番外:想い二方(ふたかた)1
番外編です。本編の一カ月程あとのお話。
爽やかに陽の満ちる城の一室に、王女はいた。
長椅子の上にゆったりと座り、膝の上のものを弄びながらほんのり頬を染めて微笑んでいる。
女官たちは、その光景を壁に並んで眺めていた。
「ふふ……触れているのに確かでない、この柔らかさ。まるで羽毛のようですわ……。あら、まだ触られるのに慣れていないのね。初心ですこと。ほぉら、恥ずかしがらずわたくしに体も心も委ねてごらんなさい……」
痴女か。
王女直属の女官二人の心の声は見事にハモった。
可愛がるのはいいが、いかんせん王女の言葉はいつも淑女と痴女の境界線ギリギリ。こうして私室に押し込めて会わせたのは正解だった、と女官たちは呆れ顔の裏で胸を撫で下ろす。
とりあえず、
「王女、子犬の教育に悪いんでその辺にしといてください」
度を超す前に、歯に衣を着せずに王女を止めた。
「きゅーん」
王女の膝の茶色の塊が、躊躇うような甘えるような声を上げた。王女に話しかけられていた毛玉の正体は、茶色の子犬。
「まぁ。何が悪いんですの」
仰向けに腹を見せている子犬をこしょこしょと弄びながら、ミーチェは女官に抗議の視線を飛ばす。
「貴女たちがこの子を独占するからわたくしが遊ぶ機会がないのですよ。ようやく心置きなく触れたと思ったら物言いが入るなんて理不尽ですわ。わたくしからモフモフの機会を奪うんですの」
いや違いますって、と返すが王女は全く聞いていない。
「久しぶりのモフモフなのです」
とうとう子犬を抱きしめ「まだ返しませんわよ」とその柔らかい毛に包まれたお腹に顔を埋め、ぐりぐりと擦り付け始めた。
「きゅー」
子犬が前脚を曲げてくすぐったそうに身をよじった。嫌がっている様子がないのだけが救いである。
モフモフされているのは、ある日王女がずぶ濡れでつれて帰ってきた子犬。
刈り取り前の稲穂のような色合いのふわふわの毛で覆われた元気な子犬は、王女の許可(というよりは推奨)を得て城で飼われることになった。
世話をするのは女官たち。
愛想がよく、誰にでも懐く子犬は大層可愛がられ、あっという間に人気者になった。
それは、昔から王女の近くに侍っている大型の狼が怖すぎての反動だったのかもしれない。
「別に子犬に予定がある訳じゃないからいいんですけどー」
「どちらかというと、そろそろ離さないと王女の方が困るんじゃないですか」
壁から動かず、女官二人は知った顔で忠告をした。
「この後の、謁見の時間はちゃんと把握していますわよ」
「そうじゃなくってー」
「どういうことですの?」
王女が眉を寄せる様子に、「やれやれ」と視線を合わせた二人。その背に、同時にぞっと這い上がる感覚が。
「ひゃっ、来た!」
「もうヤダ、帰りたい!」
「??」
女官たちは護衛として王女に侍る身でもある。もちろん日頃から身体と感覚を鍛えてはいるが、長年に仕えていてもこの圧迫感は慣れない。
何かに怯えて背中の毛を逆立てる子犬を抱え、一人きょとんと首を傾げる王女。
ここまで強い圧迫感ならシロウトにでも分かるはずなのに、どうしてかこの王女は昔から全スルーだ。
『ミーチェ、それは何だ』
来た――女官たちは両腕で自身の身体を抱きしめ、押しあうようにして部屋の角へと移動した。
重い扉を自ら開け、のそりと入ってきたのは灰白色の大きな狼。
「ルゥ!」
パッと顔を輝かせるミーチェとは対照的に、膝の上の毛玉を見て細められる狼の瞳。
「あ、痛い!」「空気がさらに痛くなった!」女官たちが遠くの隅っこでわめいているが、ミーチェは狼の様子に首を傾げるばかり。
「ルゥ、ちょっとご機嫌斜め……ですわよね? 魔道具を見に行っていただけなのにどうしてそんな顔をしていますの? 魔道具が見れなかったんですの?」
王女が少し悩んでから口にしたのは、女官からすれば全く的外れな問いかけだった。
