06.「こ、こんな獲物は初めてですわ……」
瞼に朝日を感じて目を開けば、ミーチェは柔らかなシーツに包まれていた。
「寒いですわ……」
ミーチェは、シーツを肩に寄せて自分ごと抱きしめる。
昼間の日差しの中ではそれなりに暖かく感じる季節とはなったが、まだ夏は遠く、朝は肌寒い。
けれど、寒いと感じている理由はそれだけではなかった。
「また、ルゥは抜け出してしまったのですわね……」
昨晩はルゥに必死に強請って強請って、なんとか一緒にベットに入ってもらった。
久々にモフモフを堪能できた素敵な夜だった――なのに、朝になったらやっぱりいない。
ミーチェは細身なせいかとても寒がりなので、ルゥの毛皮無しで眠るのは辛い。
「最近熟睡できていないのは、ルゥが一緒に寝てくれないせいですわ」
昔から、ルゥがいないと熟睡ができなかった。
城にはこんなに人が居るのに、どうして眠るときになると、世界でたった一人になったような錯覚に陥るのだろう。
王女として育てられたミーチェに、親と眠った記憶はない。母親とは早くに別れてしまったし、国王である父とは完全なる別室で顔を合わせることも稀。
そういう意味で、狼のルゥと眠れる夜は、ミーチェの中での特別だった。
『実際に結婚なさった後も夫ではなく、ずっと狼と寝るおつもりですか?』
ディーダの言葉が頭に響いた。
分かってますわ。
ミーチェはシーツの中で口を尖らせた。
こうしてルゥと眠れるのもあと少しだ。ルゥはきっと、ミーチェが一人でも眠ることができるように徐々に距離をおいてくれているのだろう。
寂しい気持ちを振り切る様に、ミーチェはえいっと起き上がった。豊かな青髪がミーチェの白い肌を滑り、今まで寝ていたシーツの上にさらりと流れる。
ベットから降り、素足で絨毯の上を歩いて窓辺に寄った。
外の空気を吸いたくて、両手で窓を開ける。
「……あら、また」
窓を開けたすぐそこ、白いバルコニーの桟の上に、赤い実がついている小枝がちょこんと乗っていた。
バルコニーに出て、周囲を見回した。柵から身を乗り出して下を覗いてみてもやはり誰もいない。
ミーチェは小さく笑い、小枝を摘まんでぶら下げた。
「姫様、お目覚めですか」
ノックに許可の返事をすれば、扉が開いて女官長のユマが姿を見せた。
「ええ、今起きましたわ」
「あら珍しいこと。昨晩はよく眠れたのですか?」
「眠りが浅くて目が覚めてしまいましたの。困っちゃいますわね」
「あら、まあ」
バルコニーまでやってきたユマは眉を落としたが、ミーチェの手にある小枝を見つけて笑顔を見せる。
「おや、また実が置いてあったのですか?」
「ええ」
昔からこの時期になると、赤い実の一枝がミーチェの窓の外に置かれることがあった。
実の大きさはミーチェの小指ほど。流線形の葉に、細い枝。枝は柔軟性があるので、枝ではなく蔓かもしれない。
この実がここに置かれ始めたはいつだっただろう。
初めは小鳥がうっかり落として行ったのかと思っていたが、すぐに違うと分かった。だって、この葉にはよく見れば棘もついている。特に大きく、危ない棘だけを丁寧に取り除くだなんて、小鳥がしてくれるだろうか。
このことを知っているのは、元乳母で女官長のユマと、ミーチェに専属で付いている二人の女官だけだった。
「あと、ルゥにも話しましたわね……。怖いとは思わなかったから、それ以外に言ってませんでしたけど、よく考えたら不思議なことですわよね」
城に忍び込んで、王女の部屋の前にこれを置いていくなんて、簡単にできることではない。
「何か悪意のある人間か、城の人間の悪戯か、なんて話し合ったときもありましたっけねえ」
「そうですわね。結局害も無いし、犯人は謎のままでしたけれど」
誰か分からない相手から贈られる、赤い実の小枝。
初めは驚くばかりだったが、そのうち、この実が置かれる日が密かに楽しみになった。
見た目も可愛いが、ミーチェが一番気に入っているのが、実の香り。
甘さの中に野性味があって、なのに爽やかで。
この香りを嗅ぐと、不思議と懐かしく、心がきゅっとなる。目を閉じて嗅げば、香りの向こう側に何かがあるような気がして、それを追いかけたくなって、何度も何度も嗅いでしまうのだった。
なんとか香りを残したくて乾燥させようと試みたこともあったが、どうも上手く行かず……結局、実が傷んで香りがしなくなるまでの数日間の楽しみになっている。
「一体、誰が置いて行ってるんですかねえ」
「ええ、不思議。一度会ってみたいですわね」
一体誰が。そう思ったら、ミーチェの頭に、昨日の闘技大会で見た、灰白色の髪の男がポンと浮かんだ。
それだけで、心臓が高鳴った。
◇*◇*◇
今、ミーチェは一人、小川の辺の岩の上で、ぼーっと釣り糸を垂らしていた。
貴竜祭三日目。今日は試合の無い中休み。
