恋敵
父さんと母さんがアメリカへと旅立ってから一週間。カナタさんとカナタさんのお母さんであるユミさんとの生活は、拍子抜けするほど問題なく続いていた。
別にお風呂で鉢合わせするとか、着替えに遭遇するとか言うハプニングを期待したわけでは無いけど。
少し困った事があるとすれば、ユミさんが柔らかい外見や物腰の割に、躾に厳しかった事だろうか。
元々うちの躾が厳しいから、それほど気にはならなかったのだけど、風呂にあまり入らずシャワーで済ませる事を怒られるとは思わなかった。
別に体を洗わないわけじゃないのだから、良いじゃないかと反論すると「入らないとカナタと一緒に力ずくで入れるわよ」と笑顔で脅迫された。
冗談だと思って笑おうとしたけれど、カナタさんに真顔で「この人はやる」と言われたので、大人しく従う事にした。
カナタさんと一緒に入れるというのが、二人で一緒に入れるのか、二人を一緒に入れるのか気になったのはまた別の話。
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三鷹東高校に入学してから数日後。入学式も特に問題無く終わって、もろもろの説明も終わり通常授業が始まる。
その内容が難しいのか易しいのかは、他の高校の授業なんて受けた事が無いから分からないけれど、よほど油断していなければ付いていけなくなるなんて事は無さそうだった。
「カナター。進路希望調査もう出したか?」
放課後になり教室がにわかに騒がしくなって来た所で、マコトが昨日渡されたばかりのプリントをひらひらと振りながら話しかけてきた。
それに「出した」と答えると、マコトは「早!?」と大げさに驚いてみせる。まあ確かに、一年生の時点で進路を決めている人なんて少ないのだろうけど。
「じゃーさ、部活はどうすんだ? 別に強制じゃないみたいだけど」
「入らないつもり」
やはり進学校なためか、この高校には強豪と呼べるような部も無ければ、やる気のある活発な部も少ない。
それでもたまに個人戦で大活躍する生徒が現れたりするらしいけれど、そういった人は天に二物を与えられた少数派で、殆どの人は勉強に集中するらしい。
しかしマコトはそうでは無かったらしく「じゃあ見学付き合ってくれないか?」と言うと、ねだるように片腕を引っ張ってくる。
他に誘う相手はいないのかと言いそうになったけれど、もしかしたら居ないのかもしれない。
他のクラスは分からないけれど、私達のクラスである1年3組は、少なくとも見た目は大人しい生徒が多い。
そんな中で入学式に赤髪で現れたマコトがどのような扱いになるかといえば、当然不良か何かだと思われて距離をとられる。私は私で、目つきが悪いせいで目が合ったら萎縮されるし、見事にマコトと二人でクラスから浮いてしまっていた。
まあマコトは竹を割ったような性格だから、そのうちクラスに馴染むだろうけど。
「ユーキー。見学行こうぜー」
私が荷物をまとめて立ち上がると同時に、マコトが教室の後ろの方に座っていた神城くんに向かって、手を振りながら呼びかける。
それに気付いた神城くんは、話していた男子生徒と一言交わすと、学校指定の水色のバッグを肩にかけて立ち上がった。
どういう因縁か私やマコトと一緒のクラスになった神城くんは、私達二人と違って浮く事も無く、ちゃんとクラスに馴染んでいるらしい。
見た目も中身も人畜無害だから、当たり前なのだけれど。
神城くんを後に従えながら教室を出たところで、私は隣を歩くマコトにどこの部を見学するのか聞く。するとマコトは嬉しそうな顔で「ボクシング部」と弾むような声で答えた。
女の子なのにボクシングをやるマコトに驚けばいいのか、進学校なのに競技人口の少ないボクシング部があるのに驚けばいいのか、反応に困るチョイスだった。
足が止まりそうになる私を、マコトはグイグイと笑顔で引きずって行く。何でこんなに楽しそうなのだろう彼女は。
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カナタさんやマコトと一緒に訪れたボクシング部の部室は、体育館の隣にあるプレハブ小屋の中にあった。
