07.「……お話し、したいです」
「な、何をしようとなさったんですの……」
「何って……」
ミーチェの腕にぐぐぐと押し返されながら、男はミーチェの白い手の下で口を動かした。唇が触れて動いたので、ミーチェは弾かれたように手を離す。
顔が熱くなりすぎて蒸発しそうだ。
しかし僅かに首を傾げた男は、ちょっと耳を疑うようなことを言った。
「何とか呼吸……というものをしようと思っただけなのだが」
ぱちり、とミーチェの大きな瞳が瞬いた。
……えっと。
「……もしかして、人工呼吸ですかしら」
こくりと真面目に頷かれ、ミーチェはあんぐりと口を開けた。
「じっ、人工呼吸は、気を失っている方にするんですわ! わたくしみたいにはっきり意識がある相手にするものではありません!」
「そうか」
そうか。
ミーチェの死にそうなほどの動揺をたった一言で飲み込んで、男はあっさりと顔を離した。
盛大に肩透かしをくらったような気分になってしまう。
「髪とドレスは水を絞った方がいい。この陽気ならすぐに乾くだろう」
用事は済んだとばかりに。さっきとは別の意味で呆けているミーチェを取り残し、男は長い腕で子犬を抱き上げた。
「拭くものはあるのか」
「あ、はい、バスケットの中にタオルが……」
水辺に行くから濡れることもあるだろうと、ユマが入れてくれていたはず。
男はバスケットを漁ると、タオルを取り出した。が、どうやら一枚しかなかったらしく、少し悩むとタオルをミーチェに渡し、自分のマントを外して濡れていない部分で子犬を拭き始めた。
わたくし目まぐるしく翻弄されてるますけれど、優しい方、なんですわよね……?
子犬も大人しく拭かれている。小指ほどの短い尻尾を一生懸命振って、とても嬉しそうだ。
力が抜けてしまったミーチェはその光景を身体も拭かずにぼんやりと眺めた。
彼はやはり綺麗だった。
通った鼻筋、宝石のように透明感のある瞳。半分伏せられたまつ毛は薄く程よく長い。細いのに逞しさも感じさせる輪郭は、神が作ったのかと思うほど整っている。
見つめられているのに気づいたのか、彼がこちらを振り向いた。
自然と、力に溢れた琥珀の瞳に吸い寄せられる。
そういえば琥珀とは、生命の水が地中に溜まり、長い年月をかけて結晶化したものだと聞いたことがある。
だから彼の瞳はこんなに生命力に満ちているのかもしれない。
「……寒いのか」
「え?」
「唇が」
ミーチェは自分の唇に触れた。何でもないと思ったが、少し違和感を感じる。そうか、自分の手の感覚がなくなっているんだ。
「風に当たりましたから……」
いつの間にか太陽を雲が隠し、日が陰っていた。先ほどまで柔らかく肌を撫でていた風が、今は剥ぎ取るようにミーチェの体温を奪っていっている。
ミーチェはようやく、自分が震えているのを自覚した。きっと唇は真っ青だろう。
寒さのせいでぼんやりとするミーチェの前に、男の手が差し出された。
武人らしく節くれだって長い指。なのにこんなに色気があるのも不思議なことだ。
指も綺麗だわと思いながら無意識に自分の手を重ねたら、無遠慮にぐっと腕を引かれた。
「きゃ」
ふわりと身体が浮いて、ぽすんと着地したのは胡座をかいた男の膝の中。
「なっ……!」
頭が一気に覚醒した。まさかの横抱き状態に、顔を真っ赤にして口をぱくぱくするしかない。
だが男は表情も変えず、ミーチェの腹の上に、マント、子犬と、そして頭にタオル、と、ポンポンと順番に乗せてきた。とどめには長い腕ですっぽりと囲われ、もうミーチェの頭の中は大混乱だ。
「……少し寝るがいい」
頭を優しく拭く手つきも、耳元の、少し上から聞こえる低くて落ち着いた声も、ミーチェを殺しにかかってくる。カチコチに固まるミーチェの腹の上では、子犬が四つ足で踏ん張り、こちらに向かって機嫌よく尻尾を振っていた。
「犬の方は、体温が高いから毛皮が乾けば何とかなるが、人間の方は毛皮が無いから冷えるばかりだ。だからここで温まるといい」
「そ、それにしたってこの状態は――」
男性に抱えらえた状態で寝ろだなどと、無理を言う。シャツの下に、彼の引き締まった肉体を感じ、ミーチェは耳まで熱くした。
「服を脱がせた方がいいのか」
