白パンとおでん
暇な時は過去の嫌なことを思い出したりするけれど、あったかくて美味しいモノのことを考えたら、現実に戻ってこれる…こともある。
おでんはおいしいなあ。
休講日だからだらだらしていたら、アパートの中が変だ。
キー、ギシギシという物音や、かすかなクスクス笑いが聴こえてくる。おまけに暖房が効いているはずなのに、うっすら寒い。
起きてみると、やっぱりハイジが外出していた。ハイジがいない時は、「探偵ナイト●クープ」に出ても恥ずかしくないくらいの幽霊下宿になる。
貧乏学生が住むにはリッチすぎる2DKに我々が入居していられるのは、ここが事故物件であるおかげだ。ただでさえ激安物件なのに、同居人で除霊体質のハイジとシェアしているから経済的にもスピリチュアル的にも大助かりなのだが。
キッチンに行くと、薄暗い。カチカチと食器棚のコップが音を立てているのは軽いポルターガイストである。慣れている。まだ害のないレベルだ。
「おでんは今朝作ったものです。まだ浸みこんでません。追伸。パン食べていいよ」
テーブルを見ると、キキララのメモに紫のペンで書置きがしてある。ハイジだ。
なるほど、キッチンペーパーをかぶせたお皿が置いてあった。
中を開けるとふっくらした白パンとドーナツが豪勢に盛られている。
ハイジのバイト先「パン工房アルプス」のおさがりだろう。時々こうやって頂いて帰ってくる。これが旨い。
時計を見ると午後の三時だった。だらだらと、ほぼ一日寝ていたらしい。
ぎゅうっとお腹が鳴った。やかんを火にかけ、インスタントコーヒーを入れる準備をしていると、酷くヒンヤリした風が吹き込んできた。さむっ、と肩をすくませながら振り向くと、テーブル席に痩せて上品そうな和装のご婦人が座っているではないか。
60歳は余裕で超えていそうだから、件の自殺した前入居者ではない。
ちょっと古い時代のお方か。お金持ちそうな様子だし、変なことはしないだろうな。
と、思っていたら、ばあさん何か言いたげにテーブルを見つめている。
何だろうと思ったら、昨日のカップラーメンの食べこぼしがついていた。
「ああ、はいはいはい」
思わず口走ってしまった。慌ててテーブルを拭く。これで文句ないだろう。
ピー、とやかんが音を立てたのでポットに入れ替える。コーヒーを作ってテーブルに着き、幽霊と向かい合ったまま無言でパンをむさぼり食った。慣れたものだ。
と、ものすごい圧迫感を感じたので顔を上げると、ばあさん眉間にしわを寄せてるじゃないか。心なしか目の色が赤くチカチカ光ったような。
(なんてお下品な!落ち着いて食べなさい!)
とでも、言われているんだろう。これが、半端なく重い。ものすごい威圧感である。
「…すいません」
思わず小さくなった。白パンを一口大にちぎって食べるようにする。
どうだどうだ、これで。
わたしはこのばあさんを、ロッテンマイヤーさんと呼ぶことにした。
何だ幽霊の分際で、とっとと成仏しやがれぃ。
全くリラックスできない食事をしていると、また変な気配がした。見ると、ロッテンマイヤーさんの後ろに、若い男が立っている。
それは以前にも出現し、ペーターと名付けた幽霊だった。
ペーターは恨めしそうにロッテンマイヤーさんを見ている。まあ、以前はそこに奴が座っていたからな。
「女性というのは」
何かやるだろうなと思っていたら案の定、ペーターの奴は語り始めた。
「二種類ある。それは、ブルマをはく女性とはかない、否、はけない女性だ」
ブルマおたくの幽霊だから、出現するたびにブルマについて語らずにおれないのだろう。
「僕はね、前者しか認めないんだ。女性と呼べるのは、前者だけなんだ。女性と認められる相手ならば、僕は喜んでいろいろなものを差し出そう。しかしだな」
ロッテンマイヤーさんはブルマははかないだろうな。まあそうだろう。
ぐずぐずと愚痴が続くかと思われたが、ところがロッテンマイヤーさんは強かった。
きっと振り向くと、ペーターを睨みつけるじゃないか。
どんな顔で睨まれたのかここからじゃ分からないが、ペーターは一気に薄くなり、じきに空気にまぎれて見えなくなった。さすがはロッテンマイヤーさん。
で、またキッチンはパンを食うわたしとロッテンマイヤーさんだけの空間になり、陰気な食事が続いた。
