12.「わたくし気づいたんですの」
「荒れてるな、ディーダ」
自室のソファーで酒を飲む息子に、将軍は声を掛けた。
「……魔鳥襲撃の事後処理はもう終わったんですか、父上」
珍しく部屋を訪ねたというのに、息子は果てしなく素っ気ない。若くして隊長を務めるほど力と人徳を持ったディーダが、これほど仏頂面になるのは珍しいことだった。
「ミーチェ様のことは盟約の通りなのだ。仕方ないと諦めろ」
「――分かって、います。けれど」
産まれた時から見つめ続けていたミーチェ。
兄のように見守っていた気持ちが、親愛でなく恋慕だと気付いたのはいつだったろう。
「たった三日、だったのに」
ミーチェが魔鳥によって魔物の森へと連れ去られ、国王軍が動いたのはミーチェが一歳になったばかりの頃。少年だったディーダも小姓として、周囲の反対を押し切って同行した。
軍が、三日掛けて魔物の森の最深部へと辿り着けば、そこに居たのは、なぜか大人の姿になったミーチェと、魔獣の王、山狼。
聞くところによれば、ミーチェの身体が成長していたのは、どうやら御守り替わりに持たせていた魔道具の誤作用であったらしい。
誤作用が悪かったのかもしれない。
運悪く(少なくともディーダはそう思っている)成長し、山狼と話せるようになってしまったミーチェは、軍のたどり着くまでの間に、彼と心を通わせてしまった。
「女官長が言うには、王女は元々山狼の絵本が大変お気に入りだったらしいじゃないか。本物に会えたなら懐柔しようと思っても仕方なかろう」
扉に背を預け、のんびりとした将軍はそうして「私には酒はないのか」と聞いた。
「違います。懐柔されたのはミーチェ様の方です。それに父上の酒はありません」
「なんだよディーダのケチー」
「ソレ、他の隊長がみたら幻滅するので外でやらないでください」
「……私の息子は内でも外でも固いなあ……」
ディーダは酒を煽った。琥珀の液体が、あの狼を彷彿とさせて気分が悪い。
「……あの三日間に何があったのか」
ようやく会えたミーチェは、恐怖に震えることなく、むしろ山狼に懐いて離れようとしなかった。
これには国王ばかりでなく、ディーダも大きなショックを受けた。
ただ――山狼に恋をしたミーチェは、大変美しかった。
子供の時にはただただ愛らしかった顔は、女性らしく優しい清楚さに溢れ、瞳は澄んだ青の色は変わらなくとも、穏やかな慈愛に満ちていた。
だがそれが、山狼にと接する時だけ、頬が蒸気し、恥じらう乙女になるのだ。
もしかして、ディーダはあんな熱い視線を向けられている山狼が羨ましかったのかもしれない。
その山狼は、ミーチェに作用していた魔術が解かれ、子供の姿に戻る間際、ミーチェとの将来を約束した。
一方的ではない、しかも「自分のことを思い出せたら」という、一見、ミーチェの未来の意志を尊重するような約束。
しかしディーダには、それが緩やかな束縛にしか見えなかった。
忘れるな、忘れるなと、思い出で絡め取るような山狼の気配。
美しく成長していく彼女を不可視の何かで縛るかのように、絡みついて離れない。
「しかも、普通の狼の姿で現れるなんて思わなかったんだ……」
まさか、さっさと森を出て城に居着くなんて思いもしなかった。
城に戻って数日も経った頃には、子供のミーチェも山狼のことなど口にすることもなく、すっかり忘れた風だったのに。
『るー』
誰も名前を教えていないのに。
灰白色の狼に向かって、舌足らずに名を呼びはしゃぐミーチェに、少年だったディーダは二度目のショックを受けたのだった。
「俺の何がいけなかったんだろう……」
酒の入ったグラスを持ったま、手の甲を額に当てて俯く。
ずっと傍に居たのに、ミーチェがディーダを見ることは一度もなかった。
「……お前、闘技大会を辞退してきたらしいな」
「父上、まだ居たんですか」
「ひどい」
傷ついた顔をする厳ついおっさんに一瞥をくれることもなく、深いため息をついて、ディーダは天井を仰いだ。
「優勝しても、もう意味がない。そんな大会に未練はありません」
ディーダは、ミーチェが十八歳になる今年の闘技大会で優勝し、堂々と結婚を申し込むつもりだった。
これについては、以前から国王にも許可を得ていた。ミーチェだって自分を嫌いではなかった。問題はなかったはずなのだ。
「だがな、ディーダ、陛下はこう言っていたはずだぞ『盟約がなされなかった場合にのみ許可する』と」
「ええ、分かっていましたよ。だって二人の結婚を認めるようにと仰ったのは、我が国の守護である貴竜様だ。陛下がそれを進んで違えようとするはずはない」
十七年前、山狼と共に居たのは、ミーチェだけではない。あのキチューゼルを守護する貴竜も居たのである。
悪の魔獣であるはずの山狼を、あろうことか「友人」と言った貴竜は、ミーチェと山狼との結婚を認めるように王に告げた。
それもあり、国王は「闘技大会の優勝者が結婚相手」と臣下が勝手に進めていたことすら快く思っていなかった。
病床にさえなければ、きっとその動きはきれいに退けられていただろう。
すべては十七年前、魔物の森で約束されていたこと。
それがきれいに約束どおりの形で納まったのだ。
ただそれだけのこと。
だが、ディーダの中にくすぶるミーチェへの感情が、納得することを阻んでいた。
