最果ての塔
氷雪越えた山奥に、天まで続く塔がある。
光届かぬ谷に囲まれ、何人たりとも寄せ付けぬ。
塔に眠るは太古の叡智か、あるいは滅びの災厄か。
†
小さく呟くように口ずさむ、キイの唄声で目が覚める。確か、南方の国に伝わる古い童謡だったはずだ。
テントの外は静かで、どうやら昨日から続いていた吹雪は収まったようだった。目を開ければ、キイの銀髪がランプの明かりに照らされて揺れていた。厚手の上着に火獣の毛皮まで被っているのは、夜の寒さが堪えたのだろう。
そろそろ朝だろうか。ゆっくり体を動かすと、背を向けてナイフの手入れをしていたキイの肩がぴくりと動いた。首だけ振り向いたキイの、緋色の瞳が僕を捉える。
「クラヴィス、起きた?」
「ああ、おはよう」
「寒くない?」
「僕は大丈夫。キイの方が心配だな」
暦の上ではもう春だけれど、山の上はまだかなり冷える。キイのことを考えれば、もう少し辺境の村に留まっているべきだったかもしれない。とはいえ、ここまで来てしまっては今更の話だ。
上体を起こして毛布代わりの外套を肩にかけ、狭いテントから這い出て伸びをする。高い山々が連なっているせいで、青空に太陽はまだ姿を見せておらず、辺りはまだ薄暗かった。
四方に刺してあった厄避けの杭に綻びができていないか確かめている間に、キイは朝食の準備に取り掛かったらしい。白豆スープの香りには逆らえず、僕は鍋の反対側に腰を下ろした。
「結界はこのままにしておくよ。いざという時に避難できる場所を残しておきたいから」
「テントもこのまま?」
「ここから先、野宿することは無いだろうしね」
小さく頷いたキイは、調理の手を止めて僕の背後に視線を向けた。僕もつられて、東の果てを振り返ってしまう。
山間に続く道は、少し先にある深くて広い谷で終わっている。谷は濃い霧で覆われていて、その中に孤島のように見えている場所が、僕とキイの目的地だった。
「近くで見ると、すごく大きい」
「そうだね。いよいよ、最果ての塔に挑戦だ」
正確には再挑戦であり、キイにとっては十五年振りの里帰りのようなものではあるのだけれど、それはさておいて。
澄んだ空気の中、キイの髪と同じ色をした銀色の塔が、蒼穹に向かってまっすぐに伸びていた。
†
最果ての塔は、子供でも知っている有名な場所だ。遥か昔、この世界にやってきて、祖先に文明をもたらした「古代の民」が最後に遺したとされる建物である。
塔の頂上付近は南北に翼を広げるような形になっていて、近隣に住む人々は「双翼の塔」とも呼んでいた。
噂では、最上階まで辿り着けば何でも願いが叶うのだとか、お宝が眠っているのだとか言われている。実際に何があるのか定かではないのだけれど、それでも何かはある筈だと誰もが考えていた。
塔は東の荒野の先、高い山脈の中にあって、これまで数多くの人々が頂上を目指して挑戦している。しかし、内部は迷路のように入り組んでいて、さらには落とし穴や動く壁、侵入者を攻撃してくる自動人形といった、様々な罠や障害が存在していた。これまでに塔を攻略できた者はなく、命を落とす者も少なくなかった。
「ここまで来るだけでも大変なのに、最後にこの谷だからね」
塔の周りの崖は深く切り立っていて、塔へと渡る橋なんて架かっていない。けれど、橋が無くても僕とキイには問題ない。
渡り魚の羽根と浮遊石で作った首飾りをひとつキイに手渡し、もうひとつを自分の首に結びつける。
「術を使えない人は、どうやって谷を越えるの?」
「危険だけれど、いったん谷底まで下りて崖を登るのが普通かな。あとは、飛獣に乗って飛び越えようとした人もいたらしい」
そちらの方の結末はよく覚えていない。成功していれば後追いする人がいるはずで、つまりは上手くいかなかったのだろう。
外套のポケットから小瓶を取り出して、屈んだキイの頭の上から星虫の鱗粉を降りかける。首飾りが淡く光り、ふわりと揺れ始めれば、空渡りのまじないは成功だ。
