番外:想いニ方(ふたかた)5
「×☆*;#&×●!?」
顔の爆発と同時に脳が思考の大氾濫をおこしていた。
動揺で身体を反らせてもガルグの唇は離れない上、さらにミーチェに食いついてくる。
兵たちも混乱していた。絶望で剣を取り落す者、唖然と固まる者、赤面して目を逸らす者、苦しそうに胸を押さえ膝をつく者……これこそ兵たちの心を老若関わらず集める王女ミーチェの人気があってこその反応。
ガルグの作戦は、抜群の効果を発揮した。
兵たちの面前での口づけに、ミーチェは初めこそ抵抗した。
しかし自分を抱き寄せるガルグの手の温度や、唇の感触、ほんのり香る彼の男の臭いが脳を満たし、徐々に力が抜けていった。くたりと身を預ける。されるがままの王女に、兵たちの動揺はさらに大きくなった。
「お、王女を離せ……!」
一人の兵が声を絞り出した。
何もされていないのに重傷を負ったかのようにふらつく脚で剣を構える。
ガルグの口角が上がった。
無表情な彼には珍しい。ミーチェには、彼がわざとそうしているように見えた。
「離すも何も、見ての通りだ。王女は私のものだ」
兵たちが一斉に石で殴られたような顔になった。
「……おっ、王女は誰のものでもないぞぉっ……!」
悲鳴のような声で叫んだのは、地面に崩れ、手を着いた若手の兵士だった。ちなみに顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃである。
それに勇気を与えられたかのように口々に兵は叫んだ。
「そっ、そうだ! 王女はキチューゼル国民全員のものだ!」
「結婚したって何したって誰かの者になんてならない!」
「俺らのアイドル取るんじゃねー!」
「あっ、よく見たらお前、優勝者じゃねえか!」
目の前にいる男が誰かに気づいたらしい。新たな嫉妬が火をつけ、兵たちの攻撃の方向が変わった。猛然と剣を振り上げて口撃する。
「モテ男は去れ!」
「去れ!」
「アイドル取るな!」
「取るな!」
「取・る・な!」
警備兵として駆け寄ってきたときの気迫は消え、理不尽な怒りを振り撒く、ただの王女親衛隊と化してしまった。
しかしそれが、次のひとことで空気が変わった。
「中庭で待ってるお姉さんたちと遊んでろ!」
一人の兵が嫉妬でやぶれかぶれに発した言葉だった。
その瞬間、彼らを取り巻いていた熱気が何かにかき消された。
「――お姉さん、ですって?」
突然に上がった少女の可愛らしい声。
しかし、ぴんと張りつめた冷たさに兵たちの動きが止まった。そして声の出どころを思わず探った。
声は、呆れた空気を醸し出し兵の罵声を眺めていたガルグの手元、先ほどまで脱力したように抱きかかえられていた王女から発せられていた。小さいのに凛と良く響く、兵たちも聴き慣れた声だった。
しかしそこに居るのは自分たちが見慣れた、優しく美しい王女ではなかった。
兵たちは、王女の身体から青い焔が上がったような幻を見た。
「ふふ……。そう、確かに中庭には多くのご婦人が集まっていらっしゃいましたわね」
ふわりと持ち上がったミーチェの細い指が、ガルグの顎に添えられる。
白磁のような両手で、男の整った顎を捉え、柔らかく抱えた。
顔を伏せているせいで、ガルグからも兵からもミーチェの顔は見えない。しかし、冷えるほどに立ち上る青い焔が兵たちの喉の動きを止めていた。
「本当に素敵な方ですもの。おモテになるのは分かります。でも……」
ぐっ、と両手に力を入れると、ミーチェの細腕はガルグの顔を引き寄せた。
「この方は、わたくしのものです!」
そしてあろうことか、兵たちの目の前で、ミーチェは思いっきりガルグと唇を合わせたのである。
ちゅううううううーー!
