05.宰相として務めること
大戦が終結すると、申不害は韓の宰相として内政に手を加える。当時の韓で抱える主要な問題は、人材の登用である。
確かに申不害は昭候に認められて任用されたが、国家の官僚たちを全てそのようにして任用するわけにもいかない。そこで大臣たちの請願によって任官させていたのだが、その推薦は大抵身内を取り上げるものであり、党派が生まれ、腐敗が進んでいた。
申不害はこれに対して能力の有る者を推薦し、功労の有る者に賞与を与えるように薦める。そのために採用者にはまず引見して方策を聞き、後日その結果を考察してその言葉を質して名実を明らかにした。また職分を明らかにし、与えられた職務を果たさぬことだけでなく、職分を超えて行うことも罰するようにした。
この施策は、有力者が徒党を組むのを遮るのが主目的だった。身内の採用はそのままの意味で、また職分を明らかにしなければ臣下は馴れ合って連帯するのである。
さて、以上のように任官・褒賞制度が定められたのだが、上手く適用されなかった。
あるとき申不害は自らの従兄を官吏にするように請願する。
昭候は、
「そなたに以前学んだものではない。そなたの請願によってそなたの教えを破るのか。そなたの請願は受けまい」
と、答えた。申不害は屋敷を引き払って罪を請うたという。
申不害は晋の法に追加する形で新たな法を設けたというが、申不害の制度は商鞅が作ったような厳格な法律ではない。それは臣下を縛る強権的な法としてではなく、君主が権勢を保ち臣下を統御するための術であり、法令の方は君主が自ら布告するのである。つまり従来の晋の法と申不害の術の競合は意図せず発生し、申不害自身にさえも混乱を招いた。
しかし昭候はこの困難な新制度を適切に運用する。臣下が下賜を求めても功績がなければ古着の袴を渡さず、馬車の引き綱を勝手に直した車令を責め、衣服係でないのに泥酔しているときに衣を掛けた者を衣服係と併せて罰した。また霊廟への生贄や、隣田に侵入する牛馬、過失があったとき次席の者を問い詰めることなどは、どれも明察の逸話として用いられる。
故に、
「昭厘侯は一世の名君なり。申不害は一世の賢士なり」と言う。
ただ晩年の高門建造の逸話は失政の象徴として扱われる。しかしそれは君主の強権を示すもので、あらゆる進言を無用にする勝手気侭な様子が窺える。
申不害はその内政の方策を書に書き記す。そうして完成した書は、「申子六編」と漢書芸文志に載せられる。しかし現存するのは群書治要に抜粋された一編と他の佚文だけである。
一方、外交は暫く安泰だった。古本竹書紀年には、楚と戦ったという記録があるが、年代がはっきりしていないことも追記されている。とりあえずこれは保留にしておく。
また申不害は懇意にしていた趙の宰相大成牛と互いの地位のために協力していたのだが、この頃、趙との友好関係は微妙になっていた。趙の成候が紀元前350年に没して粛候が即位したとき、趙の国内で政争が起きて、敗北した公子緤が韓に逃亡したためであろう。
紀元前344年、魏が中原の諸侯を集めて自らが王号を称すことを宣言した逢澤の会合に、韓は出席しなかった(趙の粛候と秦の公子は出席した)。以前、申不害が進言したことを昭候が実践したのである。
魏との友好を断つと共に、韓は秦・斉に接近する。
そして紀元前342年、魏が韓を攻めるに及んで、韓は斉に救援を求め、馬陵の戦いが起こった。
さて、申不害は馬陵のとき存命だったのかどうか、まだ分かっていない。史記にある通り申不害が十五年間韓の宰相の座に居たのならば、紀元前342年、紀元前341年、紀元前337年のいずれかに没した。最初のものは田敬仲完世家より、二番目のは竹書紀年より、最後のものは韓世家から推定される。電視劇の大秦帝国では魏に攻め込まれた際の包囲戦で戦死したことになっているが、これはないだろう。
馬陵の戦いは、まず魏と趙が韓の南梁に侵攻したことに始まる。南梁城は洛陽南の汝水流域に在る。韓の将軍孔夜は趙を撃退するも、魏の将軍穣疵に敗れて撤退した。
韓は斉に使者を送り、救援を約束させて抵抗を継続する。
斉の田忌は先例に倣って再び魏・韓が疲弊するのを待つことにした。その間、韓は魏と五回戦って五敗し、韓は再び斉に危急を告げる。
斉が田忌、田嬰、田朌に軍を率いさせて孫臏を軍師として出兵すると、魏は年少の太子申を将軍として立て龐涓と共に軍を率いさせて斉を攻めた。
斉が大梁を攻めると見せかけて撤退すると、魏軍はこれを追撃して宋を通り、斉の国境を越えた。途上の宋で太子申は撤退を考えたが、主戦派を抑えられずに斉の馬陵で魏軍は壊滅し、太子申と龐涓は戦死したか、あるいは捕虜になった。
さらに紀元前341年5月、斉の田忌は魏の東部辺境に再侵攻して平陽を包囲し、9月には秦の商鞅が西部辺境に侵攻した。さらに10月、趙は魏を裏切って魏の北部を攻める。このとき趙は使者を送って韓にも魏を攻めるように薦めたという。
紀元前340年、秦の商鞅は魏の公子卬を謀って勝利を得た。 戦国策魏策に拠れば、魏の恵王は再び総力を挙げて斉と戦いことを望んだが、魏の臣である恵施の諌めを受け、斉の相である田嬰を頼りにして斉の威王、趙の肅侯、韓の昭候と講和する。
こうして馬陵の戦いは終わる。
韓にとっては疲弊の末に危難が去ったという状況だった。韓が離れた後、趙が魏と結んだことは大きな失敗だっただろう。魏は趙を恃みにすることで再び驕り、王号を称してこれに従わない韓を征伐しようとしたのだ。
そしてこの後、秦と斉は二大強国となり、韓は秦と斉のどちらに付くかという大きな問題の中で揺れ動くことになる。
しかしこれは別の話。