13.「本当にそれでいいのですか?」
ぱふん、と、白いシーツの上に、ミーチェは倒れるようにして身体を埋めた。
「……結局、今日もちゃんと会えなかったですわ……」
女官たちの就寝の挨拶を受け、ようやく一人になった夜半。シーツに半分顔を埋め、しょんぼりとつぶやいた。
月明かりが窓から入り込み、ミーチェのベッドを優しく照らし包んでいた。
「見事な勝利でした」
ガルグの優勝が決まり、不在の国王に代わり、優勝者への褒美の言葉をかけるミーチェに、ガルグは勝利の喜びも表さず、じっと琥珀の瞳を向ける。
闘技場の上部、王族席から凛と声を落とすミーチェに、観客席からため息が漏れる――が、ミーチェはガルクに見つめられ、頬に熱が集まるのを隠すのに必死だった。
今年の優勝者は、王女の結婚相手となるかもしれない――観客もそれを知り、期待してこの場に居た。
「勝者に栄光を。そして希望を。大会の習わしにより、貴方の願いをひとつ叶えましょう。望みを言いなさい」
口上を響かせるミーチェも緊張をしていた。
彼が相手なら構わない。
お願いだから言ってほしい、「ミーチェを妻に」と。
前で組んだ指に自然と力が入った。
「――魔物の森に、『卵』を捕りに入る人間を無くしてもらいたい」
「――へっ?」
観客がどよめいてくれて助かった。思わず出た間抜けな声を飲み込むように、慌てて口を押さえる。
「魔鳥の大発生には理由がある」
静かだが力強く、ガルグは王族席に向かって堂々と言った。
「魔鳥最大の天敵である魔大蛇の、その卵が、人間によって乱獲され個体の数が減っているからだ。卵の乱獲さえ防ぐことができれば、今回のように魔鳥が大発生するのは防げる。言い変えれば、家畜や人への被害も減るだろう」
魔大蛇の卵は、地方の超高級食材であった。
だが、魔大蛇が魔鳥の天敵であるということを、ガルグの言葉により人々は初めて知った。
「それは、本当ですか?」
ガルクは魔獣の王。森の生態系を理解していてもおかしくはない。ミーチェも彼の言葉を疑ってはいないが、観客の気持ちを代弁することで彼らのざわめきを抑えた。
「間違いない。望むならば、そちらの調査に協力もしよう」
実は、魔獣だけではなく、魔物の森そのものについても生態はほとんど知られていない。魔獣が生息するという森の性格ゆえ、調査も研究も困難で、また謎が多いからだ。魔鳥の大発生も、外から判明する大まかな周期でしか把握できていない。
彼が魔鳥の大発生を防ぐために協力をしてくれるならば大変こころづよい。しかし。
「――願いは本当にそれでいいのですか?」
過去の優勝者の中には富を望む者もいた。女を望む者もいた。王に仕えることを望む者も、病気の家族の治療を望む者もいた。
しかし、過去の願いの中でもこれは異色。
「構わない。王女の国と、王女の生きる時代が平和であれば、それで」
自分の利益など不要と言う、欲のない、だが強い眼差し。
背後で「きゃあ」と、女官たちの悶える悲鳴が聞こえた。
ミーチェも叫びたい。
こんな最高の褒美があって良いものか。
ガルグは、自分のためにこの提案をしてくれた。
ミーチェは目を閉じ、ガルグの言葉をゆっくりと心に染み込ませた。
「――願い、聞き届けました。キチューゼルの平和のために、貴方の望みを叶えましょう。王女ミーチェの名にかけて」
朗々と宣言する声に、闘技場が揺れるほどの歓声が上がる。
魔鳥の被害は十七年前に王都が襲われたことで、国民の中にも深い傷がある。多数の死者も出た。
その魔鳥に攫われながら生還したミーチェは、国民の希望でもあったのだ。
いち優勝者の望みは民の希望であった。それを王女が自分の名で受けたのである。民衆がミーチェの名を連呼し、王女を讃えた。
「ご褒美をわたくしが貰ってどうするんですの。……もう」