「なっ!?」
「その方が早く温まるだろう。今は春だから脱ぐ必要はないと思うが」
「あ、そういう意味ですのね……いえ、結構ですわ。もう、本当に」
死んでしまうから。
ミーチェはきっぱりと断った。
この方、もしかして天然なのかしら……
真面目そうだが、計算高いディーダとはまた違ったタイプ。「王女は変わっていますね」と言われるくせに、ミーチェは他人事のように彼を「真面目な天然さん」と位置付けた。
と、男の手が急にミーチェの頬に添えられた。びくりと震えたが、頬に当たる心地よい体温に、大人しく触られてしまう。
彼は親指の腹で目の下の、最も皮膚が薄い場所をそっと撫でてきた。
「……隈ができている。今必要なのは睡眠だ。犬が乾くまで私はここにいよう。人が近づけば起こして知らせる。だから安心して眠っておくがいい」
きっとやましい気持ちなど無いのだろう。琥珀の瞳に労わるような色が見えていた。
……きっと彼は大丈夫。
不思議なことに、身体の力はあっさりと抜けてしまった。
緊張感がなくなると、体力を使ったのと、寝不足も相まってふんわりとした眠気が襲ってきてつい身をゆだねそうになる。
「……お話し、したいです」
けれど、彼と話せる機会を逃したくはなかった。
「……少しだけなら構わない」
見た目だけなら冷たくも見えるのに、この優しさは何なのだろう。
ミーチェは気怠さに身を委ねながら、気になっていたことを聞いた。
「……どうして貴方は大会に? 軍の者を気絶させて出るなんて無茶してまで」
本来あの枠に出場するはずだった軍の人間は、宿舎の裏で気絶しているところを発見された。選手本人に、襲われた自覚すらさせないほど、鮮やかな手口で昏倒させたというう。
だが、軍の人間を襲撃するなど、そんなリスクの高いことをどうして行ったのか。
「……あの男には、私怨があった」
「どのような理由かお伺いしても?」
「……」
「答えなくないのならいいのですけれど……少し恨み言を言わせていただくと、あのあと大変だったのですわよ?」
謎の選手が登場し、優勝候補が一撃で敗れるなど、大会運営側も想定していなかった。
お蔭で運営部はてんやわんや。大会は国の主催なので、昨日は混乱に巻き込まれたミーチェも忙しかった。
「それは悪かった。二度としないと誓おう」
「いいえ、ぜひ次の試合にお進みくださいな」
「……どういうことだ?」
「キチューゼルの国民性ですわね。貴方をもう一度見たいと言う者が殺到しましたの」
実は、これまで坊主頭はあちこちで問題を起こしていて評判が悪かったらしい。迷惑を被った店の者、理不尽な喧嘩を売られた街の若者、お尻を触られた売り子、そして昨日の試合を見た観客に、噂を聞いたという観光客。多くの人が城へ詰めかけ、謎の選手の勝利を認めるように訴えたのである。
キチューゼルは部の国。強いものは尊敬を集めるのだ。
「ちょっとした人気者ですわよ、貴方。だから次の試合に出てくださいまし。大変盛り上がると思いますわ。……そ、それに」
「それに?」
わたくしも、もう一度貴方に度会いたい。
勇気を出して、そう言おうと思った。
きっかけがあればまた、こうして話ができるかもしれない。
けれども緊張しすぎて、息を吸っただけで喉がカラカラに乾いていく。何だか自分が自分じゃないような気分になって頭がくらくらした。
こんな緊張、国民に向けて演説したときでも無かったかもしれない。
でも伝えないと。でなければ、きっと後悔する。
さあ、言え、自分。
「わ、わたくしも、もう一度あなっ……貴方、の、試合を観たいと思ってますから……」
ち、ちゃんと伝えられなかったですわ……
男の腕の中でミーチェはどよーんと沈んだ。
ああ、本当の気持ちを伝えるってこんなに難しいものなのか。
いつもルゥに対して全力で愛を伝えられているから、想いを率直に伝えられるタイプだと思っていたのに……
もおおおおーっ、わたくしのバカあああー
恥ずかしさとやるせなさで、腹の上の子犬を乾いているタオルでがしがし拭いた。
嫌がるかと思った子犬は構われるのが嬉しかったらしく、小さな口をいっぱいに開けてミーチェの手をガブガブ甘噛みしてじゃれてくる。