『魔道具は確かに確認した。それで聞きたいことがあって戻ってきたのだが……』
ルゥは子犬に一度目をやり、次にミーチェに琥珀の視線をひたりと据えた。
そして、次の言葉を続けることなくこちらに歩み寄って来くる。
数歩進むうち、体が青く淡く光る。それがミーチェの眼前まで至る時には狼の影が高く縦に延び、灰白色の髪をした男の姿になっていた。
ミーチェが目を丸くした。
彼が人前で人化することはほとんどなかった。
それもこれも、彼がまだ正式に婚約者と発表されていないせい。
誰かも分からぬ男がミーチェの傍に居る、などとおかしな噂が立つのは厄介だから――ディーダにそう進言され、ミーチェは人化した彼と二人きりにならぬよう気をつけていた。
彼も言わなかったが、ミーチェの意に添うよう無闇に人化せぬようにしていたように思う。
が、今の、迷いのないガルグの変化はどういうことだろう。
ミーチェの戸惑いをよそに、ガルグは無表情のまましなやかに近づき、長い腕でひょいと膝の上の子犬の首を掴み、毛長の絨毯に下ろした。
子犬は絨毯の上でころりと転がり、子犬特有の膨れたお腹のせいで起き上がれずじたばたともがいている。
それに頓着せず、ガルグは椅子に片膝を乗り上げ、長い両腕を伸ばしてミーチェの座る長椅子の背に置いた。腕が置かれたのはちょうどミーチェの両側。しなやかな筋肉の着いた男の腕の囲い。
「……えっ?」
久々のガルグに見惚れていたミーチェの反応は一瞬遅れた。
「ええっ!?」
腕に囚われ、近い距離にあるガルグの胸板と顔に、ミーチェの白い肌が一瞬で赤くなる。
「毛皮がそんなに恋しいのか」
耳に触れるか触れないかの距離で、ガルグの薄い唇が動いた。
王女に答える余裕などない。ぱくぱくと口を開け閉めするだけで完全に硬直していた。
「……王女、心臓高鳴り過ぎて止まるんじゃないかしら」
壁際。自身の両腕を身を守るように抱える姿勢のまま、女官の一人が呆れた声音で隣の女官にぽそりと言った。
「その前に頭に血が上り過ぎて失神するんじゃない」
同じ姿勢で、隣の女官は半眼で答えた。
一方、ミーチェの顔の寸前にはガルグの首筋があった。
そこにはいつもある豊かな灰白色の毛はなく、触り心地の良さそうな髪の毛と、男性らしい、筋の張った首と逞しいのに太すぎない肩がある。マントに遮られているというのにガルグの体温を感じてしまい、心臓は激しく鼓動を打つ。
「……あ、あの、死んでしまいそうなので、ちょっと、離れてくださらない……?」
「なぜ」
「だってこんなに近い……」
「いつも一緒にいる。今更だ」
「どうして今日はそんな意地悪ですの……」
思わず半べそになってしまう。
心を通わせるようになり、ミーチェの行動にも少し変化が出てきていた。今まで問答無用に擦り寄ることができていたルゥに対しても、少し触れるのを躊躇うようになった。
ルゥが素敵すぎて仕方がないのだ。
いや、素敵だとは以前から思っていた。けれど、ガルグに相対するときのように、ルゥを見ても勝手に心臓が高鳴るようになってしまった。
青い眦に滲む涙に、それまで耳にあったガルグの唇が吸い寄せられるように近づいてくる。
ミーチェはきゅっと目を閉じた。
「……お前の傍にあるのは私だけでいい」
軽く瞼に触れた唇が、今度はミーチェの桃色の唇に触れようとした。
「こんなところにいたのか、狼」
ばあん、と音を立てて扉が開いた。
きびきびと部屋に入って来た男の正体を知り、女官たちは先ほどまでの緊張感も忘れ、きゃっと短く黄色い声を上げる。
「あ、あら、ディーダ」
思わずガルグを押しのける形で姿勢を正したミーチェだったが、残念ながらガルグはびくともしていない。
「ノックの返事も待たず申し訳ありません、ミーチェ様。その狼に用事がありまして」
「用事?」
丁寧に腰を折る王女臨時補佐に対し、ミーチェはぐいぐいとガルグの顎を押しやりながら首を傾げる。
