2
「であるからして……」
教室の様々な数式やら何やらが表示されている電子ボードの上に掛けられた時計の短針がそろそろ四を指そうかという頃合い、雷翔は数学教師の発する催眠音波に抗いながら板書を書き写しつつ、昼休みに氷雨が自身の貴重な食事の時間を削ってまで散々語ってくれたアナザーワールドについて脳内で整理する。
アナザーワールドというのは、およそ今から三ヶ月前、2050年の三月に発売された世界初のVRMMO(大規模オンライン)ゲームのことで、「日常とは違う非日常をプレイヤーに提供する」というコンセプトに基づいてモンスターが跋扈する異世界での生活が体感出来るというゲームだ。
専用のヘッドギア型のハードにゲームカードを差し込み、月々千いくら程度の接続料を支払うことで異世界にログインしそこで自らの意識でアバターを操作することで実際に自分がそこにいるかのようなリアルな感覚で戦闘やら商売を出来る、というのは現在散々メディアでコマーシャルされている。
雷翔も何度かアナザーワールドのTVコマーシャルやインターネットの動画サイトで公開されているプロモーションビデオを見たことはあるが、余りにリアルでこれが本当にゲームなのかと疑ってしまったことすらある。
発売日が三月の上旬と、受験シーズン真っ只中という時期にも関わらず発売の2日前からショップの店頭に学生達や大人が行列を作り剛の者は簡易テントを張ってまで発売に備えるという光景がワイドショーなどで取り上げられた時などは当時勉強に精を出していた雷翔に日本の将来について考えさせたが、氷雨曰くアナザーワールドにはそこまでする価値があるらしい。
氷雨によればアナザーワールドには魔法・剣技等の空想の世界の産物等が存在し、反対に一昔前のファンタジーゲームには付き物だったという職業的な制限…所謂ジョブシステムなどというものは一切が排除されており、本当の意味でプレイヤー達がやりたいことをできるとのこと。
勿論戦闘では対モンスターだけではなく、プレイヤー同士の戦闘等も存在し、ゲーム内ではプレイヤー同士が自身の戦闘能力を競い合う闘技大会というものも存在する。
ちなみにこの闘技大会はアナザーワールドがリリースされてからおよそ三ヶ月の間、毎月15日に欠かさず開催され、準決勝からはTV中継すらもされている。
その中継は雷翔も興味を引かれ一度家のTVで視聴したことがあるが、そこで鎬を削るプレイヤー達が戦闘に用いた炎やら水が飛び交う魔法や、凄まじい気迫でプレイヤー達が繰り出す剣技などには日頃老木などと揶揄されている雷翔の心すらも僅かに引きつけた。
だが雷翔がそうなるのも宜なるかな、そういった派手なライトエフェクトやサウンドエフェクトを伴った魔法や剣技は、雷翔達が暮らす現実の世界では本来あり得ないことなのだ。
いくら老木だの枯れてるだの言われている雷翔とて一人の男子高校生。惹きつけられるものが全く無いかと言われれば嘘になる。
「それでは今日はここまで、これより課題ファイルを転送するので各自きちんと取り組み本日の24時までに学校の数学科サーバーに提出すること」
時計の短針が4を指すと同時に天井に設えられているスピーカーからチャイムが鳴り響きチャイムが授業の終わりを告げると、生徒達の机の上に置いてあるタブレット端末に一斉に着信が届く。
一日のルーティンワークが終了したことに安堵し、がたがたと机と椅子を鳴らしながら立ち上がり放課後の予定を立てるクラスメイトを横目に雷翔はタブレットを引き寄せ、着信欄を開くと届いていたメールに添付されているファイルを開き、少々操作すると送り主に返信をする。
三十年程前にゆとり教育が終了したことや各種デバイスの進歩から、およそ十年前に全国の公立高校の学習指導要項も最新技術を用いた効率重視のものに改訂され、現在ではタブレット端末やパワーポイントを使った指導が一般的になっている。
そういった学習の効率化から単位の取得制度も大幅に変化し、学生達の最大の敵たるテストの回数も大幅に減少した。
だがテストが無くなるということは成績評価におけるウェイトも変動し、課題などの提出物のウェイトが大きくなってくるということ。
そういった風潮の中、学校側も評価の機会をなるべく増やそうと努力をしており、そのために毎日細々とした課題を出しそれを評価の対象とするという形をとっている。
「雷翔~!帰ろうぜ~!!」
「もう、危ないから鞄を振り回さないでよ……」
課題を終え、タブレットの電源を落として雷翔も帰り支度を始めると、一足先に帰り支度を終えてきたらしい氷雨が鞄を振り回しながら駆け寄ってくる。
「おっと、悪い悪い。
ほら、帰ろうぜ」
「うん、ちょっと待ってて」
苦言を呈したことで氷雨がしっかりとスクールバックをホールドし直したのを確認し、雷翔はこれ見よがしに一つ溜め息を吐きながらタブレットをスクールバッグにしまうと板書をとっていたノートをロッカーに入れる。
「課題はやんねえの?」
「もう終わったからね」
「相変わらず早えな、まだ授業終わって五分くらいだぜ?」