中には意外な事に部員らしき人たちが十人近く居て、僕たちが来た事に気づくと「新入生だ!」「新入生が来たぞー!」と一斉にわらわらと集まり出す。
その異様な歓迎っぷりに引きそうになったけど、何でも部員が十人以下になったら同好会に格下げされるそうで、毎年三人以上入部させる事を目標にしているらしい。
まあそれ以上に、女っけの無い部に女子生徒が二人も来た事が、騒ぎに拍車をかけているみたいだけど。
「はいはい、おまえら散れ散れ」
そしてそんな部員達を追い払って僕たちの相手をしてくれたのは、短い髪を逆立たせたちょっと恐そうな人だった。
背は高く腕もがっしりとしていて、かなり真面目にボクシングに取り組んでいる事が分かる。
「俺がこの部の部長の原田だ。それで、見学か? 即入部か?」
「入部で」
見学か入部か聞いてくる原田先輩に、マコトが即座に入部と答える。
それに「見学じゃなかったの!?」と心の中でつっこんだのは、僕だけじゃないだろう。カナタさんも勢いよく視線をマコトに向けたから、多分心の中でつっこんでいるはずだ。
一方の原田先輩は、マコトが入部すると聞いて少し驚いたような様子を見せたけれど、すぐに真剣な顔になって「女子他に居ないけど、いいのか?」とマコトに聞く。
するとマコトは「スパーならこれが相手してくれるんで」と僕の頭をわしづかみにしてくる。
何だろうこの扱い。しかしそれに文句を言う前に、今度はカナタさんが驚いたように目を少し見開いた。
カナタさんの僕への評価は、やんちゃというか微笑ましいというか、とにかく頼りないもののようなので、僕がボクシングをするとは予想していなかったのだろう。
カナタさんとマコトと僕の中で、一番背が低いのは僕だから、仕方ないかもしれないけど。
そんな悲しい現実は置いといて、僕は入部希望の紙に名前を書く前に、ジムに通っているから毎日は顔を出せない趣旨を伝えておく。
すると原田先輩は何か納得した様子を見せると、苦笑しながら「俺もそうだから、気にすんな」と言った。
何でも部員の大半はストレス発散にサンドバッグを殴っているだけで、試合に出られるような部員は原田先輩を含めて数人しか居ないらしい。
顧問の先生もボクシングは素人なので、本格的にやりたいその数人は全員ジム通いなのだとか。
入部する事に意味があるのか疑問が湧いてくるけど、部に所属して無いと公式戦に出してもらえ無いから、所属しておいた方が良いのだろう。
「へー、女子の入部希望者ってうちじゃ初めてじゃないかな?」
僕とマコトが入部希望の紙を原田先輩に渡したところに、眼鏡をかけた優しそうな男子が現れた。
原田先輩はその乱入者に眼を向けると、「ああ、こいつは芥って言ってな。本気組でそれなりに強いから、スパーリングやりたいなら声かけてみろ」と紹介してくれた。
こちらに向って「よろしくね」と挨拶をしてくる芥先輩は、やわらかく微笑んでいてとても強そうには見えないけれど、人は見かけによらないという事だろうか。
大体僕だって、ボクシングの似合う外見では無い事は自覚しているのだし。
そんな事を僕が考えていると、カナタさんに気付いた芥先輩が「君は入部しないの?」と聞いた。
それにカナタさんは軽く首を振ると、「向いてないと思うので」と答えた。
確かにカナタさんはボクシングには向いてなさそうだ。そもそもボクシングに向いている女の子がどれほど居るのだろうか。
僕は僕の幼馴染以外に、嬉々として人を殴る事の出来る女の子は知らない。というか知りたくない。
「そう。でも友達は入部するみたいだし、良かったら見学に来てね」
カナタさんの答えを聞いてそう返す芥先輩を、何だか面白くないと思ってしまったのは嫉妬だろうか。
カナタさんの事に過剰に反応しすぎだと思い、僕は自重するよう心がけたけれど、まさか芥先輩との関係があれほどこじれるとは、この時は思いもしなかった。
