01.「ああ、もう離しませんわ! 今夜は絶対一緒に」
お読みいただきありがとうございます。ヒーロー登場は5話から。少しのんびりですがお楽しみいただければ幸いです。
「姫様ー、ひーめーさーまー!」
自分を呼んでる声が徐々に近づいてくる。
今ここから移動しては見つかってしまう。
ミーチェは声の主をやり過ごすため、緑の葉が茂る植木の陰で縮こまり、広がっていたドレスの裾を引き寄せた。
「姫様……本当にどこへ行ってしまわれたのかしら。もうすぐ茶会なのに……」
隠れている植木のすぐ向こうから、声と、ドレスの衣摺れの音が聞こえる。近づいてきたそれは、ミーチェを捜しながら、ここから離れて小さくなっていく。
「……見つからずに済んだみたいですわね。よしよし」
生垣の陰でほくそ笑んだのは、大きな瞳が印象的な、美しい娘だった。
丸い瞳に、長く濃い睫。ふくりと膨れた桃色の唇と、薄紅をひいたような頬。顔立ちは優しく柔らかで女性らしい。
特徴的なのは、その瞳と髪の色だった。
どちらも鮮やかな青。
特に瞳は、空よりも澄んだ綺麗な色を湛えており、表情によっては幼くなりそうな彼女の顔立ちを清楚に見せていた。
この娘、名をミーチェと言った。
青の国キチューゼルの王女で、国王のたった一人の娘。
つまりこの国の大切な後継者であるのだが……ただいま絶賛逃亡中であった。
自分を捜す初老の女性を上手く撒いたミーチェは、おっとりと、けれどちょっと悪戯っぽく笑う。
「さてさて、上手くいったことですし、このあとはいつもの小川に行くのもいいですわね。二時間も時間を潰せば充分でしょう」
機嫌良く呟いて、いつも気晴らしに行く秘密の場所の方向へと、しゃがんだまま身体の向きを変えた。
後ろには、新緑溢れる木立と生垣のある庭が広がっているはずだったのだが……ミーチェの視界いっぱいに広がっていたのは、灰白色の、モフモフとした毛皮だった。
「……!」
すぐ後ろに立っていたのは、灰白色の、大きな大きな狼だった。
狼は、青い目をいっぱいいっぱいに丸くしているミーチェを悠々と見下ろしていた。
琥珀の瞳に、黒の光彩。凝視しているようにも見える野生の視線は、体躯も相まって、初めて見た者なら恐怖でへたり込んでしまうものだったろう。
ミーチェと言えば、自分の背を突いた者の正体を知り、一瞬息を飲んだが、
「ルッ……ルゥーーー!」
そのまま感極まったように、狼の胸に飛んで抱きついた。
恐れる様子など全くない。むしろ懐くように、美しい少女が凶暴そうな狼の胸に顔を擦り付けて縋っている。
「今までどこに行ってましたのー! 黙って出て行って、何日も帰ってこなくて……わたくし、とても寂しかったですわー!」
狼と彼女の関係は、傍から見ていてもペットと飼い主……という雰囲気でもない。狼の尻尾は平静に垂れていたし、娘を見下ろす瞳も静か。むしろ「寂しかった」を連発するミーチェの方が、よほど飼い犬のようだった。
ぐる……と狼の喉が鳴る。
ミーチェはそれを呆れている声だと受け取った。
「大袈裟だとでも言うんですの? わたくしがルゥ無しで生活できないって分かっているくせに。貴方がこの時期に居なくなることは知っていますけど、もっとこう、出て行く時には前もってわたくしの心の準備ができるようにしてくださってもいいと思いますの!」
狼の首に縋り付いたまま、切々と訴える姿はまるで妻が奔放な夫に語り掛けるかのようだった。
聞いているのか聞いていないのか分からない様子の狼は、ミーチェからとっくに視線を外し、垣根の向こうを眺めていた。背の高い彼は、垣根よりも顔の位置が高かった。
「ルゥ、聞いていますの!? もうわたくしを置いて黙ってでていくなんてしないで……!?」
ミーチェの言葉が途中でうわずった。それまで何の反応も示さず淡々としていた狼が、目を細め、優しくミーチェに頬ずりをしたからである。
ミーチェは頬を喜色で桃色に染め、再度ルゥの首に強く抱き着いた。
「ルゥ、ただいまって言ってくれるんですの……! ああ、もう離しませんわ! 今夜は絶対一緒に寝……」
そのままルゥは、話の途中のミーチェをくっつけたまま生垣を抜けた。
「ぶっ……」
「姫様っ!」
顔全体で生垣の葉を受け止めてしまったミーチェから変な声が出る。
生垣を抜ければ、ミーチェを捜しに来ていた初老の女性の声が聞こえた。ボスっと音を立てて急に出てきたミーチェに驚いた様子だったが、すぐに駆け寄って来る。
