02.「そういった男性の服の下の話題は……」
「皆、同じ顔に見えますわ……」
紅茶のカップで口元を隠しつつ、ミーチェはボソリと呟いた。呟きは、飴色の液体の中に砂糖のように溶けていく。
「今何かおっしゃいましたか?」
「いいえ?」
にこりと微笑み、何でもないようなふりをする。
確か、今話しているこの男は他国の貴族。初めに自己紹介をしてくれていたので、何とか頭の中の情報と一致していた。
女官たちが言うには、確かとても凛々しい顔立ちで貴族らしい気品も備えた相手らしいのだが……
「それはよかった。王女殿下のお声を聞き逃したのであれば、一生後悔するであろうと思っておりました」
歯の浮く台詞に、ミーチェは笑顔で引いた。
貴族らしいといえば貴族らしいが、こういった他国の文化は、正直馴染まない。
王族と国民の距離が近く、王族が、民衆に近い率直な性格と感覚を持っているキチューゼルに、こんな気取った台詞を吐く男はあまりいなかった。
「まあ、おほほ」
と、笑ってごまかしていると、別の方向から違う男が声を掛けてくる。
「王女、私にもお言葉を賜る光栄を。昨年の大会では遠くから顔を拝見しただけでしたから、一度お声を聞いてみたかったのです」
「あら、お上手ですわね。本大会ではぜひ頑張ってくださいましね」
上品に笑いながらミーチェは虚ろに思った。
ええと、この方、誰だったかしら……。
茶会直前に、経歴と外見の特徴を書いたリストを見せて貰ったが、目の前の男を見ても全く一致しない。
皆んな揃って平面に目が二つ、鼻と口が一つ……せめて毛皮と耳があればまだ判別する気にもなるのに……
気品ある微笑みの裏で、王女殿下はため息をついた。
◇*◇*◇
「これが本日の出席者リストです」
茶会直前。ミーチェの私室。
ディーダが差し出してきたリストに、やる気のない様子で目を通した部屋の主は、これまたやる気の無い声で答えた。
「顔が分かりませんわ」
リストをそのまま返し、ミーチェは横に寝そべっているルゥの灰白色の毛皮を撫でた。むっつりした顔が、艶のある毛を撫でた瞬間うっとりとし、頬が桃色に染まった。
恍惚とする王女に対し、リストを受け取った青年は首を捻った。
「年齢、経歴の他、特徴は簡単に書いてあります。……それに、昨年も出場していた者も何人か居ますが」
お分かりにならないのですか? と首を傾げ不思議そうに問いかけると、金の髪がさらりと額に流れた。
この青年、固めの表情が生真面目そうだが、よく見れば目元は穏やかな甘いマスクをしており、女性受けしそうな顔立ちであった。詰襟の軍服をぴしりと身に着けているところをみると軍人。また、装飾の多いデザインであることから、今彼が着ているのは礼装であるようだ。
この青年の名は、ディーダという。
ミーチェの元乳母で、現女官長のユマの息子。つまりミーチェの乳兄妹である。
幼い頃から王の小姓を務め、ミーチェが物心ついた頃にはすでに城で勤める身であった。
また彼の父は、国王の信任厚い、この国の将軍でもあった。家族そろって国王に仕え、また子供時代から父に鍛えられていたディーダは自然に軍人になる道を選ぶ。
軍属となったあと、メキメキと実力を発揮した彼は、小姓時代の経験も活かし、今では王の公私の安全を守るための護衛を務めていた。
王の護衛であるはずの彼がなぜ今ミーチェの傍にいるのかと言えば、国王が現在、急な怪我で臥せっているからであった。
折しもこの時期、キチューゼルが国を挙げて開催する年に一度の大きな祭「貴竜祭」の直前。
国王が動けなくなってしまったこの緊急事態に、唯一の王女であるミーチェが先頭に立つことになった。
そこに臨時補佐という形で、国王の公務を長年近くで見続けていたディーダが就いたのである。
ディーダは大変優秀な補佐であった。
国王と同じ知識、情報をミーチェに与えるため、前もって資料を用意し、過不足なく伝えてくれる。
しかし、この優秀な臨時補佐、血のつながらない男性の中ではいちばんミーチェに近しい存在ではあったが、長く国王だけに仕えていたため、ミーチェの「欠陥」のことを知らずにいた。
「貴竜祭」の目玉行事である闘技大会。その本選出場者。
昨年も顔合わせをしている選手もいるはずなのに、「顔が分からない」と言う王女に、ディーダは首を捻るばかりであった。
「去年と同じ選手がいるのは分かります。名前は覚えていますもの。でも顔が全く出てこないんですの」
片手でルゥを撫でながらミーチェは眉を寄せた。
「ミーチェ様は記憶力が良いと思っていましたが……?」
「悪くはない、と自分でも思っていましてよ。首から下のきっかけがあれば思い出すのですけれど」
意味不明なことを言う王女に、ディーダはさらに首を捻る。
と、ディーダの母親であり女官長であるユマが、リストを横から覗き込んできた。
