々の不安や不満を話し始めました。
「君は今よりもっと高い音を出したいと思っているんだね。
それなら私が力を貸してあげよう。私が君の望みを叶えてあげよう。
私は特別な資格を持っているんだよ。
その私が協力すれば、すぐにでも君が望む高い音を出せるようなるよ」
「何しろ私は特別な資格を持っているからね」
不協和音のような声であっても、優しく語り掛けられた彼の心は動いていきました。
今の自分に出せない音を出せるようになるには、本当は資格を取得しないといけない。
けれど怪しいピアノは『特別な資格』を持っていると言っているから大丈夫だ。
彼は怪しいピアノに協力してもらう事にしました。
きっと大丈夫・・・きっと何とかなる・・・
不安を紛らわせるように、何の根拠も無い自信で気持ちを誤魔化しました。
怪しいピアノは彼に言いました。
「始める前に大切な事を話しておかないとね。
それを聞いて不安に感じたり気持ちが変わったなら、この話は断ってくれて良いよ。
君の気持をしっかりと確認しておきたいからね。
君が欲しいのは高い音だね。
本来は資格を取得して鍵盤の数を増やすんだけど、特別な資格を持っている私でも鍵盤を増やす事は出来ないんだよ。
かわりに君の3オクターブの中のどこか1オクターブ分と入れ替える事で、
君の望む高音が出せるようになるんだよ。
そして当然ながら入れ替えた元の音は出せなくなるよ」
彼は悩みました。
ちゃんとした資格を取得して鍵盤を増やせば、3オクターブしか鳴らせなかったのが、4オクターブを鳴らせるようになります。
けれど怪しいピアノは『特別な資格』があっても鍵盤を増やすことは出来ないと言いました。
そのかわりに、今鳴らせる1オクターブ分の音と引き換えに、1オクターブ分の高音を鳴らせるようにしてくれると言っています。
彼は悩みました。
高い音はもちろん出せるようになりたい。
けれど、その引き換えに今ある音が鳴らせなくなる。
彼はしばらく悩みましたが、怪しいピアノ協力してもらうことに決めました。
「分かった。早速始めよう。途中で気持ちが変わったらいつでも言ってくれて良いよ。
そこですぐに止めることも出来るからね。
けれど気を付けてほしい。
ある程度まで進めたらもう止められないからね」
怪しいピアノの作業は、彼の持つ3オクターブの中で一番高音域の1オクターブ分の絃を取り外し、新たに高音域の絃に張り替える事です。
怪しいピアノは彼の高音域の絃を、一本ずつゆっくりと慎重に外し始めました。
時間や周囲の景色や色や音や温度。
自分を取り巻くそれらの現実の感覚が、ほとんど感じられない不思議な感覚。
まるで高熱を出した時のような、ぼんやりした現実味の無い感覚。
聞こえるのは、静かに絃を緩めて取り外す音だけ。
そんな不思議な感覚の中、彼の心は不安と心配と期待と恐怖がごちゃ混ぜになっていました。
『本当にこんな事をして大丈夫なんだろうか、本当に高い音が出せるようになるんだろうか』
『本当に上手く行くんだろうか、もしも失敗したらどうなるんだろうか』
『もしも『特別な資格』が嘘だったら・・・』
その間にも怪しいピアノの作業は淡々と進められていく。
絃を緩めるキリキリキリと言う音が体中に響く。
何かキッカケがあれば、すぐにでも引き返そうと思う冷静な気持ちと、もう後戻りできないから進むしかないと何故か焦る気持ち。
しばらくして1オクターブ分の全ての絃が外されました。
一度外した絃はもう二度と元通りには戻せません。
もう後戻りが出来ない所まで作業は進んでいました。
次に怪しいピアノは新しい高音域の1オクターブ分の絃を取り付け始めました。
キリキリキリ・・・キン・・・キン・・・
絃を張り締める音が響き渡りました。
「さあ、終わったよ。音を出してみようか。」
怪しいピアノが言いました。
彼はまだ現実感のない気持ちのまま、新しく張り替えた高音域の絃の鍵盤を恐る恐る下げました。
静かに響く甲高い音。
続けて隣の鍵盤、さらに隣の鍵盤と順に弾いて行きました。
これは本当に自分が鳴らしている音なのか。
さっきまでとは違った現実味の無い感覚に戸惑いましたが、段々と興奮してきました。
本当に高音を手に入れたんだ。
彼は今まで演奏する事が出来なかった高音域のある曲を色々と演奏し始めました。
彼の心はとても軽くなり、それまでの悩みや不安から解放されたように、毎日楽しく演奏しました。
昂る気持ちのままに、ひたすら演奏しました。
まるで不安な気持ちを紛らわせるかのように。
人に知られたくない秘密は、知られたく無いと思えば思うほど不安な気持ちも大きくなっていきます。
しかし他の誰かに知られてなくても、自分自身が一番良く知っているのです。
そして自分自身の気持ちを騙す事は決して出来ません。
上手く騙せたとしてもそれは騙せたと思い込んでいるだけでしょう。
それに秘密にしておきたい事や思い出したくないことほど、心に強く残っているものです。
そして『不都合の波紋』が現れました。
とても当たり前の事ですが、水面に石を投げ入れるとそこから波紋が広がります。
広がった波紋の先にもし壁があれば、波紋はそこに当たり跳ね返って来ます。
そしてこの水面は私達の足元にも存在しているのです。
目には見えませんが、誰の足元にもこの澄んだ水面が広がっているのです。
この水面に『行動』と言う石を投げ入れると『結果』と言う波紋が生まれ広がって行きます。
通常その波紋は勢いが無くなるか壁に当たるまで広がって行きやがて消えます。
しかし投げ入れられた石が『自然な石』では無く『不自然な石』であった時、発生する波紋も『不自然な波紋』となり、水面を広がって行きます。
世界の流れに逆らわない思いから生まれた『自然な石』。
不純物の混じった思いから生まれた『不自然な石』。
そしてこの世界に広がっている水面にはいくつもの壁があます。
『共感の壁』『反感の壁』他にも色々な壁がありますが、その中に『矛盾の壁』と言う壁があります。
『自然な石』から生まれた『自然な波紋』はこの『矛盾の壁』の影響を受けず、素通りしてそのまま広がって行きます。
ですが『不自然な石』から発生した『不自然な波紋』は素通りせず『矛盾の壁』に当たると『不都合の波紋』と言う波紋に変化し跳ね返って行きます。
『不自然な石』を投げ入れた本人に辿り着いた『不都合な波紋』は、本人に様々な『影響』を与えます。
バン!