「お待たせ。じゃあ、行こうか」
差し出されたキイの右手を握って、空へと一歩を踏み出した。
†
東の果ての山々から顔を出した朝日が、塔を目指す僕とキイを正面から照らし始めた。眼下を流れる霧が渦を巻き、ときおり突風となって吹きつけてくる。
霧に巻き込まれないように気をつけながら、風を踏んでゆっくりと塔へと近付いていく。
銀色の塔の外壁には窓が一切なく、一階部分に三つある扉からしか中に入る事はできない。塔に挑む者は、自身が得意とする分野に応じて、いずれかの扉を選んで踏破を目指すことになる。
霧の大河を飛び越えて、僕は十五年前と同じように「叡智の扉」の前に降り立った。「武芸の扉」を進むには膂力も技量も足りず、「秘術の扉」を進めるほどの呪術の才能も無い。子供の頃から本を読んでばかりの、知識欲くらいしか取り柄がない僕に、選択の余地は無かった。
「ここは変わってないな」
ぽかんと口を開けたまま塔を見上げていたキイだったけれど、僕の言葉でようやく思考を再開したらしい。
「クラヴィスは、もう少しで最上階ってところまで行ったんだっけ」
「運のいいことにね」
塔の中には百の階層と二十の試練があるというのは、占術による託宣で何度も確かめられた事実だという。それによって、僕がどの辺りまで辿り着いたのかは把握できているのだ。
「最果ての塔に来たら、十五年前のことを話してくれるって約束」
「覚えてるよ。記憶力には自信があるんだから。まあ、進みながら話すよ」
僕とキイが近付いていくと、大きな扉はひとりでに開いていく。重い響きを聞きながら、僕は何から話そうかと考えを巡らせ始める。
†
十五年前、夏の暑さが厳しくなってくる頃に、僕は最果ての塔に挑戦した。その理由といえば何て事は無い、貴族のしきたり、成人するにあたっての箔付けという奴だった。
その頃すでに、「叡智の扉」は半分以上が踏破されている状態だった。僕の家は道中に仕掛けられた罠や試練に関する情報を独占していて、定期的に調査を進めていた。
僕は先人の知識を元に必要な道具を揃え、準備万端の状態で調査隊に同行した。そして、十番目の試練まで挑んだという「証」を手に入れ、家に帰る予定だったのだ。
金に飽かせて手に入れた様々な呪術の道具と、「武芸の扉」でも通用しそうな用心棒を引き連れて、僕は意気揚々と「叡智の扉」を進んで行った。
広間に仕掛けられた謎を解き、「秘術の扉」へと繋がる引っ掛けの階段を避けて本命の隠し通路を進み、巨大な門番の弱点を突いて動きを止める。
五階ごとに現れ行く手を塞ぐ巨大な扉は、試練を突破して鍵となる「証」を身体に刻まなければ開かない。しかしその試練も「叡智の扉」に関する情報を手にしていた僕にとっては、少しばかり手間のかかる課題に過ぎなかった。
「そんなわけで、僕はすっかり油断していた」
「罠にでもかかった?」
「いいや」
背後からの問いかけには、首を横に振って否定する。右手に刻まれた「証」のおかげで、十五年前と違って番兵たちに襲われることは無いけれど、どうしても周囲を警戒してしまう。右手に持ったランプを背後に向けてみたものの、そこに動くものの気配は無かった。
「調査隊にね、姉様の息が掛かっていたんだ」
家督を継ぐには少しばかり問題のある姉にとって、僕は目障りな存在だったのだろう。要するに、僕は暗殺されかかったのだ。
十番目の試練の「証」を手に入れた後、外に出る前に休憩しようと提案されて、僕は眠ってしまい、ひとりで五十一階に放り込まれた。
「試練の扉は一方通行。塔から出るための脱出路は、扉の手前にある広間にしか存在しない」
「だったら、次の広間まで行って外に出ればいいんじゃない?」
「最初はそうしようかと思ってたんだけれど、出口で待ち伏せされているかもしれなかったからね」
