恋愛中毒
恋愛結婚は100点から始まり、お見合い結婚は0点から始まるなんて話を聞いたことがある。
相手を好きだと確信して始まる恋愛結婚は、後になってから相手の嫌な部分を見つけて、徐々に減点されていってしまう。
お見合い結婚はまだ相手をよく知らない状態から始まって、相手の良い所や悪い所を見つけて、点が徐々に増えていく。
どちらが良いかは私には分からないけれど、少なくとも神城くんはお見合い結婚に向いた人なんだろうなと思った。
初めて会った私という婚約者の事を、必死に知ろうとしている姿が暖かかったから。
だけど同時に、その暖かさが私を苛立たせた。
だって彼のそばには、加点法も減点法も関係無い、当たり前のように一緒に生きていける女の子が居たから。
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「趣味は?」
「好きなものは?」
「得意な事は何?」
そんなお見合いの席で聞くような質問を何度もしそうになったけれど、そのたびにカナタさんの顔を見て言葉を飲み込んでしまう。
僕はカナタさんに近所の地理を教えるついでに、よく利用する近場のショッピングセンターを案内している。
だけど僕は柄にも無く緊張してしまって、「あそこは本屋」「向こうは自転車屋」と事務的な説明しかできないでいる。
カナタさんはカナタさんで、僕の言葉に黙って頷くだけだから、僕が一方的に話している状態。これで気まずくならない人が居るなら、今すぐ僕と心臓を入れ替えて欲しい。
男は本気で恋をすると慎重になるらしいけれど、今の僕は正にその通りなのかもしれない。
慎重になりすぎて、カナタさんに積極的に話しかけるのが恐い。
「ユーキー。デートか?」
だから絶妙なタイミングで現れた幼馴染を、まるで女神のように讃えたくなったのは仕方が無いと思う。
その気性はどちらかというと戦乙女だけれど。
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「へーこの子がね。私は国生マコト。ユーキの家に住むならお隣さんだな」
そう言って手を差し出してくる国生さんに、私は戸惑いながらも自己紹介をして右手を握り返した。
神城くんの幼馴染だという国生さんは、背は私と同じくらいで、何かスポーツをやっているのか半袖から覗く腕は引き締まっていた。
何より印象に残ったのは、肩の少し上で切り揃えられ、赤く染められた髪。
人によっては逆に魅力を損ないかねない派手な髪の色。それが国生さんに似合っているのは、彼女の容姿が整っている以上に、その太陽を思わせる笑顔が素敵だったからだと思う。
母が言っていた、自信に裏打ちされた輝きを放つ人と言うのは、国生さんのような人を言うのだろう。
その国生さんに何やら耳打ちされて、神城くんが「うるさい」と言いながら彼女を引き剥がそうとしている。
肌が触れ合う二人の距離が、私には眩しく見えた。
型にはめられてギクシャクしてしまっている私と違って、自然に一緒に居られる国生さんが羨ましいと私は思ってしまった。
それは自分を無視されたような気がして燻った、子供の駄々のような怒り。
そしてその小さな嫉妬に似た感情は、私が神城くんに好意を抱き始めている証なのかもしれない。
「ごめん。ちょっと待ってて」
国生さんとじゃれあっていた神城くんが、突然そう言うと近くの店に入って行ってしまう。
残された私たちはしばらく何も言わずに顔を見合わせていたけれど、国章さんが「とりあえず座るか」と言うのに頷いて近くにあったベンチへと腰掛けた。
そして神城くんが帰ってくるのを待っていると、隣に座っている国生さんが私の顔をジロジロと見ているのに気付く。
どうしたのかと思って視線を向けると、国生さんは「うん。本当、ユーキの婚約者が美人で良かった」と笑顔で呟いた。
その言葉に絶句してしまった私の顔は、さぞかし見物だったのだろう。
国生さんはチェシャ猫のような笑みを浮かべると、楽しそうに私に色々な質問を始めた。
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カナタさんとマコトから離れて雑貨店へと入った僕は、体に溜まった熱を逃がすように大きく溜息をついた。
興味があるのは分かるけれど、本人を目の前にして「どこまでいった?」などと聞かないで欲しい。春になって突然染められたあの赤い髪は、マコトの傍迷惑な性格を象徴しているように思えてくる。
今年から通う事になる三鷹東高校は、偏差値の高さ以外に校則の緩さでも知られている。
要するに頭の良い馬鹿が一定の割合存在しているわけだけど、マコトは残念な事にその頭の良い馬鹿に分類される事になりそうだ。
しかも勉強をさぼらせると、ただの馬鹿になりかねないから注意が必要かもしれない。
もっともそんな酷い評価は僕のささやかな意趣返しで、本来のマコトは勉強嫌いだけど、頭の回転がよくて観察力もある聡明な少女なのだけど。
そんな事を考えながら、僕は外から見えた商品を手にとってレジへと持っていった。
この店に入ったのはマコトから逃げるためだけど、一目見て欲しいと思った物があったからでもある。
手に取ったそれの値段は、今月のお小遣いを大幅に削り取る高値だったけど、僕は躊躇わずに財布から紙幣を数枚取り出した。
これもある意味一目ぼれかなと心の中で苦笑しながら、店を出て二人の座っているベンチへと近付く。
談笑していた二人は、僕に気付くと同時に腰を上げてこちらへ歩いてきた。
