But not for me
オレとmina(ミナ)は、円満に別れたわけではない。
オレはminaのことを心から愛していた。
向こうもそうだったと思う。
しかし、ある理由から、オレが彼女をこっぴどく振る形になった。最後は寒空の元でminaに頬を引っ叩かれてオレたちは別れた。
涙を彼女に見せまいと、オレは足早にその場を去った。
思い返すと、今でもジーンと左の頬が痛む。
痛むのは頬だけではない、オレの心も、また……
とっくにマヒしていたと思っていた心の痛覚が、叫び出したい程の痛みをオレに訴えてくる。
あれから彼女とは一切連絡を取っていない。
オレの存在など、もはやどうでもいいと思っている可能性のほうが高いだろう。
ニューヨークでの住処にしているマンションに戻り、カバンを部屋の隅に放り投げると、オレはすぐにスマートフォンでminaのことを検索した。
『シンガポールの歌姫、ついにアメリカへ上陸!』
そんな見出しと共に、一週間後にニューヨークのタイムズスクエアの大きなコンサートホールでminaのライブが行われるという記事がネット上に掲載されていた。
ライブが成功すれば、全米でのデビューの話もあるようだ。
シンガポールの音楽チャートでもシングルが三回連続で一位を記録。
今、ノリに乗ってる歌姫。
年齢、国籍、とかは秘密らしいが、あの歌声、そしてあの容姿、mina本人で間違いないだろう。
オレはminaと別れてからの二年間、意図的に彼女の情報に触れるのを避けていたような気がする。外国でデビューしているかはわからないけど、minaは幸せにやっている、自分の心のどこかでそう言い聞かせながら、なんとか日々を送ってきた。そんな感じだろうか……
一週間後のライブは若干だがまだ空席があるようだ。
オレは『reserve(予約)』のボタンを押そうとして、その手を止めた。
何を今さら……
オレが仮にライブに行ったとしても、minaだって迷惑なだけだろう。
例のアミューズメント会社への売り込みは、相変わらず低調だった。
せっかくニューヨーク支社の上司からも任されて、意気揚々と向かった案件だったのだが、これでは撤退の二文字も視野に入れなければならない。
東和銀行、ニューヨーク支社のオフィス。
多国籍の男女が忙しそうに動き回っている。
電話が鳴り、誰かが早口の英語で最新のマーケット情報をまくし立てていた。
そんな職場の騒がしいやり取りの中、オレは一人ため息をついていた。
「そうだ、ダニエル! たまには一杯どうだ?」
鬱々とした気持ちを晴らすべく、オレは同僚を飲みに誘った。
「カズ……い、いや、今日は辞めとくよ。先約があってね」
ダニエルはすまなそうにオレの方を見た。
そうか、いつもならうっとうしいくらいに誘ってくるのにな。
逆にオレの方が断るのもしばしばだ。
まあいいか、たまには一人でバル(酒場)にでも行くか。
ハドソン川から吹き抜ける夜風が冷たく身にしみる。
マンハッタンの夜はまだ始まったばかり。
行き交う人々も寒さに身を縮こませながら、足早にその場を通り過ぎていく。
きらびやかな夜の五番街を抜け、どこかよさそうなバルはないかなと物色する。
ダニエルとよく一緒に行くこじんまりとした酒場もよいが、たまには新規開拓をしてみるのも面白いかもしれない。
そう思いながら、オレがメインストリートから一本入った路地を覗き込んだ、ちょうどその時だった。
一台の黒塗りのメルセデス・ベンツのセダンがゆっくりとオレの脇を通り過ぎていった。
そして、数十メートルほど離れた高級ホテルの入り口で、その車は止まった。
何の気無しに、ぼんやりとその車の辺りを眺める。
後部座席からスーツを着込んだ金髪の白人男性が現れた。
あれっ! ダニエルじゃないか!
ダニエルはそのまま後部座席の方を覗き込み、女性の手を取ってエスコートした。
黒色のノースリーブのドレスにストールを羽織った、東洋風の女性。
背の高いダニエルと並ぶと、小柄でますます小さく見えた。
髪は黒色で絹のように滑らかな光沢をまとっている。
夜風で、女性の髪がなびいた。
そして、女性の顔が一瞬だけあらわになる。
ピンクのアイラインを深くひいて、濃いメイクをしているが、紛れもなくminaだ!!
昨日、スマホで検索をしている時に何枚もエキゾチックな雰囲気のminaの画像を見たから間違いない。
なんで……二人がこんな所に!?
ダニエルとminaはそのまま仲良さそうに談笑しながら、きらびやかな高級ホテルの入り口へと消えていった。
残されたオレはただ呆然とその場にたたずんでいた。
いくつもの疑問が、オレの頭の中を浮かんでは消えていく。
これではとても、どこかに飲み行くような気分にはなれない。
翌日、支店のオフィスにいくと、いつも通りダニエルが爽やかスマイルでオレの元に寄ってきた。
昨日のこと……やはり聞いてみるべきだろうか?
オレのそんな胸中など知るよしもなく。
「カズ、実は知り合いから、コレを預かっていてね。必ず渡して欲しいとのことなんだ」
ダニエルはそう言いながら、オレに一枚の封筒を渡してきた。
「オレに!? 一体なんだろう……」
オレはさっそく、封筒の中身を開けた。
中からはカラフルに印刷された紙片が出てきた。
そしてオレにとって見覚えのある名前が、印刷されている。
「こ、これは……」
minaのライブのチケット!
これをダニエルに託すということは、昨日偶然見かけた姿といい、minaとダニエルはやはり親しい関係なのだろうか……
ダニエルはその辺の女性なんてイチコロでどうにかしてしまいそうな容姿を持っているし、仕事だって出来るし、気配りも上手だ。その割には浮いた話を聞いたことがないんだよな。
彼とminaが深い仲だったとしても、オレには別に関係ないか……
いや、彼のような立派な人物だからこそ、minaを任せてもいいかも。
オレが昨日の件をダニエルに問いただすべきか迷っていると、彼は続いてこう告げた。
「中にメッセージが入っているから見てくれ、との伝言だったけど」
「ん??」
オレはチケットと共に中に入っていた、日本で言う一筆箋のようなものを取り出した。
そこにはなぐり書きのような文字で、こう書かれていた。
『Kill you ! If you don’t come !(来ないとぶっ殺すわよ!)』
オレは、一瞬ののち、深くため息をついた。
こんなことを言うような女性じゃなかったんだけどな。
ダニエルはその紙片を見ると少しビックリしたような表情を見せたが。
「カズ、行くんだろ? もちろん?」
オレの肩を軽く叩いて微笑みかけた。
「う、うん……」
「どうした? 迷いでもあるのか?」
「今更、オレが行った所でどうなるわけでもないし……」
「彼女はカズに来てもらうことを望んでるみたいだけど」
というか、来ないとぶっ殺すって書いてあった。
「カズ、気付いたときにはどうしようもなくなっているということも世の中にはたくさんある。でも、君の場合はまだ……」
こちらを覗き込むダニエルのブルーの瞳はなにやら真剣な色を帯びていた。