(何だろうこの感じ)
ぐったり疲れながら、わたしはパンを噛んだ。
そうだ、高校の時、すごく嫌な女子グループがいたんだよ。スクールカースト底辺のわたしは、そのグループに言動を面白がられないよう、極端に気をつけていて、過呼吸気味になったことがあったんだ。
その時の気分に似てる。
ああ…。
重たいデジャヴのせいで、ずうんと辛くなる。
目の前のロッテンマイヤーさんは勘弁してくれない。ますます威圧的な空気を発しながら、上品に座っている。
ボール紙でも食ってるみたいな気分になってきた。
心なしか、お腹も張ってきたような。…あ。
「ぶりぶりぶりぶりぃ、ぶひぃー」
南極か、ここは。
台所が凍り付いたみたいだ。単にオナラしただけじゃないか。
ロッテンマイヤーさんを恐る恐る見ると…見たことを後悔した。
メデューサってたぶん、こんなんだ。石化しながら、わたしは早口で弁解した。
「あのあのあのあの、緊張したらいつも、なんというか、ちょちょちょちょちょ」
腸が。
無情にも生理現象は続いた。
「ぶぶぶーう、ぷっ…」
カーテンがまくれあがり、コーヒーカップが激しく揺れはじめ、中身がこぼれた。棚のコップが割れそうに音を立てている。
あああああ。
「ちょちょちょちょ、腸が、腸っ、腸っ、腸…」
ちょうちょ
ちょうちょ
なの葉にとまれ
ふと、能天気な歌声が聴こえてきて、突然寒気が収まった。
あれ、と見ると、さっきまでいたロッテンマイヤーさんが綺麗に消えていた。
オレンジ色の光の塊のようなハイジが、めいっぱい元気よく台所のドアを開け、つやつやのホッペで息を切らしている。
「寒かったよー。あー、あったまる」
言いながら、赤い毛糸の手袋を外し、コートのボタンをはずしながら部屋に行った。
まもなく部屋着に着替えたハイジがエプロンをしめながら出てきた。なんだかとても嬉しそうだ。
「聞いてよー。クララんちに行って、これ作ってきたんだ」
とん、とテーブルに珍妙なものを置く。
ガラス瓶に何か詰まったオブジェみたいなやつ。…と思ったら、食べ物だった。
「ジャーサラダだよ。あとはおでんをあっためて食べよう」
わたしは座ってコーヒーを飲んだ。すっかりぬるくなっていたが、緊張が解けたから味が分かる。ああ、うまい。
「なに、おなか空いてるの」
まだ夕方じゃないよ、と言うと、ハイジは舌を出した。
「実はお昼ちょっとしか食べてなくて」
「何食べたのさ」
「『エトランジェ』のサンドイッチセットだよー」
なるほど、そりゃあ腹が減るわけだ。
その喫茶店は大学前にある店の中ではお洒落で、女子が好きそうな場所だ。ただ、高いわりに量が少ない。
大皿を出してくると、ジャーの中身を勢いよく開ける。ざざざ、と、レタス、大根の千切り、ナッツ類、ハーブなどが流れ落ちてきて、あふれんばかりに盛り上がる。
「すごい食べ物だね」
と言うと、へへー、と笑った。得意そうだ。
「食べるとき楽しくなるから、ジャーサラダはいいね」
おでんの鍋を温めながら、ハイジはあっと声を上げた。
「いけない、ごはん炊いてないよ。今から仕込んだら、えーと…」
世にも切ない顔をするから笑ってしまった。
台所は温かく、おでんはことこと煮え始めている。コーヒーの香りがうっすらと漂っているし、パンの残りはまだたくさんあった。
日没までまだ時間のある、薄暗い冬の光が窓から差し込んでいた。
ごはんを仕立てるために立ち上がりながら、わたしは言った。
「パンでいいじゃない」
「パンとサラダかー」
ぱっと目を輝かせながら、ハイジはテーブルに着いた。
夕食は遅くなるかな。
コンビニにビールを買いに行こうと、自転車小屋に向かう。
思わずフリースの襟に顔をうずめるほど寒い。
部屋を見上げると、幽霊が出るはずのそこは、なんだかとても温かそうで、パーティでもやっているみたいに見えた。
大きく息を吐くと、白いかたまりが空に溶けた。
ふわっと、ついさっき頭をよぎったどす黒いデジャヴが背筋を逆なでしたが、部屋の窓を見上げると気持ちが落ち着いた。
もう、あの頃のクラスメイトはいない。そして、あの頃のわたしもいないんだ。
(大丈夫、生きていける)
自転車を漕ぎ出す。
今夜は、雪かもしれない。
作中の白パンは、かびていません。