歓声の中、小さく小さく呟いた言葉は、ガルグだけに届いていた。
と、ここまではよかった。
「……って感動的に終わりましたのに、その後あっさりと姿を消してしまうなんて!?」
シーツの中で脚をバタバタしてる姿を見ると昼間の凜とした姿が嘘のようだ。
「……結局のところ、わたくし、どうしたらいいんですの……?」
彼の気持ちは疑う余地がない。
けれどはっきりした態度も言葉もなく、ミーチェとしては困惑するばかり。
「それに……もっと触れ合いたい……」
ガルグに触れたのは過去を思い出し、抱きしめられたあの時だけ。
とても温かくて優しくて幸福な瞬間だったのに、不思議なもので身体が離れてしまえばあれは幻だったのかと思ってしまう。
会いたい。触れ合いたい。ちゃんと言葉で言ってほしい。
「……恋をするって、大変ですのね……」
枕を抱えて、ころん、と転がった。
天井まである大きな窓からは、澄んだ夜空と、煌々と輝く満月がミーチェを見下ろしている。
物憂げにぼんやりと外を眺めていると、その目の前で、満月を縦に割るように、すとんと影が落ちてきた。
「……!」
バルコニーに降り立ったのは、背の高い男の影。
ミーチェは跳ね起きた。
裸足で駆け寄り、窓を開け放つ。
「――迎えに来た」
満ちた月を背に、ガルグが言った。
「迎えに?」
会いに来てくれた――。
ほんの少し高揚した頬を隠しもせず、ミーチェはバルコニーに出た。差し出されたガルグの手に、嬉しさをかみ殺すようにゆっくりと自分の手を乗せる。
「ああ、少し夜の遠出をしよう」
「夜の遠出? どちらまで?」
「魔物の森。私たちが過ごした場所まで」
「え?」
魔物の森の入り口までは、王都から馬で約一日。
ミーチェの過去の記憶では、そこから山狼が住処とし、二人が出会った場所へは人の脚で約三日かかる。
「出会った場所……その、とても行きたいのですが、けれど魔物の森は遠くて……」
「分かっている。だからいい『脚』を連れて来た」
「脚?」
突如、強い風がミーチェを襲った。
軽い身体が宙に浮きそうになる程の強風に、思わず目を腕で覆う。ミーチェの細腰を、ガルグは引き寄せてさり気なく強風から庇った。
次に目を開けたとき――ミーチェの前には一匹の大きな竜が、羽ばたきながら宙に留まっていた。
月明かりに煌めく青い鱗と青い瞳。
それは、キチューゼルの旗にも描かれている国の守護の姿だった。
「貴竜様――」
「お久しぶりだねぇ、お姫様」
神々しいが、空中で器用に長首を傾げ、挨拶をする様子はなかなかに愛嬌がある。
「お久しぶりでございます、貴竜様。……とは言っても思い出したのは最近なのですが」
十七年前、一歳だったミーチェが魔術の誤作用で成長してしまったとき、山狼と共に居たのがこの青竜だった。既知の友人にするように気軽に話しかけてくる竜の態度に、過去のことがつい最近の出来事のように感じられ、嬉しくなる。
「魔鳥のことは、大変だったけどよくやったね」
「まあ、ご存じなのですか」
「アタシを誰だと思ってるんだい?」
国の全ての生を司る守護の竜、貴竜。
魔鳥の大群が街を襲ったとき、そのまま貴竜祭で人口の膨れ上がった王都まで至れば、国の民の多くが生を終えてしまうことになったかもしれない。
「英断だったと思うよ。王女としていい働きをした」
「……ありがとうございます。けれども元々人間のせいですので」
「それも含めてさ。灰のが言った『願い』、ちゃんと果たすんだよ」
「はい。心得ておりますわ」
貴竜は人間だけの味方ではない。生のバランスが崩れる魔鳥の大量発生に対し、対処をすることもその範囲にある。
青の髪と青の瞳を持つ、竜の代行者として、ミーチェも貴竜の本意に従うべく努めねばならない。
「なーんて堅苦しい話はここまでね。本音としては、お姫様が思い出せて良かったってとこさね。もー、灰のが、なかなか思い出さないってやきもきしてたから」
