四話 雪の降る日
今日は、いつもより空が高く暖かい。といっても、比べている気温は昨夜の刺すような気温であって、十二月であるということに変わりはない。それに、今日は深夜から雪が降るらしい。今見えている空も、だんだんと鉛色が青を覆いつくしてしまうのだろう。
だが、俺の気持ちは上がっていた。
なぜなら、十二月に降る雪は、理想的であってあの公園を美しく飾る。
*
高校二年生で学校を一日休んでしまうと、教科書のページは黒板とノートを何度も見比べてしまうほど進んでしまっている。
今、受けているのは、三時間目の数学だ。どうやら、昨日の授業で新しい単元に入ったらしく、黒板の白文字が術式のように感じてならない。
いつから俺は、魔術の授業を専攻したのだろう。術式を必死に書き写していたペンを投げ、窓の外へと視線を向けた。魔術を学ぶことに必死な生徒たちは、サボっている俺に気を止める奴など一人もいない。
俺は、ゆっくりと遠くの空から蝕まれていく青を眺めていた。深夜に雪が降る予定だったが、午前中の内には青空が無くなってしまうだろう。
こんな風に変わっていく空を見ているといつも思うことがある。
青空が曇り空に変わるというのは、青空が曇り空に追いやられてしまったのだろうか、それとも、青空の機嫌が悪くなって曇り空に変わったのだろうか。
俺は、鼻で笑った。
こんな問いに誰が答えられて、誰が空を別人だと判断することができるというのだ。
でも、少なくとも俺は、曇り空と青空は別人であって欲しいと思っている。
かっこつけたようなことを言うつもりはない。ただ、どちらの空も、別々の愛で愛したいと思っているだけだ。
ただ、それだけの比喩だ。
授業の終わりを告げるチャイムを夢の中で聞き、委員長の「起立」という声で目を覚まし、遅れて席を立つ。
号令が終わり、次の授業までもうひと眠りしようと机に顔を付ける直前、冷たい風が強く吹きつけ、顔を上げた。
すると、窓を開け、ご機嫌そうに笑うアヤナが立っていた。
「閉めろよ。 さみぃ」
「起きて! 次は、体育だよ!」
俺は、黒板の隣に掲示されている時間割表を見る。
「見学する」
「駄目だよ」
俺の腕をつかみ、無理やり立たせようとする。その手を強引にでも振りほどこうとしたが、やめた。
アヤナの腕を掴む強さが、昨日の痛みに近いものを感じさせたのだ。
俺は、仕方なくアヤナの力に従い、立ち上がってジャージに着替える。
「今日は素直だね」
アヤナが言う。
「そう? 普通だよ」
ズボンを履き替えながら答える。
「昨日五十嵐さんに何か言われたの?」
「……何も」
半袖の体操服の上から、ジャージに袖を通しチャックを一番上まで閉める。
「そっか。 あの今日さ――」
アヤナが何かを言いかけた時、教室の扉からアヤナの名前を呼ぶ女子の声が聞こえてきた。
「呼んでるよ」
「うん。 体育サボったら駄目だよ?」
「わかったよ」
アヤナは、俺の目を三秒くらい見つめて、背を向けた。アヤナを取り囲む二人の女子から、何かを問い詰められているが、彼女は、笑って首を横に振っている。
誰もいなくなり、暖房だけが付いている教室の窓を開け、煙草を吸った。
煙草の味も吸い方もわからない。それでも、ヤニの嫌な臭いや気管を焼くような煙の苦しさは分かる。
半分ほどで火を消した煙草を窓から放り投げ、十分遅れで体育館へと向かった。
結局、体育は見学した。
*
学校という閉鎖空間からやっと解放され、傘を忘れたとか、部活の室内練習が嫌だとか、課題の提出が間に合っていない、なんて会話を聞きながら、俺はただ一人浮かれていた。
柄にもなく鼻歌を歌いながら、暖房で気持ちが悪いくらい温められた教室を後にし、廊下の誰の気配も感じない寒さで深呼吸をして、窓越しに聞こえるハラハラという音に胸を躍らせ学校を後にする。
今日は、やっと雪が降ったのだ。
積雪が数センチもないこの地域の高校生にとって、放課後の雪は嫌われ者でしかない。電車を止める能力もなければ、ただただ気分を憂鬱にさせることしかできない無能だ。
というのは、一般論(俺の周りだけなのだが)であって、俺からすれば、放課後に降る雪は理想的でしかない。
早く、あの公園に行きたい。と胸の奥で唱えながら、少しだけスキップをした。
