番外:想いニ方(ふたかた)4
ぽかんと口を開け二の句を告げないでいるミーチェとは対照的に、背後のガルグの反応は素早かった。
ミーチェの身体が脚から浮いた。
ガルグにより抱え上げられたのだ。
驚く間もなく、ガルグは窓を挟んで立つ女官の間を擦り抜け、ミーチェごと窓の外に飛び出しそのまま落下した。
悲鳴が上がった。
ミーチェの口からではなく、中庭に居た女性たちからだ。
しかし心配をよそにガルグは二人分の体重は感じさせることなく中庭に軽やかに着地をする。そしてそのまま城の奥に向かう方向へと駆け出した。
中庭詰め掛けていた女性たちは、驚き慌てて王女を抱えたガルクに道をあけた。
「ミーチェ様!」
二階からディーダが叫んだ。声はミーチェを呼びながらもガルグへの制止と非難が込められてる。ガルグがミーチェを怪我させることはない、その信用だけはあるようだが、王女を強奪するように運び出したことへ怒り狂っていた。
「あの男を追え! その先に件の犬もいるはずだ!」
ガルグは鼻が利く。一度目にしている子犬の臭いを嗅ぎつけて走り出したのだとディーダも気づいたに違いない。
周囲に命じるディーダを残し、ミーチェたちは中庭を後にする。
「怖くないか」
悲鳴も上げなかったミーチェにガルグが聞いた。
「怖がる必要なんてありませんもの」
馬が駆けるような速度のせいで髪が舞い上がっていた。青く振り揺れる髪を押さえ、ミーチェは見上げて微笑む。
確かにちょっと驚いたが、自分を抱き上げたのはガルグだ。彼に身体を支えられていて不安になることなどどこにあるだろう。
「悪かった。この方がこちらの事情を説明しやすかったのでな」
「気になさらないでくださいな。それより――先ほど聞きたかったのは、魔鏡についてでしたか?」
魔鏡が盗まれたと聞き、すぐに行動したガルグ。
先ほどから何度か自分に聞こうとしていたことはこれだろう。
「さすが察しがいいな」
「どうして急に? 魔鏡のことなど、これまで気に掛けたことありませんでしょう?」
「それ以前に、まだ保管されているとは思っていなかった。あれは私が噛み砕いたはずだ」
「ええ、確かに。初めて出会ったあのとき、わたくしを助けるために割ってくださいました」
十七年前、魔鳥にさらわれたミーチェを助けるため、山狼が住む魔物の森へ、国王軍はやってきた。
そして、一斉に山狼へと魔弓で矢を射かけたのである。
しかしその時、誤作用を起こしていた魔鏡のせいで山狼の体は万全の状態ではなかった。
魔鏡で大人の身体へと成長していたミーチェは、迫り来る数十本の矢の前にその身を投げ出し、山狼を庇おうとしたのである。
「あれは今思い出してもぞっとする。確実に獲物を貫く魔術をかけられた矢が全てお前の背に向かっていた」
「夢中だったのですわ。まだ子供でしたし」
身体は大人でも、あのとき、齢一歳だった自分の思考はきっと幼かった。たった一人の王女であるという意識も、守るべき民と国のことも、目の前の大切な狼を失うかもしれないという現実の前に掻き消えていた。
「二度とするな」
自分の身を捨てるようなことをするな。あの時に約束させられたことを、恋人となった彼が、前を見据えたまま強く言う。ミーチェはほんのりと笑ってしまった。
「ええ、しませんわ。たぶん」
「たぶん?」
きらりと琥珀の瞳が光ったが、ミーチェは微笑んだままで受け止めた。
「三つ子の魂百まで、でございましょ? 昔のわたくしが無意識にしたことを今もしないとは言い切れませんわ。だって今も昔も――貴方はわたくしだけの大切な方なのですもの」
ガルグが虚を突かれたような顔になった。
言ってから、ミーチェは自分の顔が熱くなるのを感じた。
彼と初めて出会った十七年前のことは、何の影響か、ついこの間の出来事のように鮮やか覚えている。
乳母から聞かされた最強の魔獣の伝説に心奪われた瞬間から、彼はミーチェの全てだった。
しかし当然、一国の王女が、魔物が跋扈する森の奥に住む魔獣の王と出会うことなど出会えるはずがない。普通の人々が恐怖する魔獣に憧れる、変わり者の王女が、絵本の中の伝説に憧れて終わる。ただそれだけの話のはずだった。
けれど、ミーチェは彼に出会ってしまった。
運命的に出会い、しかも当時幼子であったにも関わらず、魔術により身体が成長したお蔭で言葉と心を通わせることができた。
奇跡としか言いようが無い出来事が起こったのだ。
これの奇跡を、幻にしたくはない――当時のミーチェは必死でこの運命を逃すまいとした。
キチューゼルの王女として、青の髪と瞳を持って生まれたときからミーチェの運命は決まっていた。竜の代行者として国を治める。それを拒否する気はなかった。国も民も、ミーチェにとっては守るべきもの。
けれど、王女としてではなく、ミーチェが心から我儘に望んだのはガルグだけだった。そうして得たガルグは、ミーチェにとって何にも代えがたい唯一。