一本の絃が突然、激しい音を立てて弾けるように切れました。
切れたのは怪しいピアノに交換してもらった高音域の絃の一本でした。
彼は何が起きたのか理解できず、動揺し混乱しました。
すぐに怪しいピアノの所に行き、切れた絃を新しく張り替えてほしいと伝えました。
「そうか。すぐに新しい絃に交換しよう。それで、どの絃と交換するんだい?」
張り替えてもらった絃が切れたから新しい絃に張り替えてほしいと頼んでいるのに、どうしてまた別の絃と『交換』と言う話になっているのか理解出来ませんでした。
改めて切れた絃を新しい絃と張り替えてくれと言っても、怪しいピアノの返事は同じでした。
「君の切れた絃と新しい絃を交換しても、私には何の得もないよ。
君に協力するとは言ったがそれは君の切れてない絃と交換が条件だったからだよ。
新しい絃を張って欲しいなら、まだ使える切れてない絃と交換だよ。
その気になったらまた声をかけてくれ」
そう告げると怪しいピアノは彼の前から姿を消えてしまいました。
どうしよう・・・このままではちゃんと演奏が出来ない・・・
それとも残っている音で演奏をするか・・・
そう言えば、交換した他の高音域の絃は大丈夫なんだろうか・・・
恐る恐る鍵盤を下げました・・・
バガン!
世界が壊れてしまったのかと思うほどの、ものすごい音が響きました。
交換した残りの高音域の絃が、一本残らず一斉に切れてしまいました。
呆然と立ち尽くす彼にの前に、身なりの綺麗なピアノが現れました。
「君は正規の資格を取得していないのに絃を交換しましたね。
この世界の約束を守らなかった君には演奏する事を禁止します。いいですね」
そう告げると彼の鍵盤の蓋を閉じ、開かないように鍵を掛けてしまいました。
彼は演奏する事が出来なくなりました。
しばらく状況が理解出来ない状態でしたが、時間が経つにつれ少しずつ気持ちが落ち着い彼は、彼女に怪しいピアノに依頼して勝手に絃を交換してしまったことを伝えました。
彼女は動揺し、驚き悲しみました。
けれど彼を大切に想う気持ちは変わりませんでした。
「私も一緒に謝ります。だから二度とこんな事はしないと約束してください。
私に協力出来る事は協力します。だからもう一度、一緒に頑張りましょう」
「それに私は高音は得意ですが低音が苦手なんです。
私はあなたの力強くて優しい低音がとても好きです。
これからは一緒に一つの曲を演奏するのはどうですか。
私が高音を演奏して、あなたが低音を演奏するんです。
今までのような演奏は出来ないけれど、もしかしたら今までよりももっと楽しく一緒に演奏が出来るかもしれませんよ」
彼は思い出しました。
いつから高い音を手に入れる事が目的になっていたんだろう。
彼女と楽しく幸せに一緒にいられれば良い。
望みはそれだけのはずだったのに。
深く後悔し反省しもう二度とこんな事をしない、これからは彼女と一緒に協力してもう一度やり直すと誓いました。
身なりの綺麗なピアノは彼と彼女の強い気持ちを聞き入れ、彼の蓋の鍵を開きました。
失った1オクターブ分の音はもう鳴りません。
とても大きなモノを失いましたが、彼は再び演奏する事が出来るようになりました。
今、彼と彼女は一緒に一つの曲を演奏しています。
高音と低音、それぞれ得意な音を担当する演奏です。
それは想像以上に楽しく、そして今までよりもお互いを強く意識し、思いやる事にも繋がりました。
これからまた勉強して経験を積み、資格を取得すれば改めて高音を手に入れる事が出来るかもしれません。
けれど今は彼女と一緒に演奏することが、とても楽しく幸せに感じられるようです。
今回の事はとても大きな失敗でしたが、これも貴重な経験だったのではないでしょうか。
そして、こんな大きな同じ失敗は繰り返さないでしょう。
失敗も経験する事で成長出来るのですから。