闘技大会は後半、選手の連戦を防ぎ公平性を持たせるため、二日間の中休みを入れることになっていた。
また、貴竜祭中は、政もほとんど動かず開店休業状態なので、ミーチェは毎年このタイミングで休暇を取っている。
「ずっと休み無しでしたし、ゆっくりされては?」
ユマが食料の入ったバスケットを差し出し、勧めてくれた。
「そうでわね、久し振りに散歩でもしてきますわ」
「よろしいと思いますよ。そう言えば城に住み着いた子犬が林に移動しているという話も聞きます。子犬がお好きな姫様にはちょうどよいのでは?」
「あら、いいですわね。モフモフを愛でに行かなくては」
包まれる程のモフモフも素晴らしいが、やはり小さな毛玉のような愛らしモフモフもちょっと楽しみたい。
ということで気晴らしと趣味を兼ね、城の広大な敷地の中にある、この小川に来たのである。
ミーチェの趣味は釣りだった。
「……眠い……」
しかしぽかぽか陽気に、眠気は最高潮だった。
このままうっかり寝てしまったら、ミーチェの白い肌が焼けてユマが悲鳴を上げてしまう。眠気覚ましに何か飲み物をと、バスケットを漁ると、今朝見つけた赤い実が出てきた。
あの方がこれを贈ってくれたとしたらちょっと嬉しい、だなんて、我ながら都合のよい想像をしてしまったものだなあと思う。
「……素敵な方、でしたわね」
彼を表現する言葉を口にするのも恥ずかしいように、小さく小さくつぶやく。たったそれだけで頬が熱くなった。
実は昨日、試合が終わってから、ミーチェはあの選手の
正体を知りたくて女官にあとを追わせていた。しかし、何処に行ったのか、全く見つけることができなかった。
彼のことが知りたい。
彼を思うと、心が浮き立つような、苦しいような、ミーチェの経験したことのない感覚が胸のあたりに広がるのだ。これは一体何なのだろう。
「はっ! これが、お父様が言っていた一目惚れと言うものですかしら」
きゃー、と一人で叫んでミーチェは両頬を押さえた。
そのせいで、持っていた釣竿がぽとりと落ちる。
「ああ、いけないですわ。せっかく作った釣竿が」
釣竿はミーチェの手作りだった。座っていた大きな岩の上に転がってしまった釣竿を丁寧に拾い、再度釣り針を川の流れの中に垂らす。
釣りは、ミーチェのちょっとした趣味だった。
ここはミーチェの歩幅で十歩もない程の、木々の間を割る様に流れる未整備の小川。ミーチェのお気に入りの場所だった。
座るのにちょうどいいこの岩場は、日当たりもいい。
川のせせらぎと、木の葉が爽やかに風を流す音を聞きながらのんびりと待つ……こういう時間を一人で過ごすのが好きなのだ。
だから実を言うと釣りの成果は二の次。大物なんて釣れたことはない。
が、今日は違った。
突然、くん、と釣竿が大きくしなったのである。
「えっ?」
とっさに竿が落ちないように押さえる。
ミーチェは動揺した。この川は決して浅くはないが、竿がしなるほどの大物なんて見たことがない、一体何が掛かっているのか――川面を覗き込んでその正体を知り、目を真ん丸にした。
「い、犬!?」
茶色の子犬が川面から顔を出し、キュンキュンと微かに鳴きながら釣り糸に引っかかって足掻いていたのである。
「こ、こんな獲物は初めてですわ……いえ、感心している場合ではありませんわね」
ミーチェは釣竿を放り出し、岩を降りて犬の救出に向かった。きっとユマが言っていた、最近入り込んだ子犬というのはおそらくこの子だろう。
太く短い前脚で一生懸命水を掻いている様子が愛らしいが、今はそんなのんびりしたことを言っていられない。
濡れるのも構わず水に入った。子犬が居るのは、水深の変化を何段階か経て、深さが腰ほどまでになった場所。
山から流れてくる水は、この季節はまだ冷たく、ちょっと浸かっているだけで身体が痛くなりそうだった。急がないと子犬の体力が限界になってしまう――ミーチェは転びそうになりながらも、水を押し割ながら大股で子犬に近づいた。
子犬は岩にひっかかっていた。持ち上げれば、抵抗することなくミーチェに身体をゆだねる。人を怖がっていないというよりは、どうも水に体温を奪われてぐったりしているようだった。
「よし、これで……」
子犬を抱き、すぐに岸へと戻ろうと、脚を一歩踏み出そうとして――ミーチェの身体は前につんのめる様にして倒れた。
「!?!?」
脚が動かない。
予想もしなかった出来事に混乱し、もがいてしまったことで透明な水が白く泡立った。苦しさの中で「冷静になれ」とミーチェは自分に言い聞かせる。
そして、視界いっぱいに広がる泡の隙間から、自分の動きを封じた原因を見つけた。
子犬の胴に絡まりついた、長く細い糸の束だった。子犬の脚から視線で辿ると、その先に、糸工場で生産したのかというくらい量の糸が、ミーチェの脚に絡まって動きを封じでいる。
子犬が溺れた理由はこれですか……!
