11.「あ、あれは何だ――?」
「ミーチェ様!」
「王女!」
ミーチェを呼ぶ悲鳴が辺りに広がった。
しかしミーチェの身体は既に、矢の射程範囲から遥か上空にあった。
「ディーダ!」
異変に気づいた将軍がディーダへと叫ぶ。
「ここは私たちに任せて行け! 王女は頼む!」
「はい!」
ディーダは即座に愛馬へと飛び乗った。
「第三部隊、怪我の無い者は魔弓を持って俺に続け! 魔鳥に攫われたミーチェ様を救出に向かう!」
◇◇◇
軍がいた平地は、とっくに見えなくなっていた。
――うーん、これは参りましたわねー。
空の上、魔鳥に捕まりぶらんと腰から垂れ下がったミーチェは、腕を組んで唸っていた。
弓すら届かない高度。
手負いとはいえ、魔鳥の全力の羽ばたき。
そして武器すら持っていない自分。
はっきり言って完全に詰んでいる。
魔鳥は金属の匂いに敏感だと聞いて、武器を全て外してしまったのが失敗だった。
いや、せめて皆と合流した時、剣でも持てばよかったのだ。なのに女官が両側に居たから油断をしてしまった。
「作戦が上手く行ったからと気を抜いてしまうなんて、わたくしってば未熟者もいいところですわね。 ……ん?」
魔鳥の高度が徐々に落ちてきていた。
ディーダによってつけられた傷口からどんどん血が流れ、心無し羽ばたく音も弱々しくなってきた気がする。
もしかして体力が尽きたのだろうか。
「だったらラッキーですわ。地面まで降りてくれれば逃げ出す機会もあるでしょう。……ただ、降りてすぐに、あの嘴で美味しく頂かれなかった場合ですけど……」
少しの期待と先への恐怖で、ミーチェの顔に引きつった笑いが浮かぶ。
そうしている間にも、森の木のてっぺんにミーチェの脚が着きそうなところまで高度が下がってきた。
「もう、少し……」
枝にでも引っかからないかと、期待を込め脚を伸ばすが全く届きそうもない。悔しさにジタバタしていると、視界の隅、樹々の隙間に白いものが横切った。
「……あれは、ルゥ?」
魔鳥と並ぶように、灰白色の狼が森の中を疾走していた。
「ル―――ゥ!」
助けに来てくれた――。
喜びで、ミーチェは思い切り叫んだ。
しかし、狼に気づいた魔鳥はとっくに高度を上げ始めており、森はみるみると離れていく。
「こらっ! もっと低く飛ぶんですの!」
ここへきてミーチェは初めて抵抗した。魔鳥の脚を叩き、鍵爪を自力で開こうと両手で引っ張った。
しかし、逆に魔鳥の足に力が入り、コルセットをしている腹にギリギリと鍵爪が食い込んでくる。
「やっぱり、ダメ……」
苦しく息をして、森を見下ろした。
高い。
いくらルゥの身体能力が高くとも、ここまで離れてしまっては到底無理だ。
魔鳥が飛ぶ先には、地の果てへと誘うように、黒く濃い森が広がっている。
ミーチェの背が、不安でぶるりと震えた。
「ルゥ……! ル―――ゥ!」
見えなくなっていく狼に向かって力の限り叫ぶ。
諦めたくない。しかし、矢も、彼の牙も爪すらも届かず、落下すれば即死の高さ。
返事のように、愛しい狼の遠吠えが聞こえる。
もう、二度と会えないかもしれない――
ミーチェの瞳から涙が溢れ、新緑の森へと落ちていった。
この先は、一度入ったら生きて帰れぬと言われる魔物の森。そうでなくても、自分の未来は魔物の餌。戦う術を持たぬミーチェに絶望の未来しかなかった。
――いっそ、瞳の青が溶け出して、この森に自分の色を残していけたらいいのに――
――感傷に浸れたのは、そこまでだった。
森を割り、青い光が爆発的に立ち上った。
同時に尋常でない力が、風という圧力となりミーチェたちを襲う。
煽られた魔鳥はバランスを崩し、旋回するように吹き飛ばされた。