「どうせ今日やった内容の復習でしょ?頭に残ってる間にやっちゃった方が効率いいし、これくらいは普通だよ」
「その普通が高校生にゃ難しいんだよ……」
雷翔の言葉を聞くと、氷雨は腕組みをしてしみじみと呟く。雷翔は夏休みの宿題などはさくさくと計画を立てて効率良く熟すタイプだが、氷雨はその逆、計画など何も立てずに八月の終わり頃に雷翔に泣きつくタイプだ。
毎年被害を被る雷翔としては内心勘弁してほしいと常々考えているが、中学生の辺りから半ば以上諦めている。
「よし、ごめんね、待たせちゃって」
「おう!早く帰るぞ!異世界が俺を待っている!!」
雷翔が帰り支度を終え、スクールバッグを肩に担ぐと待ち兼ねたと言わんばかりに氷雨は大声を上げて廊下に飛び出す。
「あ……!ちょっと氷雨……!」
それを呆然と見送ると雷翔は慌てて小走りで駆け出し、氷雨の背中を追う。
走る間にスクールバッグに手を突っ込み、中から消毒液や絆創膏、真新しいガーゼや包帯が入れられた小さな応急セットの箱を引っ張り出す。
「いてえええええ!?」
「だから走るなって毎日言ってるのに……」
遠くから響く悪友の悲鳴に呆れ声を漏らしながら、雷翔は走るペースを少しだけ上げる。
全く、どうして重度の運動音痴の癖に自分から怪我をしに行くのか。
毎度毎度応急処置をするこちらの身にもなってほしいとは考えるが、これもまた雷翔にとっては日常の風景。
そんなどこかこれで納得してしまっている自分の思考に苦笑いを浮かべながら、雷翔は悪友の元へと急いだ。
「いてててて………」
「氷雨何回言えば分かるのかな?毎日毎日生傷ばっかり増やして…そのうち治療費請求するよ?」
雷翔は隣で額に貼られた絆創膏をさすりながら歩く悪友に呆れ顔で一瞥くれてやってそう言う。
「俺だってしたくてしてるんじゃねえよ……」
その雷翔の視線に射抜かれた氷雨はバツが悪そうに肩を竦め口を尖らせてささやかな抗議を試みるが、階段で躓いて床と熱いキスを交わす羽目になった手前いつものように強く出ることも出来ない。
雷翔はまた一つ嘆息すると、左手に下げていた救急箱をスクールバッグに仕舞う。
「全く……体育が赤点で留年とかしないでよ?」
「しねえよ!大体体育で留年とかできるのかよ?」
「いや、知らないけど」
実際は全日制高校の単位取得ーー特に体育などの特別科目ーーはいくら成績が悪くても履修さえしていれば余程のことがない限り留年はほぼ無いが、氷雨の運動能力はその「余程のこと」があり得るのではないかと割と真剣に雷翔に考えさせてしまう程度には壊滅的なのだ。
「……ん?ねえ、あれって………」
「んあ?……お、姫様じゃねえか、相変わらずお美しいことで」
玄関で通学用のローファーに履き替え、校舎から出ると校門付近で一組の男女が何やら口論しているのが目に入り、思わず雷翔達は足を止める。
「……なんか揉めてない?」
「あ……みてえだな、しかも相手は生徒会長殿かよ。なんだ?痴話喧嘩か?」
和やかならざる雰囲気で口論を続ける男女のうちの男性の方は、知的な雰囲気を纏い氷雨に勝るとも劣らない整った容姿を持つ長身痩躯の青年で、その容姿や生徒会長の座に就ていることから雷翔達一般生徒ーー特に女子生徒ーーならば知らぬものは居ない、ある意味では学校の顔とも言える三年生、木原紅葉。
そして毅然とした態度で美貌を険しく引き締め木原と口論を繰り広げている氷雨に姫と呼ばれた女性は、これまた雷翔達の高校の生徒なら誰もが知っているであろう人物で、美しい白髪を腰程にまで伸ばした、無神教者の雷翔ですらまるで神が造型したのかとでも疑いたくなる程の美貌の一年生、輝宮美月。
基本的に周りにこれといった興味を示さない雷翔ですら知っているこの二人が学校の玄関という放課後には最も人の往来が激しくなる空間で口論する様は学校内外から大いに耳目を集めているが、当の二人はそれには気付かず輝宮が木原に次々に言葉を叩きつけている。
「痴話喧嘩って程、微笑ましい感じでもなさそうだけど……」
「まあ姫様は誰かと付き合うなんてキャラじゃねえしな。随分色恋沙汰にはお堅いみたいだぜ?告ってフられたなんて奴らは星の数って話だ。
なんでも同じ一年に気になってる殿方がいるんだとさ」
「ふぅん……ならダメもとで氷雨も挑戦してみたらどう?
成績とかその他諸々はダメダメだけど外面だけはいいんだし」
客観的に見ても氷雨は木原とはまた違う陽性の整った容姿を持っている。惜しむらくは運動能力や勉強能力が伴っていないことだが、天は二物を与えずといったところだろうか。
最も、どうやら女子生徒の中にはそのギャップが良いなどと言う雷翔からしたら相当の物好きな生徒もいるようだが。
「お?姫様にヤキモチか?確かに可愛い顔して毒を吐く癖が無けりゃあお前も男子共に人気が出るだろうけどな、ら・い・と・ちゃ・ん」
「よし、ちょっと動かないでね氷雨。人のコンプレックスを突つくような口には封をしないと」
斜陽に照らされた学校の敷地に、氷雨の悲鳴が響き渡った。