紫幻夏
一一ありがとう、
優しい声で、あなたはそう呟く。そして俺から背を向けて歩いていった。追いかける程に、揺らめき、ろうそくの火のように消えていきそうになってしまう。
待ってくれ、話を聞いてくれ、行かないでくれ……それらの言葉と苛立ちと焦燥の感情は、言葉にならずに、あなたの背中とともに、ゆらり、消えた。
一一さよなら
姿なんてそこにないのに、耳元で声が聞こえた。「そうか、これはきっと夢なのだ」とこのように囁くと、いつも決まってあなたの声が耳元で消えていく。そうやってこの夢から目が覚める。
また長い眠りから覚めた。体がベッドに縫い付けられたかのように、身体を起こす力が出なかった。はぁ、とため息をつく音だけが響いた。眩暈がする。そんな部屋の隅で、また独り。涙はとうに枯れた。
上手くいかないのは、いつだってあなたのせいだった……そういう風に誰かを悪く言うことだけが、どうしようもない俺の、慰めだった。そんな俺を、あなたは非常に上手くかわした。そんなすれ違いが苦しくて、魔が差して、あなた以外の、知らないような女に溺れた。あの人の横顔、あなたに似ているんだ、あなたは知らないだろうけど。
あなたと最期に交わしたやり取りを思い出すその度に、自分の醜さを思い出しては苛立ちを覚えた。
嘘でも良かったから、心配してくれていて欲しかった。そうか、これがかまってちゃんってやつか。我ながら気持ち悪い。
出逢った頃のように二人の距離を探している感覚が懐かしくて、いつまでだってその思い出に触れていたい気さえした。
居なくなって、初めて分かった。ふと未練がましい気持ちを覚えた。そんなものは見たくなかったから、静かに目を閉じた。ため息をつくと、また天井に響く。
うら寂しい夜に、一人でまた夢を見る。こんなふうに日々を過ごしているという事実すべてが悪い夢だと言うなら、とっとと覚めてくれ。