「姫様! 見つけた! もう逃がしはしませんよっ」
狼とセットで現れたミーチェに戸惑うことなく、腰に手を当てて説教の姿勢。明らかに、王女の逃亡は常習犯の様子だった。
ミーチェは髪に葉っぱを絡めたまま、首を竦めてバツの悪そうな顔をした。
「だって、乳母や……」
「乳母やではありません。私が女官長になって何年になると思ってるのですか。ちゃんとユマとお呼びください」
「それならわたくしのことも姫様ではなく、きちんと王女と呼んで下さいな……」
この国で、姫様と呼ばれるのは子供の間だけ。次の誕生日を迎えれば十八歳で成人となるミーチェをこう呼ぶのは、今となっては彼女くらいである。
「そうお思いなら、仕事をしっかりとなさって下さいませ。予定を聞いて逃げ出すなんて、王女殿下のなさることではありませんよ」
「だって、あんな仕事だと聞いていなかったんですもの」
「だってじゃありません。全く、姫様がこうしてしょっちゅう行方をくらますせいで女官たちが苦労しているのですよ。もう、年を追うごとに隠れるのも上手くなって……」
「人間、何事も成長ですわね」
「褒めてません」
ぴしゃりと言われて、ミーチェはまた首を竦めた。
幼い頃から世話になっている彼女には、いつまでたっても頭が上がらなかった。
「さあ行きましょう。お茶会が始まります」
「嫌ですわ。せっかくルゥが帰って来てくれたんですもの。今日は二人きりで過ごします。予定はキャンセルしてくださいまし」
「そんなことできるわけがありません」
またぴしゃりと拒否された。
元乳母だけあってユマの態度は母親に近い。
「姫様のルゥ好きは昔からよく存じ上げていますが、いいかげん狼べったりなのは卒業してくださいませ。そんなことだから――狼王女などと言われて婚姻の申し込みもないのですよ」
「狼王女で結構です。嘘ではありませんもの。わたくしはルゥがいればよいのです」
相変わらずルゥの灰白色の毛皮にしがみついたまま、ミーチェは顔を背けた。
「ご冗談を。ほら、仕事に戻りましょう。もう、いつまでルゥにくっついているのですか」
しかし女官長は容赦なくミーチェを剥がしにかかる。
「ああもう、せっかくの御召し物も汚れてしまって」
素早くミーチェのドレスの汚れを払う。そうしてミーチェの頭を見て眉を落とした。
「髪も乱れてしまいましたね。せっかく姫様の青に似合う飾りも付けましたのに……」
緩くウェーブがかった青い髪を撫で、ユマは残念そうに言った。
青は、この大陸で「青の国」と呼ばれるキチューゼルの王族の直系のみに現れる色。この国で今、その色を纏っているのは、現国王と、その一人娘のミーチェだけである。
ミーチェは一人娘故に愛されていた。ミーチェ自身もその愛情に慢心することなく、逆に恩を返そうと普段から一生懸命に公務を務めている……が、今回の仕事は少し意味が違っていた。
「欠席する行事のための髪形など、どうでもいいですわ」
ミーチェは桃色の唇を尖らせ、ぷいっと顔を背けた。
この王女が本心でこんな拗ねた様子を見せるのは珍しい。
普段も我儘を言うことはあるが、内容や相手を選んでいる。ユマは、ミーチェが決して誰かに迷惑をかけるようなことはしない王女だと長い付き合いで知っていた。
一体、何がミーチェをこんなに拗ねさせているのか……
と、そんな二人の横を、ようやく解放された狼が、自分は無関係とばかりにすたすたと通り過ぎていった。
「あっ、ルゥ、まだ足りませんから行っちゃだめですわ!」
何が足りない、とはユマも聞かなかった。
またもやルゥに飛びついたミーチェは、首筋にしがみついて毛皮に顔を埋める。
「ああ、モフモフ! これが足りませんでしたの。冬毛の厚みがたまりませんわー。モフモフー」
狼が数日不在だったため、ミーチェのモフモフ不足は最高潮に達していた。うっとりと毛皮を堪能するミーチェに、ユマは諦めた様子でため息をつく。
「貴方も大変ね、ルゥ……」
ルゥは何も答えない。いつもの無表情でミーチェにされるがままだった。
ルゥは、十七年ほど前に城にふらりと現れ、ミーチェが気に入ってしまったためそのまま居付いた狼だ。
全身灰白色で琥珀の瞳を持つ、美しい狼。
美しいが、普通の狼よりは随分大きい。普通に四つ足で立った状態で、頭の位置がミーチェの胸元程だと言えば、大型っぷりが分かるだろう。
彼を初めて見た子供はギャン泣きし、大人は悲鳴を上げ這って逃げ出す。
