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申不害列傳  作者: そらが
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04.魏に朝見すること

 紀元前353年、魏の将軍龐涓は邯鄲包囲を継続させつつも、自らは8万の精鋭を率い、衛へ向けて南進した。斉の動きに備えたものか、衛を攻める趙を撃退するためか、或いは衛と宋が趙への侵攻から手を引いたためだろう。

 斉の将軍田忌は趙を援けて衛を救うために、軍師孫臏や8万の軍勢を連れて衛国境に駐屯する。元々は孫臏の策で魏本国を狙う方針だったが、田忌は動かなかった。


 10月、邯鄲は七ヶ月の包囲の末に陥落する。

 これを機に龐涓が衛に侵攻すると、田忌は動かざるを得なかった。邯鄲を包囲していた大軍が合流する可能性があるためだろう。

 田忌は焦って孫臏に軍略を問う。

「どうすれば衛を救えるのか」


「将軍閣下は南下して魏の襄陵を攻めるのです。襄陵の城は小さく、管轄地は広い。人口は多く、兵力は大きい。これは東部の戦略要地だからで、攻め勝つのはとても困難です。わが軍はこれによって敵軍を惑わせます。わが軍の攻める襄陵は宋の南で、衛の北にあり、進軍の途上に魏の市丘があり、わが軍は容易に糧道を断たれるでしょう。我らがこうした危険に対し知らぬ風を装っておくことこそが作戦の要であります」

 孫臏は答え、そして偽計を勧めた。


 それから斉軍は襄陵を目指す。

 その途上、

「どのようにして襄陵を攻めれば良いのか」

と、田忌は再び孫臏に尋ねた。

「将軍閣下は我らの計略に何が足りないとお考えですか?」

と、孫臏は問い返す。

「襄陵の途上にある斉城と高唐の要塞を落とすべきだろう。そこは魏の駐屯地である。それで後方の憂いを断てる」

──糧道は断たれたくない、という考えだろう。兵糧がなければそもそも戦えない。孫臏の計略は戦いに勝つ方策ではなくて、陽動によって衛を救うに過ぎない。そんな不満が有ったのだろう。

「それならば将軍を二名お送り下さい。猛烈な反撃を受けて二人の将軍は戦死するでしょう」

孫臏はまた答え、今度は田忌の方策を拒絶する。しかし田忌は孫臏の進言を無視して斉城と高唐の両面から襄陵に向かわせ、自らは襄陵の包囲に向かう。


 そうして斉城と高唐に派遣された斉の分遣隊は、後方から魏軍の襲撃を受けて敗北し、大きな損害を受けた。

 田忌は襄陵の包囲を解き、また孫臏に方策を求める。

「わが軍は襄陵を攻めるのに失敗し、斉城と高唐で撤退して大きな損失を受けたが、今どうすべきだろうか」

「軽装の軍隊を派遣して西進させ、魏の国都大梁を突いて、龐涓を怒らせます。龐涓は必ず国都を救う為に引き返すでしょう。このときわが軍は少ない兵力で龐涓と戦い、我らの脆弱な様子を見せるのです」

 再び偽計である。先の献策が容れられなかったにも拘らず、孫臏はその能力を隠すことは無かった。

 さて、田忌がこれに従って大梁に分遣隊を派遣すると、龐涓はまさに孫臏の言ったように大梁へ向けて西に転進した。


 魏軍は昼夜をおかず、輜重を捨てて大梁へと急行していた。襄陵から大梁までは直線で80kmほど。通常なら3,4日かける行程だが、急行すると1日半程度で到着する。ただあくまで直線距離だからもう少し多めに見たほうが良いと思う。

 その進路上に在る桂陵には、斉の主力が待ち伏せていた。少なくとも丸一日歩き続けていた魏軍に対し、斉軍は、魏軍が桂陵を横切るときになって一気に攻めた。魏軍は撃破され、龐涓を捕虜になる。

 桂陵の戦いは斉軍の勝利で終わり、孫臏は名を上げた。

 以上は孫臏兵法にある程度倣ったが、正確かどうかは分からない。



 その頃、韓の昭候とその圭を執る申不害は、上党にある趙の中陽で魏の恵王に朝見する。斉に対抗するため、魏の恵王が韓の軍を借りることになったのはこのときだろう。斉は勝利に乗じて、魏の城邑攻略に乗り出していた。

 一応魏の軍勢は邯鄲にまだ残っていたのだが、これらは西方と南方に送らなければならなかった。未だ続く秦の侵攻から河東を守る必要があったため、そしてさらに南方から楚が趙の救援と称して攻め込んできたためである。

 楚では宰相の昭奚恤が魏から賄賂を受け取って、攻め込まないという約束をしていたのだが、昭氏と対立する景氏の武将景舎はこれを無視して自らが保有する方面軍を用いて侵攻を開始したのだ。


 魏の恵王は情に満ちていて頻繁に後悔する王であるから、この度も憂悶していたのだろう。全方位を敵に回し、魏軍は破れ、ただ韓だけが頼りなのだ。

 申不害はその様子に、魏の憂いを抱いた。

「魏は韓を恃みにして離そうとしないであろう」

 とはいえ昭候の意向は、魏が危難に陥ったとき援けようという考えのはずである。実際その機会は訪れ、魏を援ける為に諸国を敵に回すことになった。


申不害は、

「韓の兵を用いて斉に当たり、邯鄲の兵を引いて秦に当たりますように」

と、そんな風に薦めたように見える。趙を援ける、という申不害自身の意図はあっただろう。

 韓は魏の恵王の求めに応じてその軍勢を魏に預けた。


「韓が魏を援ければ、魏は驕り、亡国となるであろう」

 会合の後、申不害は思う。そして機を見て昭候に進言する。

「これより魏に朝見することを止め、そうして魏の兵は弱くなり、韓の権威は重くなりましょう」

 昭候はこれを容れ、そして帰国する。



 紀元前352年、斉による襄陵の包囲が再開される。宋と衛もこれに加わり、今度は本格的に魏の戦略拠点を攻め落とす姿勢を見せる。

 魏の恵王は自ら韓の軍勢を率いて襄陵解囲に進んだ。

 前述のとおり韓の兵士は強い。魏・秦・斉にも鍛え上げられた常備兵があって、ときどき特別な名称で呼ばれているのだが、韓の場合は、総兵力が少ない代わりにみな鍛えられていた。

 斉は包囲網を内外から攻められるのを恐れ、魏の南部を奪っていた楚の仲介を頼って魏と講和する。龐涓は解放され、魏に帰った。

 紀元前351年、魏は趙と会合し、邯鄲を趙へと返還した。これを受けて紀元前350年には河西に派遣された魏の軍勢が秦の撃退に成功し、秦は魏と講和して安邑を返還した。

 大戦は終わり、戦争の舞台は中原から暫く離れることになる。

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