ガルグも自分のことを十七年も一途に想ってくれていたのを知っている。それはミーチェの心を満たしている事実だった。
二人の仲が秘密になっていることすら、ミーチェはほんの少しの独占欲と共に喜びを感じていた。
それが――
先ほどの中庭の出来事を思い出だす。
これまで人々にとって、ガルグはただの、大きくて少し恐ろしいだけの狼だった。
誰も狼に近づかない。ルゥもミーチェにしか身体を触らせようとしなかった。ルゥはミーチェだけのものだった。
しかし、大会をきっかけに人化した彼は一気に目立つようになった。
彼の姿は人の心を奪い、心の在り方は人を惹きつける。正体が分からない男なのに、人々の関心は彼に集まっている。
これから、婚約が発表され、ガルグの存在が世に出たとき、人々は彼にどんな目を向けるのだろう。そして、彼との関係はどうなっていくのだろう。
先ほどミーチェの胸に渦巻いたのは、ミーチェに見える彼の世界が広がり、未知となることへの不安だった。
「ミーチェ、どうした」
急に黙り込んだミーチェに、ガルグは伺うように声を掛けた。
はっとなって、ミーチェは自分を叱咤した。今はそんな個人的なことで沈んでいる場合ではなかった。
「いいえ、なんでも。それより、魔鏡がなぜ保管されていたか、ですけれど」
首を振り、ミーチェは彼の持っていた疑問に答えた。
「割れて魔術が解けたとはいえ、魔道具は魔道具です。確かにわたくしと貴方にかかっていた魔術が解かれましたが、鏡そのものの魔術が消えたわけではない、と、お父様が臣下に命じて回収させたのですわ。そして厳重に保管しておりましたの」
「まだ使える魔道具と同じ建物に、か……」
「一括管理ですわ。警備の人数も多く避けませんもの」
「それが仇になったという訳か……」
「……何か、ありましたの?」
走る速度にも慣れ冷静になって見れば、自分たちはどうやら城の中をぐるぐると回るように走っているようだった。
聞けば、ガルグが「臭いがそう動いているのだ」と答える。子犬が逃げた経路を辿っているのだろう。
鋭敏な嗅覚を利用し、上手い具合に兵を避けながら走っていたガルグは、ミーチェの怪訝な問いに若干眉間に皺を寄せた。
「魔鏡がまずいことになっているらしい。そこで青の奴から、頼まれ事を押し付けられたのだ」
「貴竜様から?」
「ああ、だからあの金髪坊主たちより魔鏡を先に取り戻す必要がある。協力してくれ」
キチューゼルの青い貴竜と彼は「青の」「灰の」と呼び合う仲。
世間では神たる守護竜と悪の魔獣と認識されている二頭だが、実は憎まれ口をたたき合うほど気心知れた友人同士だった。
その貴竜は、ミーチェとガルグの仲を気にかけ、何かと後押しをしてくれている。
「貴竜様からの頼み事であれば、当然協力致しますが……一体何ですの?」
「魔鏡を魔物の森に持って来いと。それも内密に」
「まあ」
意外な言葉に思わず目が丸くなる。
「それはまた……王命でしか持ち出しも使用もできない魔道具を……。貴竜様の命とは言え、なかなか難関ですわね」
子犬から取り戻すだけなら容易だが、その後が困難だ。
「魔道具は国の重要機密であり、魔物対策の最強の武器ですわ。専門の管理部門もあるというのに、それを誤魔化して内密に持ち出せとおっしゃるのですね」
「ああ。だから私が盗み出そうと思っていたのだが……まさかこうなるとはな。悪いが、お前を巻き込まざるを得なくなった」
「あら。黙って盗まれるのも少し困ります。それに、頼っていただけるのは嬉しいですわよ」
笑ったが、すぐにミーチェの顔は真剣になった。
「十七年前『魔鏡は不良品だ』と貴竜様がおっしゃっていましたが、今回の件はそれと何か関係が?」
普段はのんびりした王女だが、こういったときの頭の回転は早い。
ガルグは頷く。
「魔鏡の本来の作用が、魔力の吸収であるのは知っているだろう」
「ええ、だからお父様は、魔鏡を子供だったわたくしに御守りとして身につけさせていました」
過剰な魔力は、特に子供には毒。国王は一人娘であったミーチェに、魔力を吸収するという貴重な魔道具を与えていた。
しかし山狼に割られたことでその役割を終えたはずだった。
ガルグは建物を外れ、次は庭に出ていた。子犬は随分と好きに走り回っているらしい。
ひょいと植え込みを飛び越え、ガルグはひた走る。
「壊れていたはずの魔鏡だが、人間たちの懸念通り、弱々しくも本来の作用は失っていなかったらしい。保管庫は、言わば密閉された魔力の貯蔵場所だ。現役の魔道具から漏れ出た魔力が淀み、貯まる。ここで長年かけ徐々に魔鏡に吸収されていたのだろう、ということだ。――この間、青のが城に来ただろう」
「わたくしを魔物の森に連れて行ってくださったときですわね」