美しいとはいえそこは肉食獣。人の本能が忌避するのかもしれない。
ユマも随分慣れてはきたが、この狼を恐ろしいと思わない訳ではなかった。ユマがルゥに対して何とか平静に接していられるのは、ルゥがミーチェに随分懐いて……いや、ミーチェがルゥに随分と懐いているからである。
「ほら、姫様、あまりルゥにばかり構っていないでください。お茶会が始まってしまいます」
「行きたくないんですのー。男性ばかりのお茶会になんて出たくないんですのー」
縋り付いた王女に、ルゥはちらりと視線を落としたが、めんどくさくなったのか、とうとう無視して歩き始めた。
無情にずるずると引きずられる王女。
正直、城の中ではよく見かける光景であった。でも今は少し事情が違う。
ユマは慌てた。
「だめよルゥ、姫様のドレスが汚れる――」
来客に会うために特別に仕立てたドレスだった。思わず手を伸ばしたユマだったが、その手は灰白色の毛皮に触れる間際に空を切る。ルゥが素早く身体をズラし、彼女の手を躱したのだ。
触るな――怒るわけでもなく、彼の目は女官長に向かって静かに言っていた。
この狼は、どれだけこの城で過ごしても、ミーチェ以外が自分に触れるのを許そうとしなかった。
ミーチェはルゥを溺愛し、そして、ルゥもそれを受け入れる。
王女と狼の関係は、はた目にも不思議なものであった。
ルゥの静かな視線を受け、女官長は諦めたようにため息をつく。
「ああもう、姫様、ルゥに止まるように言ってください。ついでにいつまでもしがみついてないで、さっさと青竜の間へ来てください。皆さまお待ちなのですから」
「いやですわ。あれはディーダが悪いのです。ただの謁見だと思っていたのにわたくしを騙すなんて」
ずるずると引きずられたまま、ミーチェはぷんすかと怒っていた。
ディーダとは、最近ミーチェの補佐についている、ユマの息子だった。
つまりミーチェとは乳兄妹。幼い頃から知っているせいか、彼はミーチェに対し、ユマ以上に容赦ない。
「あの子が騙すなどど……姫様を囲む、ただのお茶会ではないですか。闘技大会の予選通過者と懇親の場を持つのは毎年のことでしょう?」
狼とミーチェのあとを追いながら、ユマは首を傾げた。
今日は、年に一度行われる、国を挙げての闘技大会の出場者との懇親の会だった。
厳しい予選を勝ち抜いた者たちが集う場。
だからユマは、王女の魅力を最大限に引き出すためにドレスや髪飾りの選定をしていた。美しい王女からの激励の言葉は、出場者への何よりの奮起剤になる。出場者の気分が上がれば、会場も盛り上がるのだ。
しかし、ミーチェは引きずられながらも可愛い顔をぶんぶんと振ってユマの言葉を否定した。
「違いますわ、正式な懇親会は明日なのです。今日は若い独身男性ばかり集めた交流の場なのですわ!」
そうだったのか。参加者を知らないユマは驚いた。
王女は男性嫌いという訳ではないが、そういう選別をされていると知れば嫌がっただろう。
もしかして息子は、ミーチェが逃げ出すかもしれないと、わざとこの行事の正確な内容を知らせていなかったのかもしれない。
「ね、おかしいでしょう。つまり今日のアレは――体のいい見合いの場なんですわ!」
ミーチェに構わずにすたすたと歩いていたルゥが、この言葉を聞いてぴたりと止まった。
「ルゥ、行きたくないんですのー。だから一緒に逃げましょう?」
止まったことにも気づかず、自分の首筋でモフモフするミーチェ。
ルゥはじっと、王女に視線を向けていた。
ユマには何となく、ルゥが驚いて目を見開いているように見えたが……きっと気のせいだろう。この狼、野生のせいか、飼い犬のように感情を表すようなことをしなかった。
「あっ、そうですわ!」
嘆くついでにちゃっかり毛皮を堪能していたミーチェが、ぱっと顔を上げた。
「ルゥも一緒にお茶会に出ればいいんですわ!」
女官長は思わず顔を顰めた。
こんな、初めて見た者は必ず後ずさるような大きな狼を、お茶会の席に。
いくら今日集まった者たちが屈強な男たちだからと言って、大型肉食獣が優雅なお茶会に同席したら……まあ、それなりに場が乱れることは予想できる。
「それはいくらなんでも……ほら、ルゥは獣ですし」
「あら、ルゥは賢いですわよ。決して悪さは致しませんわ。無礼な男性がわたくしに近づきでもしない限り」
にこっと笑う顔は高貴な姫そのものだが、目が危ない、と女官長は思った。
「無礼な方は、腕の一本や二本無くなってしまうかもしれませんけど、ねぇ?」