自分の脚の糸を取ろうとするが、水の中で煙のように広がった糸は、下手をすれば手すらも絡みとってしまいそう。
糸を取るのはすぐに諦めた。それよりも、立ち上がって空気を確保する方がまだ安全。
しかし、両脚は糸によって人魚のように束ねられ、片腕は子犬で塞がってしまっている。片手で必死にバランスを取るが、岩の前でうねる水の流れのせいで、うまく身体を整えることができない。
子犬の顔だけは必死に水面に持ち上げるが、ミーチェの体温は奪われ、徐々に力が入らなくなってくる。
こっ……これはちょっと駄目かもしれませんわね……
こんなことになるなら、ここまで誰か連れて来たらよかった。一人になるのが好きだと知っていたから、父も女官も共をつけろと言わなかった。
それでも黙って無理矢理着いて来るのは、いつもルゥだけ。
――ルゥ……
ミーチェの大切な、灰白色の狼。
「――何をしているんだ」
ざばぁーっという音と共に、纏わりついていた息苦しさが一気に無くなった。
息が、吸える。
ぼたぼたと自分の身体から落ちる大量の水を見下ろしながら、ミーチェは必死に息をした。
ミーチェの身体は、宙に浮いていた――否、誰かに腰を抱えられ、水から引き上げられていた。水が遠くに見えるのは、位置が高いせいか頭がくらくらするせいか。
くの字に腹から折れるように抱えられ、川面を見下ろすミーチェの視界には、清水に漂い揺れる自分のドレスと、腕に抱えたままのずぶ濡れの子犬。
――あら? この景色どこかで。
酸欠でぐらぐらする意識の中、何かを思い出しかけたような気がした。その感覚を手繰ろうとしたところで、もう一度身体が浮き、同時にくるっとひっくり返されてしまう。
一瞬平衡感覚を失ったが、次には腕と背、膝の裏に人の体温を感じた。どうやら横抱きされたらしい。子犬は腹の上にぺたりと力なく横たわっている。
「無事か」
相手の声に、ミーチェは咳き込みながら頷き、空いている手で青い前髪を掻き上げた。ようやく視界がはっきりとして、助かったという自覚が湧き上がる。
そして、軽々と自分を抱き抱えて運ぶ命の恩人の腕力に感心しつつ、礼をしようと顔を上げた。
「あの、ありが……」
そこで、言葉が止まった。
「とりあえず、岸に戻るぞ」
ミーチェを助けたのは、灰白色の髪に琥珀の瞳――ミーチェが闘技場で見た、あの男性だった。
◇*◇*◇
春の陽気が満ちる温かい岩の上に下ろされたミーチェは、絶賛大混乱中だった。
どどどどどうしてこの方がここに居ますの……!?
呆けたようにぺたりと座り込むしかない。
子犬が膝の上で手をぺろぺろ舐めて感謝を表してくれていたが、ミーチェは全く気付いていなかった。
背の高い男だった。
父もディーダも決して背が低い方ではないが、この男の上背は頭一つ分高いだろう。
自分のマントを絞る男を、ミーチェはぼおっと眺めた。
襟足の髪が、少し長いんですわね……
正面から見たときは気づかなかったが、灰白色の後ろ髪が尻尾のようにほんの少し長い。
逞しさを感じる身体に身に着けている服は簡素なのに、髪質は王族のように上等に見えた。きっと触り心地もよいのだろうなとぼんやり思う。
触りたい。ぽろりと素直な気持ちを呟いたら、男がくるりとこちらに顔を向けた。
まさか聞こえてしまったか。ぎくりとした。中途半端なぎくりではなく、心臓が口から出てしまいそうなレベルである。
ミーチェがそんな心地であることなど露知らず、男は長い脚を折り、ミーチェの前に片膝をついてしゃがみこむ。
そして。
無遠慮に手を伸ばしてくるとミーチェの顎を掴んで上向かせ、あろうことか顔を傾けてぐっと近づけてきた。
二人の息が重なり合うほどに距離が近くなる。
「きゃ――――っ!?」
疑問形で叫ぶ、なんて人生初。
ばちーんと音がするほど強烈に、相手の口を両手で塞いだ。
子犬はその拍子に、目をきょとんと丸くしたまま、ころころと膝から転がり落ちていった。
「なっ……何をしますの突然!」
ちょっと触れました! 死んじゃう、死んじゃう、死んじゃいますわ!!
ミーチェの心臓は、とっくに弾けて爆発四散。生きている心地がしない。
大きな声を出さないと意識が飛んでいきそうになるの誤魔化すため、怒ったように叫んだが、顔はまるで自分の物ではないように熱かった。
男は何の反応もせず、無表情のまま、静かにミーチェを見下ろした。
お陰様で異世界恋愛ジャンル2位をいただきました。皆様の応援のおかげです。ありがとうございます。