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申不害列傳  作者: そらが
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01.国が滅びること

 史記にいう、申不害は京人にしてもとは鄭国の賤臣になり。京は城邑の名で、鄭国の北西部にある。申という姓は申国から来るのだろう。申国自体はとうに滅んでいて、申姓を持つ公族は河南一帯に散らばっていた。申姓の申不害が鄭国に居たのも必然だろう。

生年ははっきりしないが、没年や思想の傾向、また韓の任官年齢は少なくとも二十歳以上ということから、ある程度推定出来る。

 賤臣ということだから、鄭国に仕える臣なのだが政治に参与する地位ではない。かといって決して能力が低いわけではない。彼が恐らく未だ若かったということも在るのだろうが、高い官位は全て鄭国の有力氏族とその(ともがら)に占有されていた。



 春秋時代後期には、鄭国の公族から分かれた有力な氏族──鄭国では七家あったのだが、互いに相争って五家が没落し、戦国時代には二家が残っている。

 その二家を駟氏と罕氏といい、最高位の官職である宰相を代々争奪していた。前者はその名が示す通り、かつて政治を専横し、不満を抱いた公子たちによって処刑された鄭国の宰相子駟の末裔である。


 駟子陽。

 彼もまた鄭国の宰相となり、飢えに苦しむ民を顧みず、法制を厳格化して刑罰を濫用していた。そして本来実権を持っていたはずの鄭国の君主も彼の専横には手が出せないでいた。申子に曰く「君の明察は覆われ、君の判断は塞がれて、その政事(まつりごと)を奪い、その法令を占有す。」(その民あり、そうしてその国を取ると続く。)

 鄭の法令は150年ほど前に鄭の名臣子産が作り上げたものであり、その活躍は左氏伝だけでなく様々な書物にある。本来明確でなく、また厳格でもなかったようであるが、それは賢明な子産が運用していたからであって、意図して厳しくすることも出来た。


 紀元前398年、呂氏春秋離俗覧適威編によれば、舎人(けらい)に弓を折った者が有り、処刑されるのを畏れ、狂犬を放逐して駟子陽を殺したという。

 こうして駟氏と罕氏、そして鄭国の君主を支持する人々によって騒乱が起きた。三勢力の鬩ぎ合いは三年間続いた。権力闘争の対外的事情は出土文献である清華簡繋年から窺えそうだが、触れないでおこう。

 駟氏の輩は、内乱の果てに鄭国の君主と罕氏を破り、新たに傀儡の君主を擁立した。


 将にそのような情勢下にある中で申不害は生まれる。そして申不害が鄭国に仕官するのは、それより二十年ほど経ってからだろう。



 鄭国の都──即ち鄭は現在の湖南省新鄭市にある。google先生やbaiduの地図から見ることの出来る二本の河川の合流地点がちょうど都城の位置に当たる。河川の一方は洧水で、もう一方は黄水である。baiduは中華版ストリートビューもあるし中国ネタ限定でなら割と使える。

 水経注を見ると、洧水は鄭城西北より入り、東南に流れて鄭の南門を経る。また黄水は北から鄭に至り、城の東北で東に逸れて都城の水路と合流するという。

 その様相は現代もほぼ同じであり、鄭は古い姿を残す都市として知られる。北側の乁の形をした隆起は城壁の名残で、かつては河川に面していない部分を守っていた。これは鄭韓故城でサーチかければ見られるのだが、どうにも良く見えない。15-20m位はあるだろうか。黄土で造られた城壁は堅く、石垣造りの万里の長城よりもずっと長い間そこに有った。


 鄭は交通の要所である。北に行けば黄河の渡し場があり、その先は邯鄲まで伸びる。西に行けば洛陽に至り、東には魏の大梁があって、南の道は楚の諸都城に繋がっている。

 商人たちの行き来は頻繁で、彼らに消費を恃む為に貨幣の鋳造所が作られている。

 都城の周囲には、子産が奨励して広げた耕地と桑畑があった。当初人々は仕事を増やされて悪口ばかり言っていたが、後には子産に親しんだという。



 防備に優れ、経済的にも恵まれた鄭国だったが、滅亡のときが訪れる。

 紀元前375年。鄭国と同盟していた魏が楚との戦いに専念しているときを狙って、韓が鄭へと侵攻した。

 攻城戦である。通例に則るならば、韓の兵士たちは蟻のように群がって土壁を登り、また枝や幹を集めて造る破城槌を大きな門目掛けて突き出し、防衛側の櫓では弩を構えた守備兵がそれに抵抗していた。


 韓の兵士は強い。そのことは史記の中で何度も語られる。この時代の力強さというのは、重い弓を引き絞ることが出来るとか、遠くの的を射ることが出来るとか、重い石を持ち上げられるとかである。騎射や戈を上手く扱うというのはまだこの時代には無い。


 対する鄭国の兵士はどうだったのか。呉太伯伝では鄭国について民衆が繊弱で持久に耐えられず、すぐ滅びるだろうと記されている。

 持久戦には穀物の備蓄が必要で、またこの頃には都城内部に田地を作ることもあった。

 韓の土地が痩せていて庶民は豆粥を食べていたのに対して、鄭の地は粟が獲れる。しかし鄭国でも民衆は悪政と騒乱のために飢えていた。



 かつて子産は、自国の脆弱さを憂う鄭国の君主に言った。

「私は外を阻み止めて既に遠ざけており、内の守りは既に堅く保っているのです」

これに「外交によって」という注釈が付く。

 融和しながら肩入れしない賢明な子産の政策は引き継がれなかった。

 そして韓と相対する際、魏との友好か、楚に助力を恃むかという選択があり、魏と楚が争うに至って外交と共に内政が破綻した。


 そして鄭国は滅びた。

 都城の南西には墳墓群が築かれ、代々鄭国の君主が葬られている。果たしてそこに鄭国の最後の君主が葬られているのかどうか分からない。ただ滅亡の後に少なくとも20年ほどは鄭君の末裔が生き残っていたようである。

 申不害が仕官を始めてそれほど時期は経っていなかっただろう。

 滅んだ国の官は改めて任用されるか、他所に仕官する。申不害の場合はどうだっただろうか。

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