ディーダがガルグに用事とは珍しい。
女官たちも揃ってディーダの方を見つめた。
「はい。軍から正式に、闘技大会の優勝者への召喚を行いまして。優勝者を招いての公式訓練を」
「ああ、今日でしたのね」
「はい――おい、狼、さっさとついて来い」
ミーチェへの丁寧な態度から、後半隠すことなくがらりと雑に声音を変えディーダはガルグに言った。
しかし当のガルグはミーチェを腕の中に捕らえたまま、無表情でディーダを見ようともしない。無視しているのではなく初めから関心がないのだ。
国王の信任厚い護衛隊長であり、キチューゼルでも屈指の剣の実力者であるディーダに対し、ここまで堂々と自然に眼中に入れないのは、さすが魔獣の王と言うべきか。
「人間の決めた時間に従う理由はない」
こちらは見ないままだが、珍しくガルグは答えた。内容はともかく。
あらかじめ予想をしていたか、ディーダが唾棄するように返した。
「やかましい。承諾したのは貴様だろう」
「今はミーチェに用事がある。それが済んでからだ」
「残念ながら、ミーチェ様もこれから謁見だ。貴様が軍に拘束される時間帯に合わせてきっちりと公務を入れさせていただいているから、お前に関わりあう時間はない」
女官たちが「さすがディーダ様」と感心した顔で拍手を送った。
魔獣の王は人の規律や理屈には付き合わぬが、ミーチェの王女としての務めを決して邪魔しない。
致し方ない。そんな様子で渋々とミーチェの拘束を解いたガルグは、一房青い髪を掬いながら名残惜しそうに起き上がる。
「すぐ終わらせて戻る」
「は、はい。いってらっしゃいませ……?」
珍しくディーダに素直に従うガルグに首を捻るミーチェ。ミーチェだけでなく、壁際では女官たちも揃って同じ方向に首を傾げていた。
ディーダはそのままガルグを引き連れていくつもりで王女に一礼し踵を返す。ガルグもミーチェから離れて扉に向かう……かと思いきや、一旦離した長い体を折り曲げ、ミーチェの耳元に口を寄せた。
「後でゆっくりと」
いつも通り淡々とはしているが柔らかい声に、ミーチェは頬を染めた。甘い語らいを想像し、目元を紅色にしたまま、そっと上目づかいにガルグの整った顔を見る。――が、そこには、ミーチェが思っていたよりも色を濃くして揺らめく琥珀の瞳があった。
なんだろう、瞳の奥には甘さではない炎がちらついている。
戸惑うミーチェの様子を感じたか、ガルグの口元がミーチェにしか分からないほど微かに緩んだ。
そして、再度耳元に口を近づけ、ゆっくりと絡みつくような声音で囁いた。
「後でゆっくりと――灸を据えよう」
「ひぇうっ!?」
予想外の言葉に、悲鳴と疑問が混ざって変な声が出た。
「狼!!」
続けて怒号混じりのディーダの声に、ミーチェは二度飛び上がった。
はっとなって王女にだけ謝るディーダに向かって、気にするなと返事をしたときには、ガルグはもう部屋の扉から出て行くところだった。
「また貴様は勝手に!」と踵を床に乱暴に打ち付けながら出て行くディーダをあっけにとられるように見送る。まだ頭は混乱したままだった。
灸を据えるとは、自分は何か彼の意に沿わぬことをしたということか。しかしミーチェに思い当たる節はない。
とうとう部屋の隅に固まる女官たちへ、助言を求めて目を向けた。しかし。
「お仕置きですね」
「お仕置きね」
生ぬるい表情で頷き返された。
もうさっぱり何やら意味が分からない。
お灸もお仕置きも、王女として蝶よ花よと育てられたミーチェには未知の世界だ。不安しかない。
そこに、落ち着いたノックの音が聞こえた。
返事をすれば、扉から女官長のユマが現れた。補佐のディーダが離れたため代わりにやってきたのだ。
ユマは王女に向かって丁寧に告げた。
「姫様、謁見のお時間です」
困惑は収まらないが仕事は待ってくれない。ミーチェはとりあえず頷いた。