「あらあら、今年の本選出場者も名が知れた方々ばかりですね。楽しみですこと」
「母さん……これはミーチェ様用の資料だから」
「構いませんわ。ユマ、どう? 昨年出場の選手で気になる方はいる?」
「そうですねえ……」
ユマはリストを息子から受け取ると、顎に手を当てて軽く「うーん」と唸った。が、深刻なわけではなくとても楽しそうだ。皺に囲まれた目は、乙女のように輝いている。
青の国キューゼルは、武を尊ぶ国であった。
初代国王が類稀なる武人であり、決闘で王の座を頂いたという伝説があるのが理由だろう。
軍人は子供たちの憧れの職業であり、軍部の採用試験は毎年高倍率となるほど希望者が集まる。
試験に落ち、軍人になれない者でも、大手商会や有力者に高い契約金で私的護衛で雇われたり、他国の軍部にスカウトされるものもいる。
また、国内各地にある闘技場では年中格闘試合が行われ、民衆の一つの娯楽にもなっていた。
強い人間の下には、金も人も集まった。そして女も集まった。
つまりキチューゼルでは、強い人間がモテるのである。
それは、初老のユマでさえ、目を輝かせて本選出場者リストに目を通すくらいであった。
この闘技大会の本選は、一週間に渡る貴竜祭の中で最も長い五日間開催される。
前もって全国で行われる予選を勝ち抜いた猛者が出場するため、国中から人が集まり、王都の人口は何倍にも膨れ上がるのだった。
ユマは、王女であるミーチェから注目選手のピックアップを頼まれると、うきうきとリストの中の一人を指さした。
「姫様、この方、昨年の女性一番人気の槍使いですよ」
「……?」
「ほら、槍を掴む位置を変えるのが珍しいって仰っていたではありませんか」
「ああ、槍の長短を変える柔軟な闘い方をした方ね。上腕筋が大変発達していたのも納得でした。あと踏み込み用の大腿筋も見事でしたわね」
「こちらの方は弓と剣の使い手でした」
「広背筋と上腕二頭筋がしっかりした方ね。もう少し大臀筋を鍛えて速さを作れば勝てたかもしれない、惜しい方でしたわ」
明らかに浮ついた調子のユマと対照的。淡々と記憶にある筋肉を語るミーチェに、ディーダは面食らった。
「ミーチェ様……あの、覚え方が……何というか、その」
マーヤは「おや」と息子を見た。生真面目な顔がすっかり崩れて戸惑った顔を向けている。ユマはそれこそ、ミーチェが生まれたときからの付き合いであったので慣れていたが、そう言えば、ディーダがこの手の話題に触れるのは初めてだ、と思い当たる。
ディーダが咎めたことに対して、ミーチェは拗ねたように少し口を尖らせ、きっぱりと言った。
「男性の顔など、皆同じにしか見えません」
だから、声や首から下の特徴で覚えることに慣れていたのである。
「女性は大丈夫なのですけど、どうしても男性は昔から覚えられなくて。髪型が特徴的ならともかく、城に入る人間にそれほど奇抜な髪型の方はいらっしゃいませんでしょ? だから自然と体格や骨格、筋肉に目が行くように」
「まさか陛下や俺のことも……?」
「家族は大丈夫ですの。ディーダは家族みたいなものですから判別できていますわよ」
安心してくださいな、と笑顔で言うミーチェに、ディーダはやや複雑そうな顔をした。
その顔を、ミーチェは違う意味に受け取ってしまった。
「あら、ディーダの身体のことはもちろん評価していますわよ。細めに見える体格の、服の下の外腹斜筋と腹直筋。そして背面、軍服の下にちらりと見える大殿筋の鍛え具合とバランスは見事ですわね。臀部の形の良さは国王軍随一とわたくしは評価して……」
「ガゥッ!」
横で寝そべっていたルゥの吠え声に遮られ、はっと気づいたら、目の前のディーダの顔は真っ赤になって口を押えていた。
まさか、王女に自分の尻の形を見られていたとは思っていなかったのだろう。
「あら、失礼しましたわ」
「ミーチェ様……そういった男性の服の下の話題は、できれば人前でされませぬよう……」
こほん、と気を取り直すように咳をしたディーダだが、まだ頬が赤い。
いやらしい意味で言ったつもりはなかったし、女官たちと当たり前にしていた話だったので意外に思ったが、真面目タイプのディーダがこうなるなら、あまり人前でする話ではないのだろう。
「気をつけますわ」と答えると、ディーダはほっとした顔になった。
「では、お茶会が始まります。そろそろ参りましょう」
ディーダが、エスコートするように、白い手袋に包まれた手を差し出した。
補佐のディーダがまるで共に参加するような態度をとるので、ミーチェはきょとんとディーダを見上げる。
「ええと、護衛は必要ありませんわよ? ルゥもいますから」
「お聞きしています。正直、この狼が同席という点には納得いかないのですが……」
やや渋い顔で、ディーダはミーチェが手にしたままの参加者リストの一番下を指差した。
「お近くに控えさせていただきます。俺も出場者の一人ですから」