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申不害列傳  作者: そらが
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02.法術を学ぶこと

 鄭の都は一年と待たず、韓の新たな首都に定められる。鄭国滅亡のときの災難はまるで無かったかのようだった。

 韓は国号ではなくて、鄭と呼ばれていた。君主がすげ代わり権勢家が駆逐されても、鄭の人々は変わらない。そもそも鄭国の君主も元は400年前に東遷してこの都市に割拠した氏族でしかないのだ。

 庶民が困窮し、また権力闘争の絶えなかったのだから、韓による新たな支配は歓迎されただろう。かつての名臣子産が鼎や竹簡に記し、駟子陽が厳正に適用した法令は棄てられ、晋国の法令が施行された。晋国の法令は何度か変遷し、最終的には鄭に倣って鼎に記されるのだが、内容ははっきりしない。

 

 春秋時代の変法の推移は卿大夫層の台頭時期と一致する。新興勢力は古い貴族を駆逐する為に新たな法律を導入した。卿大夫層は主に君主の縁戚であり、古い貴族は元々都市国家の有力者だった。やがて卿大夫は同じ卿大夫相手とも権力闘争を行い、変法は繰り返され、権力は一所に纏まり始める。

 そうして力をつけた卿大夫層は王権に迫る。鄭を滅亡に導いた内乱も同様であった。

 王候が地位を保つためには強い権威が必要だった。



 法家思想の始まりである。

 その履歴に触れると、紀元前470年頃に孔子の弟子の子夏が魏の西河に住んだことに始まる。子夏は弟子を集めて教育し始め、紀元前440年頃には魏の文帝に招聘されて師として崇められる。


 子夏の論説は、個人の徳には目を向けず、ただ君子の徳について述べる。また韓非子においては「巧みに権勢を働かせる者は、早いうちに悪の芽を摘み取る」

といって君子が権勢を保つ方法を定め、論語では「君子は小道を為さない」といって君主の本分を定める。

 そのために子夏の思想は、君子の権威を確保して臣下を統御する法家思想の前身となった。彼個人としては優れた人と交友することを好んで、そのために家族を無視し、後で後悔したという。

 子夏は程なく死んだが、その弟子たちの多くは魏に仕える。ただ弟子たちの思想は一見まとまりがなく、儒家に法家、時には兵家を選んでいたりもする。

 この顕著な多様性は、それぞれの地位や役目に応じたものだろう。しかし皆儒家思想を根底に据えていて、ただその実践である礼を批判していた。


 続いて子夏の弟子の李克が登場する。李克は紀元前400年頃、魏の宰相翟璜の推薦で魏の文候に仕えた。

 彼の製作した「法経」は犯罪を取り締まる法典であり、説宛政理編では信賞必罰を提言しつつも功績を子孫に引き継ぐことを批判していて、また漢書食貨志によれば田制の改革を実施したという。

 田制の変更によって卿大夫層を統御することが出来た。


 それから法制は整い、戦国策魏策によれば、あるとき戦勝した公叔痤に対して魏の恵王が特別賞与を与えようとすると、「賞罰を明らかにして人民を従わせたのは王の明法である」と言って、公叔痤は断ったという。

 このように魏には法術的な風潮があり、そして衛鞅(後の商鞅)が法学を学び、

秦で栄達する土台は魏に築かれていた。

 後にその思想は管仲に仮託される。



 申不害は商鞅の世代より少し上か同じ位になる。彼が卑賤の官に居た頃には既に魏で法術の下地が出来ていたから、法術を学び始めるとしたらその頃からだろう。


 学術を修めるとき誰かに師事するのが普通で、その賢明な師はどこかの国に仕官し、ときには宰相の地位に立っていた。或いは教育のため各都城に学堂(或いは学校・郷学)が建てられたともいうが、時代区分を見ると学堂が成立していたかどうかはかなり際どい。最初に現れるのは斉の稷下であり、斉の威王の頃(356-320)になる。その後、孟母三遷や孟子で触れられる学校があるから諸国に建てられたのだろう。

 学者でも大体遅くとも三十台までに官職を求めたり、或いは推挙される。最初から重用されるのは宰相の推挙と信任によるもので、大抵は大したことのない官に就く。

 そのほか貴賓な階級では子弟が師傅たち或いは専用の学校で教育を受けるが、普通は余り身につかない。狩猟や賭博に現を抜かすためだ。


 韓の領域は河北の要衝にある上党郡、洛陽・宜陽付近からなる三川、そして首都の鄭がある潁川一帯からなる。

 潁川はまだ学者の土地ではない。潁川がインテリ名士出身地になるのは前漢の頃に繰り返し行われた教化活動によるもので、これは漢書趙尹韓張両王伝に記されている。それまでの知識人、例えば韓出身の呂不韋は投機の町邯鄲に赴いて財を為し、韓の公子韓非は楚に赴いて荀卿に習った。

 漢代初期になると晁錯が現れるが、彼も軹県で張恢に学んだ。戦国時代の軹県は魏の領土である(紀元前357年以降)。そもそも秦漢時代には移住計画が多かったからあまり頼りにならないが。



 鄭が滅んだ後、申不害の動向は一旦見えなくなる。次に現れるのは、法術を学ぶを以って韓の昭侯に仕えることを欲したときである。韓の昭侯は紀元前362年に即位するので、少なくともそれまでの14年間が明らかでない。

 それまで韓に仕えたという記述はないから、空白期間は学術に専心したのだろうか。この頃、大体三十歳から四十歳。魏に赴いたと見るのが妥当だろう。鄭の法学は、子産の頃には確かに先んじていたのだが、この頃にはもう立ち遅れている。



 これより申不害は韓で仕官し、後に功績によって宰相に任じられた。

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