14.「これからいくらでも」
ルゥはミーチェを乗せ、森の中を流れるように駆けた。
魔鳥から逃げたあの時よりも滑らかな疾走。背に跨り、ルゥの首に腕を回して伏せるようにしたミーチェは、目を閉じて、月夜の森の風と毛並みを両頬で堪能した。
『着いたぞ』
緩やかに立ち止まり、狼が告げた。
「テテン……」
目を開ければ、眼前に広がっていたのは、森の天井から流れるように広がった、壮大なテテンのカーテン。
二本の大樹に渡って植物の蔦が絡みつき、そこから無数の緑の蔦が赤い実をつけて垂れ下がっているのである。
いつか、夢で見た景色。
しかし、あの景色が陽の光に照らされたものであったのに対し、今は夜。澄んだ月明かりに浮かび上がったテテンのカーテンは、ここに静謐で幻想的に存在していた。
『ショック療法』
「え?」
『竜に乗せてここまで来る。本当はそういう計画だった』
「まあ」
ミーチェは笑った。なんとも優しいショックを考えてくれていたものだ。
実際は魔鳥に攫われるという、トラウマにも等しいショックをきっかけに昔を思い出した訳だが……
「できれば、こちらの方法で穏やかに思い出したかったですわね」
『怖い思いをさせた』
「あればわたくしの油断が招いたものですわ。誰にも責任などありません」
攫われても怖くはなかった。ミーチェが心底生きることを望んだのは、ルゥとの別れに心が割れそうなほどに辛いと感じたときだけだった。
『また、ここに来ようと約束した』
「……ええ、覚えていますわ」
ミーチェに、懐かしさと悦びが満たされていた。
「いつかまた見に行こう」。かつて彼は言った。
ちゃんと覚えていてくれたのだ。――いや、忘れていたのはミーチェだから、彼はずっとここにミーチェを連れてくるのを待っていたのかもしれない。
十七年間、ずっと。
「昔より大きくなっていますのね」
胸がいっぱいで下手なことを言うと泣いてしまいそうになって。
ミーチェはとっさに全く関係のない感想を口にした。
「十七年経っているからな。成長もするだろう」
振り向けば、人型を取ったガルグが立っていた。
「あら、ルゥはもう終わりですの?」
「残念そうな顔をするな。そんなに毛皮がいいのか」
ルゥもガルグも同一人物(?)なのに、ほんの少し、不本意だという声音でガルグが眉を寄せた。
「もっとモフモフしたかったですわ……」
「そんなの、これからいくらでもすればいい」
これからいくらでも。
どうしてそんなさらりと言ってくれるのか。
ミーチェはガルグの不意打ちで見事に頬を染めた。
「どうした」
顔を伏せたミーチェにガルグが近寄って来る。
「だっ、ダメですの。待って。それ以上近づかれたら……!」
死んじゃいます。
心臓の早鐘がこれ以上なくミーチェの頬と頭に熱を運び、触れられたら死んでしまいそうだ。
ついさっきまでは、もっと触れてほしいと思っていた。体温を感じたい、すぐ耳元で声を聴きたいなんて思っていた。なのに今は口が勝手に「ダメ」だなんて言う。
本当に矛盾している。ルゥのときは平気で触れられるのに……今は、これ以上近づかれたら自分が熱で壊れてしまいそうで怖い。
「ミーチェ」
大きな手が細い手首を掴み、低い声が耳元で囁いた。
「……っ」
息を飲んで、ミーチェの動きが止まった。
「逃げるな」
名を呼ばれて、腰が砕けそうになった。逞しい腕で支えてもらっていなかったら、確実に膝が折れて地面にへたりこんでいただろう。
抵抗をやめたミーチェの耳に、ガルグがもう一度囁くように声を流し込む。
「もう離す気はない。だから逃げるな」
「……ず、るい」
吐息混じりに、ようやくそれだけが言えた。
「ずるい? どうして」
「……だ、だって、一度もわたくしとの将来を約束してくださらないのに、そんなことばかり」
違う。
ミーチェは自分が伝えたいことと今言ってることが微妙に違うことに気づいた。
「一緒に居たいんですの。わたくしだって。安心したい」
違う、そうじゃない。これじゃあ、ただ、結婚を迫る小娘だ。
ドキドキしすぎて頭の回転が悪くなってしまったみたいだった。
ミーチェを動かしているのは、不安。
この国の王女として、ミーチェは誰かと結婚せねばならなかった。
ガルグが捕まえてくれなかったら、自分はガルグ以外の男と縁を結ばねばならなくなるのだ。ガルグの気持ちに疑いはないが、種族の違う彼が、今後自分とどうしていきたいと考えているのか、全く分からなかった。