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「っしゃあぁっ!」
神城くんとマコトがボクシング部に入部してから数日後。リングの上でボクシング部の紅一点が、雄叫びをあげながら拳を振るっている。
その瞳は獲物を見つけた猫科の動物みたいに輝いているのに、口元は笑みを浮かべていて、本能的にヤバイと感じさせる迫力がある。
その猛虎の相手をしている神城くんは、マコトとは対称的に静かに相手を見つめていて、その瞳は普段からは想像も出来ない鋭さを持っている。
それでもやはり女の子を本気で殴る事は出来ないのか、マコトが容赦無く殴りかかっているのに対し、神城くんの攻撃は当たっても打撃音は全然しないし、手数も少ない。
手数が少ないのは、マコトの攻撃が激しすぎて、手が出せないからかもしれないけれど。
「凄いね国生さん。あんな威力のパンチ、男子でもそんなに居ないよ」
いつの間にか隣に居た芥先輩がそう評した次の瞬間、マコトのアッパーを受け止めた神城くんの体が、重力を無視して空中へと持ち上がった。
確かに男子でもそうは居なさそう。というより、女の子が放って良いパンチなのだろうか今のは。
ちゃんと防御はしているようだけれど、あんなパンチをもらって神城くんの腕は折れないのかと心配になってくる。
そんな私の内心に気付いたのか、芥先輩が感心した様子で「神城くんも凄いよ。あの猛攻を一つもまともに受けずに流してるし」と評する。
芥先輩の言う通り、神城くんはちゃんとマコトの攻撃を全て避けるなり防御するなりしている。
だけどそれを凄いと思えないのは、私がボクシングをよく知らないのもあるけれど、マコトのパンチのインパクトが強すぎるせいだろう。
何せ他の部員達が、神城くんに「頑張れ」と言ってマコトの相手を全て押し付けるくらいだから、並みの男子なら一瞬でKOされる所が簡単に想像出来る。
言葉づかいといい、マコトは生まれてくる性別を間違えたのでは無いだろうか。
「……美藤さんは、神城くんの事をどう思ってるのかな?」
不意にそんな事を聞かれて、私は反射的に芥先輩を見上げていた。そこにはどこか思いつめたような瞳があった。
クラスの女子や一部男子ならすぐに視線を反らされるのだけれど、流石と言うべきかボクシング部の人たちは、私と視線があっても反らしたりはしない。
だからと言って、そんな複雑な感情の見て取れる瞳で、見つめられても困るのだけれど。
「今一番気になっている異性です」
告げたのは、嘘偽りの無い私の本心。
神城くんと出会ってまだ一ヶ月も経っていないけれど、その直向な彼の性格を好ましく思わないわけが無い。
だけど同時に、神城くんの事をあまり見ていたく無いと思う時もある。きっとそれは、神城くんの一所懸命な様子が私には眩しすぎるから。
悪いのは神城くんではなくて、自分という存在が好きになれない私。けれどそれでも、私は神城くんの事をもっと知りたいのだと思う。
そんな私の答えに、芥先輩は「そうなんだ」と微笑みながら返してきた。
だけどその顔に、一瞬だけ落胆の色が見えたのは気のせいでは無いと思う。
面倒な事にならないと良いのだけど。
そんな私の願いを裏切るように、その日の部活動が終わって、私がマコトが着替えるのに付き合っている間に、事件は起きた。
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「君は美藤さんと付き合ってるのかい?」
僕を体育館裏というベタな場所に呼び出した芥先輩は、周りに人が居ない事を確認するとそんな事を聞いて来た。
部活が終わって芥先輩に呼び出された時から、その質問は予想していた。
僕とマコトが異常なスパーリングをしている間、芥先輩はカナタさんに積極的に話しかけていた。
それが気になって、一度マコトの右アッパーを避けられずに受けてしまったのだけど、あれは本当にやばかった。
男子を片手で持ち上げるような生物を、僕は女の子だとは認めない。
「一応婚約者です」