鍵爪に掴まれたままのミーチェも、目まぐるしい視界の変化に平衡感覚を失った。
青い光が世界を満たす。
その中で、ミーチェは見た。
青い光の飛沫を体に纏わせ、こちらに向かって来る――山のように巨大な体躯の、灰白色の狼を。
◇*◇*◇
「うわあぁ!」
突然前方から襲った爆風に、国王軍第三部隊の面々は馬の操縦能力を失った。
「止まれ! 木に馬を寄せて風をやりすごせ!」
冷静に指示を飛ばす隊長のディーダに、隊員たちは即座に従った。
落馬した者もすぐに起き上がり、馬の鐙を掴んで手近な木の陰に身を寄せる。
どうやら馬を失ったものはいないようだ。ディーダは胸を撫で下ろす。
一刻も早くミーチェを救いたかった。
あちらは手負いの魔物。しかも流血激しく体力も落ちている。上手く行けば魔物の森に入る前に追いつけるかもしれない。
しかしこちらの武器は魔弓と剣だけ。矢の射程距離外の高度に魔鳥がいる場合、どうやってミーチェを奪還するか――
「あ、あれは何だ――?」
だが、驚愕の隊員の声に思考は中断する。彼らが指さす方向を見れば、そこには、森の木々の背を簡単に超えた、巨大な狼が、宙に向けて牙を剥いているところであった。
「ま、まさか、あれは山狼……?」
「魔物の森の奥に住む、伝説の、魔獣の王……?」
その昔、キチューゼルを守護する貴竜を倒したという、悪の魔獣、山狼が、目の前に。
王女を魔鳥に攫われ、必死に追跡していた精鋭部隊の兵たちが、目的を忘れて自失した。
「……くそ」
ただ一人、拳を握るディーダを除いて。
◇*◇*◇
巨大な狼が、空中に居る自分の横を霞めるように口を閉じた。
全てが、まるで夢の中のような感覚だった。
涎にまみれた凶暴な歯がぶつかり閉じる音、骨が砕ける振動、魔物の断末の絶叫、身体が空中へ放り出される浮遊感――全てが遠くで起こっているかのよう。
魔鳥の鍵爪から解放されたミーチェは、新緑の森へと落下していった。
ミーチェより何百倍も大きく重い狼は、魔鳥を一口で絶命させた後空中で回転し、先に森へと着地している。
落ちていく先であんぐりと口を開けられたら、ミーチェなど簡単に、丸飲み込まれてしまいそうな大きい口。
けれど恐怖など微塵も感じなかった。だって、琥珀の瞳はどこまでも優しく、ミーチェを待っている。
新緑の森を背景に、自分を見上げる巨大な狼。そこへ向かって両手を広げた。
不思議と、細い自分の腕が、山狼を守って囲うように見えた。
瞬間、ミーチェの中で何かが堰を切ったように溢れて出てきた。
とても温かく、幸せな思い出。
たった三日の、自分と彼との大切な時間。
『怪我などさせませんわ……!』
一転、唐突に響くのは、切羽詰まった自分の声。
『この、バカが……っ!』
ああ、狼に、あんな苦しそうな顔をさせたのも自分だった。
「……結局、いつも助けてもらっちゃってますわね」
青く眩しい光の中、二人は抱き合っていた。
「思い出したか」
辛い思い出ではない。ミーチェは、じんわりと温かくなる胸に微笑みを漏らす。
目の前には、灰白色の髪に、琥珀の瞳のあの男。
優しくミーチェを見下ろす瞳は、ルゥそのままだった。
「ええ、そのお姿は初めて拝見しましたけれど……本当、狼のときそのまま」
「――の割には分からなかったようだが」
「本当に失礼しましたわ」
くすくすと笑えば、男も目を細めた。
思い出せたことが、そして再び彼の名を呼べることが嬉しい。
「名を、呼んでくれ」
満たされる喜びを隠しもせず、頬を染め、ミーチェは昔教えられた彼の名を口にした。
「またお会いできて嬉しいですわ――ガルグ様」