公園に辿り着いたときには、ハラハラと降っていた雪は牡丹雪になっており、視界はすでに白で覆われ、環境を白に変えるのも時間の問題だ。
牡丹雪を見たのは何年ぶりだろう。それとも、テレビで見たことがあるだけで、実際には、目にしたことがないのかもしれない。
それくらい、この地域の人にとって牡丹雪は、珍しくもあり、嫌われている。きっと、この雪は、このまま強さを増す一方だろう。そうなれば、電車の遅延や路面の凍結などに繋がってしまう。実際の所、帰るときに乗った電車も雪の影響で五分ほど遅延していた。ホームから聞こえるサラリーマンのため息や高校生の罵倒は、耳を塞ぎたくなった。
でも、俺には雪を守ってあげることはできない。だから、せめて、雪を愛したいと思うのだ。
雪を降らせる曇天も気温も季節も――嫌われているのなら愛してあげたいと思う。
天邪鬼なのだろうか。まぁ、それも悪くはない。
白い地面を行き来する自分の両足を見つめ、落ちる雪の音に耳を澄ませているのを中断し、顔を上げた。
辿り着いたのは、いつも通りの東屋だ。誰からも関心を寄せられない雪の降る東屋だ。でも、今日は、先客がいた。いや、今日もというべきなのだろうか。
コの字型の椅子の端で、赤いひざ掛けをかけ、文庫本を読む女性――煙草の煙に眉を顰めたあの女性がいた。
俺は、少しだけ気まずい気分になったのだが、女性は、覚えていないだろう、と向かいに腰かけた。
一度、女性と目が合い軽く頭を下げ、それ以上のコミュニケーションを取ることはなかった。
それにしても、不思議な女性だ。雪の降る十二月に、東屋で読書をするなんて。文庫本とひざ掛け以外には、小さなバックしか見当たらないということは、わざわざこの日にここで読書をするために訪れたのだろう。
いろいろ思考を巡らせては見るものの、ピンとくる答えを求めることはできず、考えるのを止め、鋭利な刃物のような冬を楽しんだ。
いつもは、子供連れの親子や犬の散歩をする人、ジョギングを楽しむ老夫婦で賑わう公園も、この日ばかりは静まり返っている。そんな公園に降る雪は、嬉しそうにも見えた。
嫌われ者も自分たちを嫌う人々がいないのなら、いくらだって笑えるし、いくらだってはしゃげる。俺の目に映る雪は、そういう風に見えた。
「ねぇ……」
雪の音にかき消されてしまうほど小さな声が聞こえた。一度は、空耳かと結論を出したものの、再び「ねぇってば」と声が聞こえ、声の主である女性を見た。
冬の公園には、俺と雪の日にわざわざ読書をするおかしな女性しかいない。ねぇ、という雑な言葉でも、コミュニケーションを取るには十分だ。
「なんですか?」
女性は、手に持っている文庫本をぱたりと閉じる。
「こんな寒い日にどうしてここにいるの?」
女性の言葉が、嫌味に聞こえた。先日の煙草の件をまだ引きずっているのだろうか。それとも単に、男子高校生という生き物をおもちゃのように扱っているのだろうか。
女性は、好意的に微笑んでいる。だが、それを見ているとおもちゃみたいにからかわれているような気がしてムッとする。
「別に、理由はないですけど。 あなたも、こんな寒い日に読書なんてしてるじゃないですか」
女性は、きょとんとした表情で、ゆっくりと手に持っている文庫本に視線を落とし、ケラケラと笑う。
「本当だね。 でも、私は、君と違って、きちんとした理由があるよ」
「なんですか?」
「雪の日の外って誰もいないでしょ。 私は、それが好きなの。 取り残されたようにシンと静まり返った場所で、文学に触れるのはとても面白いんだよ」
女性の言っていることは、ほとんど理解ができなかった。女性は、上機嫌に立ち上がると東屋を降りる手前で「君にも冬を好きになってもらいたいな」と言い、背を向け、傘もささずに雪の中へと消えていった。
「変な人だな」
この女性は、とても変な人だ。面識のない相手に「冬を好きになってもらいたい」だなんて訳の分からないことを言っている。だが、もう少し先の未来の俺ならば、この女性の言葉の意味を十分に理解することができるようになる。
この先に、何が起こるのか深くは告げないでおこう。
雑に記すのなら、恋、だ。
それ以上でも、それ以下でもない。冬の悪ふざけのような憎い恋だ。