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Say it

 minaのライブから、数日が経過した。

 

 仕事は相変わらず低調だった。

 例のアミューズメント会社に売り込みに行っても、担当者の段階で冷たくあしらわれる。その上のキーパーソンのアポさえ取らせてもらえない。


 本当に、minaとダニエルがタッグを組んで妨害しているのだろうか。


 そんなことを考えながら、オフィスへと戻る。


 ダニエルもオレと顔を合わせると、整った顔をしかめて何やら気まずそうに下を向くことが多くなった。

 前はいつでも気さくに話しかけてきたのにな。


 minaの、復讐……

 オレの仕事上での低評価と孤立化を狙っているのだろうか。

 確かに信頼していた同僚に裏切られ、やがては職を失うとしたら、オレはかなりの心のダメージを負うだろう。

 かつて、オレが捨てる形になったminaと同等とは言わないが、それに近いほどの。


「カズ……例の会社、その後はどうだい?」


「ああ、ダニエル……あれから一歩も進んでないよ」

 上手くいっていないことはお前ならよくわかっているだろう。

 オレは少し身を固くしながら、彼の方を見た。


「実は、ちょっと小耳に挟んだ情報があってね」

 ダニエルは作ったような笑顔を浮かべた。

 そう思ってしまうのは、オレが彼を疑っているからだろうか。


 どうせなら、とことこんだまされてやろう。

 それがかつてminaを捨てた、オレが受ける報いだ。

 毒を喰らわば皿まで、そんな言葉もある。


「なんだい、ダニエル? 今はどんな些細な情報でも欲しい所だよ」

 そう言って、オレは大げさに肩をすくめた。


「向こうのキーパーソンがよく行くというバーがあってね。その……一度行ってみたらどうだ? 向こうもお酒が好きらしいし、カズもお酒が好きだから気分転換も兼ねて今夜あたり覗いてみたら?」


「そうか、わかったありがとう。せっかくだから、行ってみるかな……」

 オレはつとめて冷静を装って、そう彼に告げた。


「カズ……Honesty is the best policy , Better late than never 」

 ダニエルは真剣な目で、オレに向かって確かにそうつぶやいていた。


”正直は最善の策、遅くなっても何もしないよりはマシだ”

 いったい何が言いたいんだ、彼は……?


 その日の仕事を終え、オレは疑い七割好奇心三割でダニエルから告げられたバーへと向かった。




 ニューヨークカーなら誰もが知っている高級ホテル。

 そこの三十八階にある、洒落た雰囲気のバー。


 十名ほどが座れるカウンターと、その奥にテーブル席が何席かあって、調度品はどれも重厚感のある年代物のオークウッドで統一されていた。

 大きなガラス張りの窓から、マンハッタン島の夜景が一望できる。

 きらびやかな異国の街が見せる、夜の顔。


 店の片隅では、蝶ネクタイをきちっと結んだジャズカルテットがゆったりとした曲を奏でていた。

 一九六〇年代のテナーサックスの巨匠が得意とした名曲、『Say it』。

 ピアノとサックス、それを支えるベース音が奏でる、柔らかな調べ。

 