「一体俺に何がたりなかったんだ……」
「そりゃお前、間違いなく毛皮だろ」
狼王女だしな! と豪快に笑う父親のデリカシーゼロの言葉がディーダにぐっさりと突き刺さった。
「……まだ居たんですか、父上」
くるりと振り向いたのは、にこやかな息子の顔。
同時に、ぶちーん、と何かが切れる音を、将軍は聞いた。
『笑った息子に殺されるかと思った』
後に語った将軍の言葉の意味を正確に理解した者は多くなかったという。
◇*◇*◇
貴竜祭の目玉行事、闘技大会。
決勝の日は、ミーチェの瞳のように澄んだ青空だった。
「まさか、ルゥが山狼だったなんて……不思議なこともあるものですねえ」
ミーチェの背後に立ち、王族観覧席から闘技場を見下ろして女官長のユマが言った。
しみじみとした様子なのは、きっと自分が読み聞かせた本がきっかけでミーチェが山狼ファンになってしまったのを知っているからだろう。
ミーチェは、これからのことを考えて、女官長と女官二人、この三人にだけは事情を明かしていた。
「あらユマ様、私たちは別に不思議じゃないですよ。ねえ?」
「ええそうね。逆に納得、って感じです」
ミーチェ専属の女官二人が「ねー」と頷き合った。
「納得? どうしてですの?」
高い背もたれから顔を覗かせ、ミーチェが振り返る。
今日も人前なので、王女仕様の微笑みがしっかりと顔に貼りついていた。
「だって、普段から物凄い圧力を感じてたんですもの」
「そうそう。ただの狼じゃないわよねーっていつも話してました」
「そうだったんですの……」
ミーチェにとってはただ癒しのモフモフだったが、この女官二人であればそう感じるものらしい。伊達に武術を身につけてはいないとうことか。
「あっ、ガルグ様ですよ」
どん、と音がするほどの歓声。それとともに闘技場の端から、背の高い男が現れた。
「あー、人型になったお姿は本当に素敵よねー」
「本当にね! 坊主頭に勝ってから英雄扱いだし、女性のファンも多いし。ほら王女、ちゃんと応援……あら?」
女官が訝しんだのも仕方ない。ガルグの登場でミーチェが体を硬直させたからだ。
「おうじょー? どうなさったんですー?」
王女としての笑顔はそのままに。ぎしりと固まってるミーチェの顔の前で、女官は手を振って呼びかけた。
「……会ってないんですの」
「へ?」
「だから、魔鳥討伐のあの日から、彼には会ってないんですの!」
顔を赤くし涙目でミーチェは訴えた。
完全に恋する乙女の癇癪顔。
ユマが、すかさず観客席側に扇を広げてその顔を隠した。王女の気品を人前で崩す訳にはいかないのだ。さすが女官長。
「やっと昔を思い出して、二人はラブラブに暮らしました、なんてお花畑な想像をしていましたのにこの現実……!」
「あらら……」
「そういえば確かに最近ルゥを見ないなって……そういうことでしたか」
「わーん、モフモフしながら眠りたいんですのにー!」
とうとう顔を覆い、身体を折って泣き始めたが、女官長はそれを王女用のショールを広げて隠した。
そこまできたら不審じゃないかと女官は心の中で突っ込む。
「……まあ、それで良かったんじゃないんですか」
「そーそー」
「どうしてですの!?」
キッと睨みつける王女に、女官たちは手をひらひらと振った。
「だって、相思相愛の二人が結婚前に一緒に寝たりしたら、ねえ?」
「ガルグ様、十七年間も我慢してたんだし……」
ミーチェの顔が一瞬で赤くなった。
逐一反応が顔に出る自分の主人に対し、女官二人は生ぬるい顔でミーチェを見下ろす。
「王女の反応、変ですよ。ルゥにくっつくのは平気そうなのに」
「ガルグ様と、って話をしただけでそんなに照れて。これからどうするんです?」
「しししし仕方ないんです! だって、自分でもよく分からないんですもの。狼でも人型でも大好きですのに、顔が勝手に……ってそうじゃないんですの!」
そこまで言ってミーチェは我に返った。
いけない、自分の恥ずかしい話をするためにこの話題を出したんじゃない。
「わたくし気づいたんですの。十七年前も、結婚の約束などしていただいてないのです」
「……へっ?」
女官たち間抜けな顔をするのは仕方ないだろう。
だって、ミーチェだってこれに気づいたときは戸惑った。
「一緒にいる、とは約束してくれましたわ。でも、あれは求婚とは違ったと思いますの」
「再会」以来、ガルグとは話をしていない。それがミーチェにはとてつもなく不安なのであった。
闘技場には、決勝の二人が顔を合わせ、開始の時を待っていた。
……やっぱり素敵ですの……
頬を染めて、ガルグを見つめた。
ふと、こちらを振り仰いだガルグと目が合う。
「王女、心配しすぎだと思うけどねー」
「あーあ、見つめ合っちゃって……せっかくまだナイショにしてるのにバレちゃうね」
「恋をする乙女は不安になるものなのですよ。貴女たちにも好いた方ができれば分かります」
当然というべきか。
その後の試合は、圧倒的な力差で、ガルグが優勝を手にしたのである。
17年前に何があったか……これが夏コミに出す短編となりますので、書き方を悩みましたがディーダに語らせるという形を取りました。
生真面目な彼の視点から見た過去はこんな感じですが、当人の視点から成る短編は単なるコメディ作品です(残念。笑)