「そのとき、城から歪んだ魔力を感じたという。またおかしな作用を引き起こしかけているそうだ。こうなれば人の手で破壊することも難しい。十七年前の再現がされる前に、自分が完全に破壊すると」
不良魔道具が、竜の代行者である王族が暮らす城の中で、再び何かしらの作用をもたらそうとしている。
これは由々しき事態だった。
「ちなみに今、魔鏡の魔術が発動したらどうなるのですか」
「分からぬそうだ。人が凶暴化するのか、巨大化するのか、または急激に年を取るのか、逆に赤子になるのか……」
「望ましくないことばかりですわね……」
「だから早く回収せねばならん」
「内密にとおっしゃられた心は分かりませんが、となると貴竜様のお告げという無理矢理な理由で破棄するという手も使えません。強引にやるしかありませんわね」
ミーチェはため息をついた。
この間も、ガルグはせっせと城の中を駆けていた。
解放区画で驚愕する官僚たちの目の前を駆け抜け、二人は今、王族専用区画へ続く回廊へと脚を踏み入れている。
実はこのとき城の内部では、ディーダから子犬探索と王女かどわかし犯追跡の厳命が出されていたのだが、命令よりもガルグの移動速度が速く、追いついていない。
命令より速く、国内で最も重要な警備区域にあっさりと踏み入れた誘拐犯が漏らすのは、人々が崇めている青い竜への愚痴だ。
「自分で取に来たらいいものを。あやつ、前に出るのが嫌らしい。なんとか私と人の手で片付けてくれと言ってきた」
「国王の代替わりにしか姿を見せないのが貴竜ですから、仕方ありませんわよね」
「全く、厄介事を押し付けおって」
ちっ、と舌打ちしたのは、目の前に警備兵が居たからではなく青い友に対してだ。
警備兵は、王族区域に入る扉の両側で、こちらに駆けてくる男を見て槍を構えていた。
どうやらガルグが誰かも、彼が抱えているの細身の女性が王女であることも分かっていないようだった。
「そこの者、止まれ!」
「……面倒だな」
呟くやいなや、ガルグは回廊から庭へと方向を変えた。そしてそのまま地面を蹴り、二階のバルコニーへと舞い上がる。
さすがにミーチェも声を失った。
先ほど自分の元へはこうやってやって来たらしい。
人ひとりを抱えての軽々とした跳躍。さすがに人の仕業ではない。
階下では、兵たちがあんぐりとこちらを見上げていた。
中庭から見上げていた令嬢たちと同じ顔だ。
「考えてみれば、わたくしが開けなさいと一言命じればよかったのでは?」
「時間が惜しい。それにこっちの方が近道だ」
ガルグはそのまま、バルコニーを跳んで渡るという離れ業をやってのけた。
自らの長身も、ミーチェの体重も感じさせず、水平に、斜め上にと苦も無く跳ぶ。
しかも抱きかかえている恋人に配慮してか、着地は抜群に柔らかい。無駄な衝撃を一切感じることなく、ミーチェは最上階へとたどり着いた。
息を乱れさせることすらなくバルコニーに降り立ったガルグは、すん、と獣のように鼻を吸った
「犬は、この奥にいるな」
「あの子こんなところにまで!? ここはお父様の私室がある階ですわよ」
「臭いがまだ新しい。今ならまだ国王の部屋に着くまでに捕まえられるかもしれん」
開いていた窓から中へと入り込んだところへ、「いたぞ!」と叫ぶ声が聞こえた。厚手の絨毯に覆われた廊下の向こうから警備兵が数人駆けつけてくる。
その様子は、侵入者を決して王に近づけてはならぬという義務感と鬼気迫る気合に満ちていた。
「待て、止まれ!」
しかしガルグの間合いの外で兵たちは急停止した。
彼らはここで、侵入者の腕にある者の正体を初めて知った。
「――王女!」
「侵入者は王女を攫った奴だ! 他の兵に知らせろ!」
どうやらようやくディーダの命令がこちらまで伝わったらしい。
熟練らしい兵の鋭い命令に若い兵が一人来た道を駆けて戻る。
ミーチェが制止するまでもなく、兵たちは次々と剣を抜きガルグを威嚇した。
「……貴竜様からは、内密に、と言われているんですわよね……」
魔鏡が盗まれた。同時期に王女も連れ去られた。
これが兵たちの中で勝手に同一犯とされてしまうのは時間の問題な気がする。この一件、内密とは無縁の騒動に発展しかかっていた。
事後処理を想像してミーチェはこめかみを押さえた。兵たちを止めるより、今は頭痛を先に止めたい。
「ひとつ騒動を収めたいときは、それを上回る騒動があるといい」
剣を向けられても平然としてガルグが言う。
「そういう手もあるかもしれませんけど、今この状態で何を……」
「お前を連れてきたのはこのためでもあったからな。ちょうどいい」
「どういう……」
どういうことですの、という言葉はミーチェの口の中に消えた。
ミーチェの青い瞳が真ん丸に見開かれていた。
思わぬ光景に、カラン、と兵の一人が剣を取り落した。
兵たちの目の前で、ミーチェはガルグに深く口づけられていたのである。