例え貴竜が、父たちにミーチェとの縁を認めさせても、魔獣の王としてこの森を治める彼が、人間の王女である自分とどうなるつもりなのか……
彼以外の相手など、考えられない。
だから、不安で不安で仕方ない。
彼が傍から居なくなったら、自分はどうなってしまうのだろう。
ぐるぐると考えが巡っているミーチェを見下ろし、ガルグはふっと息を吐いた。
「今、笑いましたわね!? ひどいですわ、わたくし真剣ですのに、ひどい!」
無表情の中に笑気を感じ、ミーチェは怒った。半泣きでぽかぽかと胸を叩くが、ガルグはびくともしない。
そのうち両手首を掴まれ、動きを封じられてしまった。
「分かってる」
指が、ミーチェの涙をぬぐった。
「……だが私は、山狼だ」
「……存じてますわ」
「だから、結婚という契約の概念は持っていない」
「……分かっています」
ああ、彼は山狼であることに誇りを持っている。
「それでもお前を離す気はない。もちろん他の男にやるつもりも、ない」
「……っ」
嬉しかった。
そして悔しかった。彼の言葉一つで舞い上がってしまうなんて何て単純なのだろう。自分は彼以外を選ぶことなんでできないのだと痛いほど実感してしまう。
「ミーチェ。私を見ろ」
ほら、名を呼ばれただけで、死にそうなほど幸せになる。俯いたまま、ミーチェは涙目でかぶりを振った。
ガルクが大きな手で両頬を挟み、ミーチェの顔を優しく上向かせる。
「私は山狼。誰にも傅かず、誰にも屈しない――だが、お前には請おう」
強い強い琥珀の瞳が、真っ直ぐとミーチェを見据えていた。
「添い遂げよう。ミーチェ、私の伴侶となってくれ」
「……っ……!」
結婚という概念がないと言った彼の、これが求婚の言葉。
――嬉しかった。結婚という形でなく、魂同士が結ばれたような感覚に、ミーチェの青い瞳から、涙が溢れた。
「ミーチェ、返事は」
「ええ……ええ……!」
言葉にならず、何度も何度も頷くしかできなかった。
溢れる涙を拭われ、額に、眦に口づけを落とされた。
「わたくし、も、離さないですから。わたくしには、貴方しか、いないのですから」
「ああ」
想いだけで繋がる、脆くて強い強い関係。これをミーチェは一生宝物のように抱えて生きるのだろう。
「離さないで、いて、くださる?」
「離さない」
琥珀の瞳が熱くミーチェを覗き込み――唇を塞がれた。
優しく慰めるように、ガルグの唇がミーチェの唇を温める。何度も、何度も。
口づけの合間合間。交わされる言葉でミーチェの心の隙間が埋まっていく。
もう、不安などなかった。
「言っておくが、二百年以上生きて、こんな風に思ったのはお前が初めてなのだぞ」
「本当、に?」
「魔獣なれど、私は王と言われているのだ。嘘は言わない。――ミーチェ」
低く、静かな彼の声で名前を呼ばれるだけで心が震える。
「ミーチェ。私の唯一。私の名を、呼んでくれ」
「ガルグ様――わたくしの、たった一人のひと」
遠くで、竜の鳴く声が聞こえた。
それと共に森のあちこちから獣の歓喜の声が上がる。
この夜、魔獣の王、山狼の伴侶となったミーチェへの祝福の賛歌が、森中に満たされたのであった。
◇*◇*◇
「姫様ー! ひーめーさーまー」
女官長が捜し回っている声が聞こえた。
少女は、植木の陰に小さく縮こまり、声の主をやり過ごすため、ドレスの裾を引き寄せた。
青い髪、青い瞳――悪戯っぽく光る大きな瞳が植木の隙間からきょろきょろと辺りを見回す。
どうやら女官長は別の場所を捜しに行ったようだ――ぺろりと唇を舐めると、少女は回れ右をして、いつも気晴らしに行く小川へと方向を変える。
「――!」
しかし、振り向いた先に居たのは、灰白色の、大きな大きな狼だった。
「――っ、とおさま」
『おいたが過ぎるな』
少女の悲鳴が上がり、庭の別の場所に居た女性が声の方向を振り返った。
そこには、生垣を軽々と越えた狼が、口に何かを咥えて着地をしたところだった。
「あなた」
スカートを上げて駆け寄ってきたのは、少女と同じ青髪青目の、柔らかい美しさを持った妙齢の女性。
『見つけたぞ』
「かあさま~、とおさまがおこるの~」
狼から解放され、少女が転がる様にミーチェに駆け寄ってきた。
「当然ですわ。家庭教師をだまして抜けてくるなんて、王女のやることじゃあありません」
「とおさま~。かあさまがおこるぅ~」