うんうん、と頷く貴竜に、ガルグは苦い顔をした。
「青の、余計なことを言うな」
伝説では「神たる竜」と「悪の山狼」として対決する二頭だが、実は長年の友人関係である。
ミーチェと長年一緒に過ごしている中で、ガルグが動揺している姿など見たことがなかった。やきもきする、など、冷静な彼の心に波風を立たせていたことを知って、ミーチェはなぜか嬉しくなった。
「それより時間がない。すぐ発つぞ」
「はいはい。さ、お姫様、乗って」
「えっ」
くるりと後ろを向いて背中を差し出す竜。しかしこんなに楽な感じで言われても、ミーチェは戸惑うしかない。
乗る……とは、やっぱり貴竜の背に乗るということだろうか。どうしたらよいかとガルグの顔を伺うと、ガルグが自分のマントをミーチェの肩に掛け、包み込むようにして軽々と横抱きにした。
「きゃ……っ」
勢いよく持ち上げられて、ミーチェの身体が一瞬浮いた。驚いてガルグの首に縋り付けば、間近で琥珀の瞳がミーチェを見つめる。
息が止まった。
びっくりしたりドキドキしたりで、もう心臓がもたない。
「大丈夫だ」
ガルグは小さく言い、そのままバルコニーから軽々と跳んで、貴竜の背中に乗る。
「ほっ、本当に貴竜様に乗っちゃうのですか」
「ああ、こんな奴だが、飛ぶのだけは大陸一早いからな」
ぶっきらぼうに言うガルグに、上昇を始めた貴竜が機嫌を損ねた。
「こんな奴って何よ。アンタいっつも一言余計よっ」
「無駄口を叩くな、さっさと飛べ」
そんな軽口の間に、城はどんどんと遠ざかっていく。この大陸最速というのは伊達ではないらしい。
信じられないことに、馬と人の脚で四日以上かかるところを、数時間飛んだだけでミーチェは魔物の森の上空までやって来てしまった。
「早いですわね……」
「ああ、さすがに空を飛べると早い。私の脚では往復で二日はかかってしまうからな」
「……もしかして、ときどきルゥが居なくなっていたのは森に帰っていたからですの?」
「そうだ」
「何をしに……?」
ガルグの琥珀の瞳が少し細まった。
「お前を川から救ったあの日の夜は、今夜のことを頼みに言っていた」
「わたくしを迎えにくるため、ですの?」
「ああ。だから合流が行軍の途中になってしまった」
なるほど、ミーチェが川に落ちた日の夜からルゥは居なくなった。
翌日の夜明け前には、ミーチェたちキチューゼル軍は、魔鳥討伐に出立している。確かにこのときルゥは行方不明のままだった。
次に会ったのは野営地での夜。
てっきり、ルゥは王都に居て追い掛けてきてくれたのかと思ったのが、そうではなく、出先(貴竜のいる場所)から戻ってきただけったのだ。
「さあ、着いたわよ」
ゆっくりと貴竜が地に降り立った。
おどろおどろしい魔物の森の奥深く。
そこは、穏やかな森の木々と、なだらかな草むら。そして朗々と水をたたえる泉のある長閑な場所。
十七年前、ミーチェが魔鳥に落とされ、山狼に出会った場所であった。
さくさく、と裸足で柔らかい草を踏みながらゆっくりと辺りを見回す。
「ここは、何も変わらないんですわね……」
十七年という年月を越え、ミーチェが大きく成長したことを考えると、ここは何ひとつ変わっていなかった。
憧れの山狼に出会い、三日間を過ごし、恋をした場所。
背後に、青く淡い光が広がった。
振り向いたときには光は既に収まり、そこにあったのは荘厳で巨大な青竜と、森の月夜の静寂、そして――ミーチェの良く知る、灰白色の狼。
「ルゥ」
横に並び、その背を差し出しされる。
『さあ、行こう』
静かに頭に響く声は、念話。そう、こうやって昔は話をした。
「ここではないんですの? どこに?」
ルゥの琥珀の瞳が、柔らかくミーチェを見つめた。
『約束の、あの場所に』