僕が起きるのを恐れたためか、身に着けていた呪術の道具までは奪われなかった。「叡智の扉」について記した書物は失ってしまったものの、書かれている内容は全部覚えていたし、こうなったら行けるところまで行ってやろう、と半ば自棄気味に考え直したのだ。
「この世界についての問題に百回連続で正解する、なんて試練もあったなあ。あれは何回挑戦したんだったか」
試練の扉の前に佇む青銅色の門番は、「証」を見せると無言で脇に退いてくれる。多分な幸運の助けがあって、僕は他の誰も辿り着けなかった場所まで、行き着くことができたのだ。
†
階段の途中で休憩を挟みつつ、十五年前の話を続けながら、ようやく九十五階へと辿り着いたのは、恐らく日も暮れようかという頃だった。
これまでに通ってきたどの階層とも違って、九十五階にはひとつの大広間しか存在しない。そして、この大広間にあるのは、いま登ってきた階段と、試練の扉と、小さな灰色の装置だけだ。
「キイはね、ここで眠っていたんだ」
広間の中央に据え置かれた、上半分が透明な卵のように見える装置には、今のキイはさすがに入れそうにない。
どんな仕掛けだかは分からないけれど、この装置は誰かがここに辿り着くまでずっと、キイを眠らせていたようだった。
「僕に会う前のこと、何か思い出せそうかな」
「全然」
装置の中を覗き込んでしげしげと眺めながら、キイは即答する。装置をあちこちから観察して、やがて満足したのかこちらに視線を向けた。
「ここから先には行けなかったんだ?」
「そうだね。どうも、塔の中だけでは無理そうな試練だったから」
キイに頷きを返して、装置の横に小さく記されている古代文字を指し示した。その読み方は何年も前に教えていて、キイは淀みなく文章を読み解いていく。
「世界を巡り、鍵を育て、叡智を授けよ。さすれば扉は開かれん」
キイの言葉を引き金にして、僕の右手に痛みが走った。十九本目の線が、手の甲に焼印のように刻まれる。
心配そうにこちらを見たキイに「証」を差し出して見せる。そこには、一対の翼を模した紋様が出来上がっていた。
「達成するのに、十五年かかったよ」
試練の扉が開いていく。この先は、僕も初めて足を踏み入れる場所だ。
†
十五年前のあの時。卵の中で眠る幼い少年が「鍵」なのだろう、と結論付けるのに、さほどの時間はかからなかった。
見たことのない褐色の肌に銀色の頭髪。それに加えて、袖や裾から見える手足に毛が生えていないことには驚いたものの、伝承にある「古代の民」の外見と一致していることに思い至って、やはりこの塔は彼らが遺したもので間違いないのだと理解した。
眠ったままの子供を抱えて最果ての塔を出た僕に対して、心配していた待ち伏せは無かった。僕が五十一階に放り込まれてから何日も経っていたし、僕が死んだものと判断したのか、あるいは用心棒たちの情けだったのかは分からない。
「キイが最初に目を覚ましたのは、辺境の村だったかな。僕が抱えて運んでいたけれど、寒さで死にそうになってた」
「クラヴィスは暖かいけどさ、あの雪山じゃ足りないって」
「うん、まあ、今ならそうだと知っているけれどね」
必死の看病と村人の協力もあって子供はなんとか持ち直し、目を覚ました。僕は子供に名前をつけ、自分の名も変えて、世界を巡る旅に出た。
当然のことだけれども、家に戻ろうという気は起らなかった。
キイの外見が目立たなように毛皮を被せて、まずは暖かい国に行こうと北へ向かった。言葉や歴史や、色々なことをキイに教えながら、いくつもの国を渡り歩いた。
砂漠の手前で僕が倒れて、暑さを凌ぐための方法を探すことになった。北の断崖から世界の端を見下ろした後は、西を目指すことにした。
海を渡って辿り着いた島では、キイが神様扱いされてしまって、慌てて逃げ出したこともあった。密林の中で出遭った男だけの部族の村では、僕が女だとばれないように振舞うのが大変だった。
そんなこんなで世界をぐるりと一周して、またこの辺境に戻ってきたら、十五年の歳月が経っていた。いつの間にか、キイの身長は僕より高くなっていた。
