03.献策により名を現すこと
不害は術を操る。
その才により申不害は昭候に見出され、官から宰相へと昇る。どうも趙の助力があったようだが、後にしよう。
昭候は明君である。個人の好悪に左右されたり、縁戚ばかりを雇用するやり方は、彼の代では行われなかった。
賢明な君主であるが、外交的には魏へ依存するか離脱するかという選択に迷い、決定できずにいた。
韓と魏の関係悪化は、魏の内乱に韓が介入した紀元前369年より始まる。このときの大きな戦争で韓と魏は痛手を負い、そしてそれまで存在した韓・魏の友好的な協力関係は、魏による威圧的な協力関係に変化した。
続く秦の河西進出を受けて、魏は武力で韓を恫喝して軍事行動に同行させるようになる。そして秦によって魏が敗北すると、韓は主権を取り戻そうと動き始めた。
これが紀元前362年、韓の昭候が即位したときの状況である。
そのすぐ後の紀元前361年、韓は魏に打ち破られる。韓は魏に臣従し、魏の要請を受けて、魏にとって不要な上党や河東の領土を押し付けられ、その代わりに大梁付近の領土を奪い取られるようになる。
このとき魏は大梁への遷都に伴い、大梁の開発を進めようとしていたのである。
戦争はしばらく起きなかった。諸国は会合に会合を重ね、時々威圧によって他国の領土を奪い、また内政に目を向けて変法や灌漑を推し進めた。これを平和と呼ぶなら平和なのだろうが、備えの強化も同盟政策の展開も他国を刺激する。
紀元前356年、魏は魯・宋・衛・韓を自国に来朝させる。何か特別なことがあったようではないが、多分正式に遷都が完了したとかそういうものだろう。小国の宗主権の所在を明らかにしたこの振る舞いは、衛を欲する趙や宋を傘下に置きたい斉の対抗心に火をつけた。
趙と斉はより積極的に同盟政策を進め、両国が結ぶと共に宋と燕を味方に引き入れる。
更に紀元前355年、魏と秦の会合が行われ、また魏は秦に対する備えとして軍勢を河西の要塞群に配置した。魏・秦との会合は両国を結ぶに至らず、魏が軍勢を配するに至ったのだろう。
紀元前354年、秦が魏と韓に侵攻したのをきっかけに、戦争が勃発した。秦の主力は魏の河西に向けられ、韓に対しては中原に在る秦の飛び地から分遣隊が送られる。
魏の常備兵である武卒(武士)は訓練された屈強な兵士で、徭役田祖を免除され、田宅を支給される。徴用兵と併せて魏には60万の兵力があるものの、長大な国境線を守る為に大半が浪費されていた。ただ備えとして置かれた河西の城邑群には、主力が配されていたようだが。
対する秦の兵士は、商鞅によって新設された軍功制度に基づいて、厳しい賞罰制度が施行されていた。まだ全土への郡県制度──による徴兵制度は行われていなかったが、咸陽付近では既に設置されていたから、主に関内の農民が徴発されていただろう。要するに魏の兵士は一部以外は弱く、秦の兵士は全般的に大して強くない。
秦が魏と戦っている最中、韓は秦の分遣隊を撃破している。
そのとき突如趙が衛に侵攻した。衛は魏に助けを求め、魏は応えざるを得なかった。応えなければ魏の盟主としての立場は失われ、韓は魏への協力を止めるだろう。
魏は衛国境に兵力を集めると、趙本国へ向けて魏の武将龐涓率いる大軍勢を配備する。さらに宋・衛に命令して、軍隊を供出させて遠征軍を整える。そして趙が衛の都城で攻城戦をしている間に、龐涓は趙の首都邯鄲を目指して一気に軍を進め、そのまま邯鄲を包囲した。
また宋と衛の軍勢は趙と口裏を合わせて、趙辺境の城への攻撃をやる気なさげに攻撃し始めた。
一方、河西の戦いは魏の敗北に終わり、7000人が斬られて安邑が占領された。
死者の数はこれでも少ない方で、どうやら趙の動きに合わせて防衛戦力を削ったか、或いは速やかに撤収したのだろう。
ところで史記において申不害が韓の宰相になるのは昭候八年だが、諸々の事情からこの年は紀元前356年か紀元前355年か紀元前351年のいずれかになる。しかし申不害の活動は、少なくとも紀元前354年から見受けられる。
即ち、魏の起こした邯鄲包囲戦に対して韓はどのように動くべきか、という大きな問題が昭候に降りかかったときである。このとき初めて申不害は昭候に会い、意見を求められる。
昭候は言う。
「どちらに与したら良いのか」
申不害は最初昭候に意見を求められたとき、国君が何を望んでいるのかわからず、上意に適う意見を具申できぬために答えるのを恐れた。
「これは安危の要、国家の一大事であります。臣はこれを深慮したいと存じ上げます」
と言って、申不害は退散する。
申不害は兵法を得意としない。だから勝ち目を考慮しつつ利益を得るという戦略的思考に至らない。
個人の利を考えれば、趙を助けるのが良いだろう。申不害は趙の宰相大成牛と懇意にしている。韓の宰相になれたのも、牛の助力があったためだ。ただこれは勿論国を売ることだし、将来的な魏の報復も避けられない。
良い策の考え付かぬ申不害は二人の論者に恃む。それぞれ趙卓、韓鼂と言う。名からして趙と韓の公族だろう。
「みな国の論者である。そもそも臣下を為す者であれば、忠言が容れられなくとも、ただこれ忠誠を尽くすに過ぎず」
二人の論者はそれぞれ王に対して意見を進める。申不害は王が何を好むのかを観察して把握し、そこで王に進言した。
「危急の事態になるまで、どちらにも与しませんように」
と、言ったのかは実際分からない。状況証拠である。
一方、邯鄲では家々が破壊されて民の多くが死に、荒廃していた。趙の君主成候は邯鄲北にある信都に逃れ、斉へ向けて急使を送った。
そうして邯鄲包囲戦が続く中で、とうとう斉が動き、大戦は山場を迎える。