 カウンターの隅にはアジア系の一人の小柄な女性が、静かにグラスを傾けていた。

 オレの足音に気付いたのか、彼女はすぐに振り返った。


「あら、来たんだ……」


「mina……何でminaが……ここに!?」


「私がダニエルに頼んだの。あなたをここに連れてくるようにって」


「また、嫌味でもいうつもりか?」


「どうかしらね? でも私にあんなヒドイことを言わせたのは、元はと言えばあなたのせいでしょ?」


 そのセリフを言われると、オレは何も言い返せなかった。


「ぼっーと立ってないで、座ったら?」

 minaはそう言って、彼女の隣の席を指差した。


 今夜のminaは最初に出会った時と同じようにナチュラルメイクで、最近濃い化粧のminaばかり見ていたオレは、少し面食らった。

 服装も淡いピンク色の膝丈のワンピースで、清楚な格好だった。


 こうして並んで座っていると、なんだか昔に戻ったような気がする。

 そう、minaと仲間たちと困難を乗り越えながらもワイワイと騒いでいた、あの頃のように。


 オレはきちっとした身なりのバーテンダーにドライ・マティーニを頼んだ。

 強い酒でも飲まないと、なんだかやってられそうにない。

 隣のminaをチラリと見ると、グラスが空になっていた。


「テキーラ・サンライズを頂戴……」

 彼女はシンガポール訛りの英語で、そうバーテンダーに告げた。


 相変わらず、可愛らしい感じのカクテルが好きだな。

 オレがふっと笑ったのが気に食わなかったのか、彼女は少ししかめっ面をした。


 でもその一連のやりとりが、オレとminaの間にある張り詰めた空気を少しだけ変えた気がした。


「ねえ、雨宮さん、元気でやってるかな?」

 minaはオレの銀行の先輩で、彼女にとっても大切な友人の話題を振ってきた。


「うん、子どもが産まれて、今は育児休暇に入っているよ。子どもは絶対に強い男に育てるって、そう息巻いてた」


「岡安さんはいいパパになりそうね」


「そうだな……」

 オレはショートグラスに入っている乳白色の飲み物を一気に飲み干した。

 ベルモットの甘みと、少し遅れてやってきたジンの辛さがオレの喉を刺激した。


「真由ちゃんは、田中くんとお付き合いしてるんだっけ?」


「うん……もうすぐ結婚するって噂だけど」


「二年か……短いようで、長いね……」


 それからminaはぽつりぽつりと、オレと別れたあとのことを話出した。


 シンガポールでの心の病の治療。

 なんとか歌声を取り戻し、レッスンに明け暮れたこと。

 新天地でデビューを掴むために、必死で英語を勉強したこと。


 先日ライブハウスで会った時とは少し違った、柔らかな表情。

 それでいてその口調は彼女の芯の強さを感じさせるものがあって、オレはそのまま席を立てずにいた。


「退屈だったかしら? 『元』彼女の苦労話なんて?」


 minaはオレの方を上目遣いで覗き込んで、少し笑った。

 彼女の自慢の黒髪が揺れ、ピンク色のリップが柔らかな明かりに照らされる。

 長いまつげの奥の瞳が、まっすぐにオレを見つめていた。

 年齢を重ねた元彼女の、大人っぽい表情。

 オレは、思わずドキリとした。


「そう言えば、あなたは何のためにここにきたんだっけ?」


「それは、ダニエルに今取り組んでる案件のキーパーソンがここにいるから会ってこいって……でも、ここにはminaがいて……」


「私が、そのキーパーソンだとしたら?」

minaはオレンジ色のカクテルグラスに刺さった真っ赤なストローを手でもてあそびながら、オレの方をチラリと見た。


「えっ、やっぱり……その……」

 minaが例の会社の会長と『特別に』親しい仲だと聞いていたので、思わずオレの声はうわずった。


「そう、私の頼みなら、あの会長さんもある程度は聞いてくれると思うけど」

 minaはそう言って、いたずらっぽく笑った。


 あの会長、確か六十歳過ぎていたよな。

 minaが白髪頭の小柄な老人に抱かれている姿を想像して、オレは頭がくらっとした。


「モノにしたいんでしょ? 例の案件? 男の人はやっぱり仕事が大事だもんね」


「う、うん……いや……」

 オレはすっかりminaのペースに載せられて、口ごもった。


「そうね……じゃあ……」

 minaは再びオレのほうを覗き込んで、いったん言葉を切った。

 ピンク色のワンピースの裾が揺れて、彼女の白い太腿があらわになった。


「私のお願いを一つ聞いてくれたら、いいわよ」

 minaはそう言って、オレの隣で人差し指を一本立てて片目をつむった。


「何? お願いって?」

 隣で妖しく微笑む小悪魔のような『元』彼女を前にして、オレの心臓の鼓動は徐々にペースを早めていった。


「このあと、私の部屋に来て……」

 minaはそう言って、ルームキーをカウンターに置いた。

 カチリ、と小気味よい音がバーに響いた。

 上質な皮のキーケースに部屋番号が刻印されている。

 金銅色のキーはバーの間接照明を浴びて、鈍く光っていた。


「えっ……!?」

 もう、深夜と言ってもいい時間帯。

 この部屋に女性の部屋に来いということは……


「今さら、何を遠慮してるの?」


「い、いや……それはさすがにまずいだろ……」


「異国の地で、女性が一人でのし上がる……綺麗事だけでやってこれたと思う? 何人もの男性が、私を通り過ぎていった……『元』彼氏と再会して、ちょっとお互いに温め合うだけ、簡単なことじゃない?」


「mina……オレはそんな気持ちで、ここにいるんじゃないんだ!」

 自分でも思っていたより大きな声が、オレの口から発せられたらしい。


 少し離れた所に立っていたバーテンダーが一瞬だけ、こちらの方を向いた。


「ふうん、今をときめくシンガポールの歌姫のお誘いを断るんだ……東和銀行のエリートさんはプライドだけは高いのね……」

 minaはつまらなそうな顔をした。


「mina……オレは、そういうつもりじゃ……」


「まあいいわ。せっかく人が親切に提案してあげたのに。じゃあ、サヨナラ……楽しかった……少しだけね」

 minaはそう言って、カウンターの上に置かれたキーを掴んで、あっという間に去っていった。


 淡いピンク色のフリルに包まれた彼女の後ろ姿は、どこか寂しげに見えた。


「はぁ……」

 オレはカウンターに向き直って、人生で一番のため息をついた。


 バーの片隅で演奏していたジャズバンドが、もの悲しげなテナーサックスのソロを奏でていた。その旋律は今のセンチメンタルな気持ちと相まって、チクリチクリとオレの心を刺してきた。


 結局変わってしまった、オレも、minaも……

 あの時の選択は、正しかったのだろうか……

 minaとの別れを選択せずに、何としても二人が一緒に居られるような未来を選んでいれば、もっと違った形があったのだろうか……


 二年という歳月は、オレ達には、長すぎた。


 オレはカウンターに座りながら下を向き、両手で顔を覆っていた。


 時刻が遅いせいか、いつの間にかバーの客はオレだけになっていた。


 あれっ!? minaの座っていた椅子にピンク色のパスケースのようなものが落ちている。

 思わずオレは手を伸ばした。


 使い込まれた感のある桃色の革のパスケース。

 つい、中身を見てしまった。


 そこには、写真が入っていた。

 破れていたのを裏からテープで修復したような跡がある。

 照れながら頭をかくスーツ姿のオレと、オレに腕を絡めて幸せそうに微笑むドレスアップしたminaの姿。minaのもう片方の手にはカラフルなブーケがしっかりと握られていた。

 銀行の先輩、雨宮さんの結婚式で、minaがブーケを受け取った時の写真だ。


 なぜ、minaがこの写真を!?

 もしかして……今でも、彼女は……


 

 

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