愛らしい姿に、ちょっとだけ心が救われた。
「あっ」
タオルから、ぽろりとミーチェの大切なものが零れ落ちた。
バスケットに入れていたのが引っかかっていたらしい。
男が長い指で摘まみ、それを持ち上げた。
「あっ、捨てないでくださいましね。それ、わたくしの大切な物なのです」
今朝バルコニーに置かれていた、赤い実だった。
「……これが何か、知っているのか」
「いいえ?」
きょとんと、ミーチェは男を見上げた。
「これは、テテンだ」
一瞬息が止まった。
「テ、テテン!? あの、竜の巣の入り口を守るという幻の植物ですの!?」
テテン。このググリット大陸を守護する竜――「神竜」とその下で各国を治める六彩六頭の「貴竜」の巣の入り口を守るという植物で、竜を描くときには、このテテンをモチーフにした紋様も共に描かれることが多い。
「それほど珍しい植物ではない。この国の周辺は環境的に合わないらしく数は少ないが。環境さえ合えば迷惑になるくらい繁殖する蔦だ」
「そ、そうなのですか? キチューゼルならどこに生えているのでしょうか……」
「一番近いところで、魔の森の奥」
「うう、魔の森……さすがにそれは見に行くのは無理ですわね……」
魔の森、それは、キチューゼルの西方にある魔獣の住まう森だった。森の入り口は王都から比較的近いが、奥は果てしなく深く、入り込めば生きては帰れないと言われる不可侵の森。
「そんなにテテンが好きか」
「ええ、でも実は、元々気になっていたのは竜の方だったのですけれど」
「竜が、好きなのか」
「それは当然。わたくしも、幼い頃からキチューゼルの貴竜様を崇めてきましたから。この大陸を治め、安寧を司る神たる竜。昔絵本で見た神々しいお姿、そして何よりも、全てを屈服させる強さ……憧れないわけがありません」
「そうか」
「わたくしも竜のように気高くありたいと思いますわ」
「……そんないいものではないぞ」
ぽそりと呟かれたが、何を言ったのかミーチェには聞こえなかった。なぜかと言われれば、彼女の意識はすっかり別の方向へと向いていたからであった。
「でも、でも、実は……こんなことを言うと乳母やには怒られちゃうのですけれど、一番好きなのは山狼様なんですの!」
きゃあ、と頬を押さえ、ミーチェは身もだえした。
「だって、素敵だと思いません? 伝説の魔獣の王、山狼様。山のように大きな狼なんですわよ。幼い頃、ルゥが来るずっと前に見た絵本のお蔭で、わたくしすっかり嵌まってしまいましたの。そんなに大きいのであればどれだけモフモフできるか……鱗ばかりの竜では決して叶わない、モフモフ」
狼王女全開で、ミーチェはモフモフを語った。マントの下で、手がわきわきと動いていた。
「毛皮、か……」
「あっ、今ちょっとバカにしましたわね。山狼様の魅力はモフモフだけじゃありませんのよ。貴竜と戦い、勝利したという伝説まであるのですから」
「知っている」
これはキチューゼルの人間なら誰でも知っているお伽話だった。
物語の中では、一度負けた貴竜は再度戦いを挑み勝利する。何事も諦めず強くあれという教訓を示した本なのだが、ミーチェは前半部分ばかり何度も読み返していた。
「……はっ、やってしまいましたわ」
今の状況を突然思い出し、突然と我に返った。
今自分は何処にいる。一目見てときめいた男性の膝の上だ。
そんなところでモフモフへの愛を語ってしまうなど。
引かれたら困る! ミーチェは必死に言い訳した。
「あっ、で、でも、これは誰にも言ってないんですの。だって山狼様に憧れていることが誰かからルゥに伝わったら、彼が妬いてしまうかもしれないと思って……」
全くフォローになっていなかった。
わたしくし、こんなに不甲斐なかったですっけ……
山狼好きの言い訳をしようとして、自分と暮らす狼への愛を間接的に伝えてどうするのだ。
結局、自分はどこまでもモフモフ好きでしかないのだと実感する。
「ええと、あの」
恐る恐る顔を伺うと――彼が笑っているように、見えた。
引いていないのかしら…?
「三つ子の魂百まで、とは良く言ったものだな」
「……?」
男は、するりとミーチェの頬を撫でた。
「早く思い出せ、私を」