「それにしても、すごい数」
「宝の山だね」
九十六階から先に危険な気配はなく、そこはまるで天上の博物館のようだった。
巨大な竜魚の標本に、星々の巡りを示す模型、機械式の精巧な時計。キイの言った通り、どれもかなりの価値がありそうな品々だった。適当に見繕って大きな街で売り払えば、一生遊んで暮らせるだろう。
「けれど、罠とも限らない。まずは百階まで行かないと」
見知らぬ楽器に手を伸ばしたキイの袖を掴んで止める。僕もまた、大昔の歴史書の魅力をなんとか振り切って、奥へと進んでいく。
†
扉を開いて先に進むたびに目を奪われ、心を惹かれながらも、僕とキイは最後の階段を登り切って、ようやく最上階へと足を踏み入れた。
最初に見えたのは一面の星空だった。
塔の外、屋上に出てしまったのかと思ったものの、風や寒さを感じることはなかった。立ち止まった僕の横を抜けて、キイが一歩前に出る。昔は僕の後ろに隠れて尻尾を掴んできたものだけれど、気付けば随分と頼もしくなったものだ。
ナイフを片手に構え、油断なく周囲を見回しているキイの背中に声をかける。
「罠ではないみたいだけれど、慎重に行こう。ひとまず、あそこまで」
少し離れた場所に、平らな円盤が浮かんでいるのが見えていた。星空の下、薄暗い足元に気をつけつつ、ゆっくりと円盤に近付いていく。
腰辺りの高さに浮かんでいた円盤は、かなりの大きさだった。大人が両手を広げても、周りを囲むには何十人も必要だろう。
近くで観察してみると、その表面には海や山々の幻像が揺らめいていた。円盤の外周に沿って歩いていく間に、それが何なのか解ってくる。
「これは、世界の縮図、かな」
南の森林、西の瀑布、北の熱砂。円盤の端には、見覚えのある世界の果ての姿が写されていた。中心部を見れば、幼い日々を過ごした湧水の都が小さく輝いている。外周をぐるりと巡って、僕とキイの足は東の山脈へと差し掛かった。
白い山々の中に突き立った銀色の棒の先端には、翼のような意匠が施されていて、それが最果ての塔であると容易に判断できる。霧の上にそびえ立つ巨大な塔でさえ、この円盤の上では片手に収まる程度の大きさでしかなかった。
何となく寂しい気分に襲われて、僕の歩みは遅くなる。前を進むキイが、ふとこちらを振り返って片手を上げた。
「クラヴィス、あれ」
円盤のすぐ傍に、小さな台座があった。台座の表面に刻まれた古代文字を、僕とキイは読み上げていく。
「汝は資格を得た。鍵を回し、扉を開き、金毛の民を我等の世界へと導くか」
「あるいは扉をそのままに、箱庭の世界に留まるか。最後の試練は選択である」
僕とキイは顔を見合わせた。
我等の世界とは、「古代の民」が住んでいる世界なのだろうか。キイと同じ色の肌と髪を持つ彼らの世界は想像もつかなくて、一抹の不安が耳を揺らした。
台座には、箱庭の世界とも書かれている。ここのお宝を持ち帰れば将来は安泰だけれど、どうやら僕とキイが見て回ったこの世界に、これ以上の広がりは無いらしい。
「何だかね、僕にとっては選ぶ余地が無い感じなんだけれど。キイはどうかな」
「どっちでもいい」
「そこはちゃんと考えようよ」
僕は首を振る。この世界の人々の未来、彼らが進む道を、僕とキイが選ばなければならないのだから。
「クラヴィスと一緒なら、どっちでもいい。クラヴィスこそ、ちゃんと考えてる?」
「そう言われると弱いんだけれどね」
まっすぐに僕を見つめるキイから目をそらして、咳払いをひとつ。旅の中で知り合った人々にどんな困難が待っているかは分からない。けれども、僕の気持ちを変えるほどの問題ではなかった。
「決めた」
「うん」
キイは頷いて、円盤の方へと近づいていく。
普段通りの背中に安心しつつ、僕はその隣に並ぶ。
そして。
僕とキイは手を伸ばして、最果ての塔を、銀色の鍵を、ふたりで回した。