三話 施設
とても寒くて、寂しくて、泣いてしまいたいはずなのにアヤナは、俺よりも一歩先を俯きがちに歩いている。
十二月の夜は、強がり者やあまのじゃくでは到底、敵わない寒さだ。俺は、それを知っているのに一人で歩くアヤナの背中ばかりを見つめていた。成長という意味では大きく鳴った背中だ。いつも、俺に寄りかかっていた背中とは大違い。だけど、アヤナという本質で考えると何も変わっていない。
弱虫で、泣き虫なのに――悲しみという重荷を一人で背負ってしまっている。
俺は、どうしてアヤナが、そこまでしなくてはいけないのか理由を知っている。それは全て、彼女が<孤児>であることが関係しているのだ。
孤児という一般人には、全く馴染みのない言葉。しかし、俺とアヤナは、このたった二文字の抗えない言葉に昔もこれからも苦しめられている。
小さな背中を見ていると妙な罪悪感に襲われて、彼女の側に駆け寄った。
「寒くない?」
そっと声をかける。
アヤナは、頬を膨らましながら、一度俺を睨み、そっぽを向く。
「悪かったよ。 言い過ぎた」
何かを答えようとはしない。コートを着て、ポケットに手を入れているだけでも罪悪感は募る一方だ。
「本当にごめん。 明日は、学校に行くよ」
これだけで、罪悪感を拭えたわけではない。でも、これ以上、罪悪感を拭える言葉も行動も見つかりはしなかった。
しばらく、並んで歩いていると、白い息を吐きながらアヤナが口を開いた。
「……学校が嫌なら、来なくてもいいよ。 でも、私の電話を無視するのはやめて欲しい」
「わかったよ」
俺は、そっとアヤナの側へと寄る。アヤナは、何も言わずに俺の右腕へと抱き着いた。
彼女は、小さく震えていた。コート越しでも、彼女の冷たい体温を感じることが出来る。今日は、雪が降っていなくてよかったと思った。
彼女の悲しみは、冬を飾るのには、余りにも汚れていた。
*
終点が、無いのではないかと思ってしまうほど静かな夜道も終わりを迎え、一軒の大きな建物に辿り着いた。正面の閉じられたゲートには、孤児を育てるための施設の名が書かれてある。。二階建ての建物の一階は、すでに真っ暗で、二階の何部屋からは明かりが漏れている。
「門限守らなくていいのか?」
アヤナは、唇の前で人差し指を立てながら笑う。
「内緒だよ」
「あぁ、分かったよ」
互いに小さくクスリと笑い、「また明日」と別れを告げ合った。その時、ゲートの灯りが付き、低い声が俺の肩を掴む。
「アヤナ、今日もか。 今が、何時だと思っているんだ」
俺は、振り返る。
ゲートの前に立っていたのはジャージの上にエプロンを付けた四十代くらいのおじさんで、この施設を経営している<五十嵐さん>だ。
五十嵐さんは、アヤナを軽く叱り「早く、部屋に戻りなさい」とこの場から吐き出すようにあしらう。
俺が、ここに来た目的は、アヤナの説教を見るためではない。まして、俺が説教を受けるつもりもない。
だが、彼の視線は、俺の方を向いていた。
「ショウヤ、待ちなさい」
背を向けていた体を元に戻す。
「何かよう?」
「何かよう、じゃないだろ。 挨拶くらいしないのか」
俺は、わざと大げさにため息をついて答える。
「こんばんは」
そして、その場から逃げるように背を向けた。だが、今度は、声ではなく、ゴツゴツとした大きな手で肩を掴まれる。
「離せよ」
俺の声に、五十嵐さんは掴んでいた肩をゆっくりと離す。
「学校は、行っているのか?」
「あぁ」
「そうか、ならいいんだが」
五十嵐さんは、何かを言いたげな目で、こちらを見ている。俺は、たまに大人という存在が分からなくなる時がある。彼らは、常に子供へと正しいことを教える義務があり、それを実践している。だが、時に、大人は五十嵐さんのように、視線だけで何かを訴えようとする。
それに対して子供が、「何が言いたいの?」と問うと決まって、「お前が、気づくべきだ」と答える。
国語の問題を解いているわけではないのだ。いや、国語の問題の方がマシかもしれない。あれには、必ず答えがある。しかし、大人の問いには、明確な答えというものが存在しない。
俺は、五十嵐さんに問う。
「何が言いたいの?」
やはり、彼は、何も答えずに、意味の読み取れない視線を送るだけだ。溜まらず、俺は、その場を去ろうとするが、夜には大きすぎる声で答えが返ってきた。
「アヤナを悲しませるな」
その言葉に、五十嵐さんの背中をきつく睨みつけることしかできなかった。ゲートの明かりが消えてから、俺は歩き出した。
右腕に残るアヤナの体温が、今更になって十二月に奪われていく。そんな右手を思い切り握ってみても、体温は奪われ、痛みだけが強く残った。
アヤナの胸の痛みを伝えるかのように――