優勝者である男の一方的な片思いならともかく、王女が自ら口づけを……! 響く口吸いの音を遠くに聞きながら、兵たちは総じて灰になった。
長い長い口吸いのあと、ぽん、と唇が離れたときは、国王の居住フロアを守る軍の精鋭たちは涙を流したまま燃え尽きたように地に伏せていた。まさしく灰。風が吹けば一気に散り消えてしまいそうだった。
「ミ、ミーチェ」
珍しくたじろいだ様子のガルグだが、離れたミーチェの顔を見て、一度目を見開いた。そして柔らかく目を細めた。
怒りにまみれているかと思いきや、ミーチェの青い瞳は涙でうるんでいたのである。
細く形の良い眉は寄せられ、きゅっと引き結んだ唇は固いが、目は何かを我慢しているように、しかし決意は強くガルグを見上げている。
「……どうして笑ってるんですの」
「……いや」
よりにもよって、『わたくしのもの』とはな。
ガルグは湧き上がるものをかみ殺すように、ぷいと目を逸らすミーチェの額に唇を落とした。
「私の伴侶のキスは、兵の剣より強いらしい」
「……そんなこと言われても嬉しくないですわ」
「上等だぞ。私よりよっぽど効果的に目的を果たした」
「だから、何のですの……」
ミーチェは疲れたように息を吐いてガルグに体重を預けた。
好意を表現することをためらわないミーチェだが、さっきの行動が愛情表現とは違ったものであるのは間違いない。
急激に燃え上がった感情を昇華させたミーチェはそれこそ力を使い果たしていた。
「そんなところで疲れている場合ではないぞ。時間くった。魔鏡を取り上げにいかねば」
「ええ、そうですわね。行きましょう」
「あとで、ちゃんと続きをしてやるから」
「そっ、そういう意味で拗ねてるんじゃないんですのよ!」
「拗ねている自覚はあったのか」
「もうっ……もうっ……!」
ミーチェは固い肩をぽこぽこと叩く。ガルグはまったく平気な顔で、倒れ込んでいる兵たちを軽く飛び越え、奥へと走り出した。
◇*◇*◇
国王の私室まで向かう廊下は長く、二人が駆け抜ける間にも次々と護衛の兵たちが立ちふさがった。
「通さぬ!」
いずれの兵も並々ならぬ気迫で剣を構えている。
どうも先ほど(ミーチェのキスで)倒した兵と同じ空気を纏っていて、立ち止まったガルグは煩わしそうに息を吐いた。
「……背後に、金髪坊主の顔が見えるな」
「どうしてディーダが?」
そりゃ護衛隊長を務めているのだからディーダの命令があって然るべきとは思う。しかしそれがなぜガルグへの攻撃に繋がるのか分からない。
そもそも、確保すべきは魔鏡を持ち出して逃げている子犬ではないのか。
ミーチェは首を捻るが、ガルグはとりあえず目の前の兵の排除方法を決めたようだ。
ミーチェには、ガルグがふと肩の力を抜いたように見えた。
とたん、兵たちの怒りに赤らんだ顔がザッと青ざめた。次々と剣を手から離し、揺れる地面に立つかのように激しく震え出す。恐れおののくように、大量の汗を流して次々と膝をついて自失した。
「用事が済めば去る。邪魔をするなと金髪坊主に伝えろ」
そうして悠々と兵たちの横を通り抜けた。
「……兵たちは、急にどうしたのですの?」
再び駆け出したガルグに、ミーチェは少し不安そうに問いかける。
彼が、再起不可能になる何かをしたと思っているわけではない。ただ、単純に不思議で、そして兵をあのまま放置することを心配した。
「普段、抑えているものを解放しただけだ。訓練された者たちだからしばらくすれば元に戻るだろう。魔獣の全開の気をあてられれば普通ああなる」
「……気?」
「少し敏感な人間なら……例えば女官や金髪坊主などは普段から漏れ出ている気にさえ反応する。本気で解放して、全く平気なのはお前くらいだ」
きょとんと眼を丸くするミーチェに答える声には苦笑が滲んでる。
どういうことかと問いかけようとすれば、獣のようにガルグが鼻で空気を吸った。