さっと方向転換し、少女が泣きついた先には、いつの間にか灰白色の髪の背の高い男が立っている。
「当然だな。窓から逃げ出すついでにカーテンを破ってミーチェが大切にしていた額縁を割ったのだから」
「うえ~みかたがいない~」
「当然ですわ」
「当然だ」
自分の前後を挟み、異口同音に説教の視線を向けてくる両親に、小さな娘は「まずい」と顔をこわばらせた。
「女王陛下! ガルグ様!」
そこに駆け寄ってきたのは、先ほどまでこの辺りを捜していた女官長だった。
「ユマ、こちらです。居ましたわ」
「助かりました。年々逃げるのが上手くなるので、わたしたちではとても見つけられなくて――」
どこかで聞いたことがある話に、女王――ミーチェは若干バツの悪そうな顔をした。しかし母の威厳を込め、腰に手を当てて娘を見下ろす。
「さあ、ユマのところに戻るのです。教育は貴女を助けます。しっかり勉強してきなさい」
「……はあい」
とぼとぼと女官長に連行される、小さな姫を見送って、ガルグがぽそりと呟いた。
「――まったくもって、母娘だな。行動が幼い頃のお前にそっくりだ」
「あなた――やめてくださいまし。ちょっと反省しているのですから」
拗ねるように見上げるミーチェに、ガルグは柔らかく目を細めた。本当によく似ている。今のように口を尖らせる癖など、そのまま娘に引き継がれたようだ。
ミーチェが女王となり、ガルグが王配となって五年経った。
娘の成長は著しい。そして、相変わらず自分の伴侶は美しかった。
これが幸せというものか。
じんわりと湧く温かさとむず痒さは、二百年以上生きてきて一度も感じたことのない満たされた感覚だった。
ガルグの大きな手が、ミーチェの肩を引き寄せた。
「ミーチェ」
耳に声を吹き込めば、分かり易く肩が跳ね、顔が赤く染まった。伴侶となって何年たっても、ミーチェの反応は初々しく愛おしいものだった。
「ミーチェ。そろそそまた、テテンの実が生る頃だ」
一度目を丸くしたミーチェが、嬉しそうに微笑んだ。
「あら、もうそんな時期ですのね。では予定を空けなくては」
実が生る時期、夫婦二人きりで魔物の森にテテンのカーテンを見に行く――これが二人の楽しみだった。
ガルグにとっても、忙しいミーチェとゆっくりとした時間を取れる貴重な旅。今は二人きりだが、娘が大きくなったらきっと旅は三人になるだろう。いや、これからもっと人数も増えるかもしれない。
長く孤独に生きてきた山狼にとって、人生の嬉しい誤算。
全てはミーチェが変えてくれた。
「何を笑っているんですの?」
「……笑っていた? 私が?」
ガルグは自分が無表情だという自覚があった。城の人間にも「何を考えていらっしゃるのかさっぱり読めません」と言われる始末で、一部には怖がられ、遠巻きにされている。
「あら、あなたはとても表情が豊かですよ?」
伴侶は、よほど自分の表情を読むのに長けているようだ。
「……変わったやつだ」
「何かおっしゃいました?」
きょとんとする顔も愛おしい。
「いや、なんでもない。――いつも私を変えるのはお前だと思ってな」
一人で生きると決めていた自分の人生を変えたのも、ただ待つと決めていたミーチェへのアプローチ方法を変えたのも、家族が増えることに楽しみを感じられるようになったのも、皆ミーチェの影響だった。
「いつでも、お前が私を変える」
「――あら、それは光栄ですわ」
微笑む伴侶の幸せも、自分が護りたい。
「ミーチェ」
「はい」
「愛している」
ボッ、とミーチェの顔が沸騰した。
「なっ、なっ」
「お前は。ミーチェ。お前はどうだ?」
あわあわと青い瞳を彷徨わせる伴侶に、ガルグは詰め寄る。腕で閉じ込めた柔らかい拘束に、しばし抵抗をしたあと、観念したようにミーチェは背の高いガルグを赤い顔のまま見上げた。
「――いつだって、わたくしはあなただけです。愛していますわ、ガルグ様」
春の暖かな陽気の中で、二人の影が重なった。
キチューゼルは、今日も平和であった。
これにて本編終了です。応援、ありがとうございました!
後日、本編では書いていない、十七年前のエピソードを交えた番外編などアップする予定です。
二人が結ばれたあとのお話で、本編で見られなかった、二人のほのぼのな空気を入れられたらなぁなんて思っています。
でもたぶん、ミーチェがミーチェなんで、モフモフ愛は消えないと思います……(笑)
では、また後日、番外編にてお会いしましょう(*´ω`*)