そんな回想をしながら答えた僕の言葉に、芥先輩は大きく目を見開いて、信じられないとばかりに一歩後ずさった。
その姿を見て、少し罪悪感がわいてくる。
きっと芥先輩は婚約者と聞いて、僕とカナタさんの関係がかなり深いと思ったはずだ。だけど実際には婚約なんて形だけで、未だに僕たちの間には距離がある。
会ったばかりの頃に比べたら、それは誤差のような距離だけど、芥先輩を騙しているような気がしたし、何よりカナタさんに悪い気がした。
勝手に婚約者だという事を、ばらさない方が良かったのでは無いだろうか。
「……そうか。でも僕は好きなんだ」
何とか衝撃から立ち直った芥先輩が、宣言するように言い放つ。やっぱりそうかと思うと同時に、言いようの無い焦燥感に襲われる。
芥先輩は背が高いし、かっこいいし性格も優しい。はたして僕に、芥先輩に勝っている部分がどれくらいあるのか。
「君の事が!」
続けて放たれた言葉を聞いて、僕は思わず周囲を見渡した。
するといつの間にか体育館の壁の向こうから、カナタさんとマコトがこちらへと近付いてきていた。
このまま告白タイムに持っていかれるのかと、慌てて芥先輩へと視線を向けたけれど、彼の視線はカナタさんではなくて僕を見ていた。
ここに来て僕は一つの可能性を見出した。
だけどそれを認めてしまうと、大切な何かを失う気がして目を反らそうとする。
「好きなんだ!」
確定だった。
僕の方をしっかりと見て宣言する芥先輩を見て、僕は脳の処理が追いつかずその場に硬直した。
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「……誰が誰を好きだって?」
「芥先輩が、神城くんを」
現実に追いつけていないのか呆然と呟くマコトに、私は淡々と事実を告げた。
すると現実に追いついて現実が異常だと気付いたのか、マコトは「ハアアアアァッ!?」と妙な絶叫を上げ始める。
気持ちは分かる。
私も事前に予想していなければそれなりに驚いただろうし、この中で冷静では居られなかったかもしれない。
私と話をしている間、芥先輩は神城くんばかりを見ていて、私と目を合わせたのは質問をしたときだけだった。だからもしかしてとは思ったのだけれど、いざその通りだと予想はしていても受け入れがたい。
女子の一部には、こういった世界をむしろ好む人が居るらしいけれど、私には理解出来そうに無かった。
二人が動けず、私はどう動いたら良いのか分からない状況の中、焦れた様子の芥先輩が神城くんへと一歩近付く。
それに神城くんが怯えたように一歩後退ったと思ったら、次の瞬間には芥先輩の横を通り抜けていて、芥先輩の体が叩きつけられるように地面へと倒れこんでいた。
「ばッ!? ユーキ! 無防備な相手にジョルトはまずいだろ!?」
その光景を見てマコトが焦ったという事は、よく分からないけれど今のパンチは相当危険なものだったのかもしれない。
小柄な神城くんが、長身の芥先輩を殴り倒すようなパンチだから、危険じゃないわけが無いのだけれど。
「つぅ……僕は君に触れる事すら許されないのか!?」
芥先輩が倒れたまま心底悲しそうに叫び、それを聞いたマコトが反射的なのかファイティングポーズをとって身構え、その後に神城くんが怯えながら隠れた。
その姿は先ほどのような冷静なファイターの面影は無くて、虎の後に隠れてプルプル震えている子犬のようだった。
一因に過ぎないのだろうけれど、神城くんの人格形成の過程と結果が、その光景に凝縮されているような気がした。
「マコト。あと任せるね」
何だか長くなりそうだったので、事態の収拾をマコトに丸投げして踵を返す。
早足で離脱する私の背に「逃げんな当事者!?」という声が投げかけられた気がしたけれど、全力で聞こえないふりをする。
もっとも神城くんの婚約者である私は、芥先輩にライバルと認識されたらしく、マコトの「当事者」という言葉を嫌でも認識するはめになったのだけれど。
譲る事も出来なければ、勝ちに行く気にもならない、非常に扱いに困る恋敵に私は悩まされる事になった。