「いるぞ」
追っているのは城で飼われている子犬。ガルグの鼻は、子犬の行き先を明確に捉えていた。
ミーチェがガルグの視線の先を見れば、突き当りには天井まで届く豪奢な扉。その前に二名の護衛兵が剣を構えていた。
ガルグはこれまでと同じように兵たちを気絶させよう気を解放する。
しかし、予想外のことが起きる。
王の私室へと続く扉が僅かに開いたのだ。
顔を覗かせたのは小柄な初老の男であった。
何事かと興味を持って扉を開けたらしいが、殺気を放つ兵を見、そして廊下の先から駆けてくる自分たちを見て、目を丸くした。
「あら」
ミーチェが声を上げたが、遅かった。
兵が硬直したと同時に老人も限界まで目を見開き、ピーンと身体を突っ張らせて兵と一緒にばったりと倒れてしまったのである。
「これは誰だ」
扉の前で老人を見下ろし、ガルグは尋ねた。
「お父様の侍医ですわ。まあまあ、タイミングの悪い……」
閉じかけた扉に挟まれるようにして倒れている老人は白衣を着ていた。
なるほど医者か、とガルグは頷く。
侍医は白目を剥き、口から泡を吹いて倒れていた。
なるほど鍛えてない人間はこうなるのか、とミーチェはガルグと違う意味で頷いた。
「これ、いつ目覚めますでしょう」
「老人だからな……とっさに手加減はしたが、数日は無理かもしれんな」
「困りましたわ。お父様は動けませんのに、侍医が倒れてしまいました。他の医者を探さなくては……」
ミーチェはため息をついて頬に手を当てた。だがそれほど深刻そうでもないので、心当たりはあるのだろう。
それよりガルグには気になったことがある。
「そういえば、王が臥せっている原因は何なのだ」
急な怪我で国王が人前に出なくなってからもう二カ月近く経っていた。ガルグが城を離れていたときのことであったので何があったのかは知らない。
「あら、言っていませんでしたか?」
「王の話などほどんどしないだろう」
「そういえばそうですわね」
ミーチェが人と居る場所に狼は滅多と来ない。またプライベートな時間は、ミーチェは狼にくっつくのに必死でなので、一緒に過ごしていても王の話題に触れることなどなかった。
その気になれば、彼の聴力ならば盗み聞くことができた。扉の前に立てば、中の会話など真ん前で行われているかのように聞き取ることができる。
しかしガルグはしなかった。理由は至って簡単。国王に対する興味がこれっぽっちもなかったからだ。
よくも悪くも、ガルグが興味あるのは常にミーチェに関してだけ。
「実はお父様に近しい者以外、臥せっている理由を知らせてはいないのです」
ミーチェは、神妙な顔をして扉を見上げた。そしてガルグから降り、侍医の身体を避けるようにして自ら扉を開く。
扉を開けてすぐの部屋は、寝室ではなく、テーブルとソファーがあるだけの居間であった。
テーブルとソファーしかないとはいえ、それらの家具は繊細な模様が折りこまれた布地を使った椅子に、技巧を凝らした彫刻と塗りが施された応接テーブルである。床の毛厚の絨毯には金糸が織り込まれ、組木床の上で存在を主張するように陽の光を反射していた。
ここにも兵が数人倒れていた。
……扉が開いていたから部屋の中にも影響があったのだろうか。
ミーチェは兵に構うことなく、慣れた様子でその絨毯の上を斜めに進み、右の壁にある扉を押す。
「ここが、お父様の寝室ですわ」
扉は二重になっていた。ミーチェが把手を捻り、引いた一歩先に、もう一枚同じような扉がある。内扉の把手に手をかけ――ミーチェはガルグを振り返らず静かに言った。
「……本当は、あまりお父様にお会いして欲しくないのです」
「一体それはどういう――」
「お父様、起きていらっしゃいますか」
ガルグの言葉を遮るように、ミーチェは中に声をかけた。
「……ミーチェか」
弱々しく聞こえたのは、確かにガルグもよく知った国王の声であった。