やっぱり女の子同士なせいか、二人はもう打ち解けていて、カナタさんにも先ほどまでのような硬さが無い。
その事を面白くないなんて思ってしまったのは、マコトにカナタさんを取られたような気がしたからかもしれない。
不毛だと分かっていても、感情というものは理屈では治まってくれないらしい。
そんな子供みたいな我侭はおくびにも出さずに、僕はカナタさんの前まで行くと手に持ったそれをそっと手渡した。
カナタさんは突然渡されたそれに驚いたみたいだったけれど、僕が「引っ越し祝い」と言うと、どこか固い表情のまま受け取ってくれた。
遠いなと思った。
美藤カナタという女の子が、今まで知り合った異性の誰よりも遠く感じた。
思えばこの時、僕は夢から覚めたのだと思う。
婚約者だというだけで良好な関係が築ける筈が無いのだと、現実としてはっきりと理解して受け入れた。
だけどそれでも、僕の恋という夢が覚めることは無かったし、ありえないと断言できた。
だって初めて会ったその瞬間に、この人が婚約者で良かったと、確かに僕は思ったのだから。
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広さの割に家具以外に置かれている物の少ない部屋の中で、私はベッドにもたれかかったままジーっとにらめっこをしていた。
見つめ合っている相手は、膝の上にのった枕くらいの大きさのクッション。
それはデフォルメされた黒猫の顔の形をしていて、手で押すと程よい力で反発してくる。
ショッピングセンターで神城くんに渡された引っ越し祝いの中身は、今私の膝に鎮座している黒猫のクッションだった。
最初は戸惑ったけれど、ぐりぐりと押しても形を崩さないそのクッションは触り心地がよくて、貰って良かったと今になって思う。
けれどなんだか勿体無くて、お尻の下に敷く気にはならないので、こうやって膝の上において抱きしめるようにしている。この子の他に、何か座布団でも用意した方がいいかもしれない。
そんな事を考えながらクッションを見つめていると、ベッドの上に放り出していた携帯電話から着信音が鳴った。
こんな時間に誰だろうと思いながら携帯を手に取ると、画面には昼間に知り合ったばかりの女の子の名前が表示されていた。
何の用かと思いながら電話に出ると、マコトは挨拶もそこそこに「プレゼント何だった?」と聞いて来た。
それを不快に思わないのは、彼女の人徳だろうか。昼間に初めて会った時も、それほど時間を置かずに気軽に話せるようになっていて、いつの間にか名前で呼び合うようにまでなっていた。
人の心にするりと入り込んでしまう何かを、彼女は持っているのかもしれない。
「あーなるほど。ユーキ猫好きだからな」
私がプレゼントの中身が黒猫のクッションだったというと、マコトはそんな感想を返してきた。
猫好きな人は行動が犬っぽいという話を聞いたことがあるけれど、神城くんにはよく当てはまっているかもしれない。今日一日の神城くんの様子は、構ってほしくて様子を窺う子犬そのものだった。
私がそんな失礼な事を言うと、マコトは「おまえは猫っぽいぞ」と予想外の事を言ってくる。
「どこが?」と私が聞くと、「なんか雰囲気が近寄りがたい。お澄まししてる気難しい猫みたい」と、マコトはどこか楽しそうな声で答える。
自分は散々近寄っていてなんて評価だと思ったけれど、神城くんがマコトと同じような印象を私に持ったのなら、この黒猫はもしかして私に似てると思ってプレゼントしたのだろうか。
もしそうなら少し文句を言いたい所だけど、多分顔を合わせたら私は何も言えなくなってしまう。
大体いきなり婚約者などと言われて、普通に接する事が出来る方がおかしい。むしろ無理矢理距離を縮められたようで、警戒をしてしまうのが当たり前だと思う。
私がそんな愚痴をもらすと、マコトは「そりゃそうだ」と少し笑い声を漏らしながら言う。人事だと思って、完全に楽しんでいるらしい。
「でもな、生憎とユーキは普通じゃないから覚悟しとけよ」
ああ確かにその通りだと思った。
神城くんが私という存在を知ろうと、受け入れようとしているのは、その対象である私が一番分かっていると思う。
なら私はどうすれば良いのだろう。
「とりあえず一緒に居る時間増やして話せば? 知らないと始まらないだろ」
マコトのくれた助言は正論だったけれど、同時にそれが難しい事を理解しつつ他人事のように言い放つという性質の悪いものだった。
だけど私が文句を言う前に、「まあ直接聞きづらいなら私に聞いてもいいけど」と的確なフォローを入れてくる。
どうやら私は、かなり性質の悪いキューピットに捕まったらしい。
マコトとの電話を終えてしばらくの間、私は再び黒猫のクッションとにらめっこをしていた。神城くんは何を思ってこのクッションを私に渡したのだろうか。
「カナタさん。起きてる?」
突然ドアの向こうから神城くんの声が聞こえてきて、私はクッションを抱えたまま跳び上がりそうになった。
だけどそんな醜態を悟られるわけにはいかないので、私はなるべく動揺を表さないように気をつけながら「何?」と短く聞き返す。
神城くんはしばらくの間何も言わなかったけれど、一分は経とうかというほど時間をかけて「おやすみなさい」と言った。
わざわざ就寝のあいさつをしに来たのかと呆れたけれど、すぐにマコトの言葉を思い出して納得した。
私達はあまりにも共有した時間が少なすぎる。ならこんな何気ない挨拶の一つですらも、今の私達には大切なのだろう。
そう思って私は「おやすみ」と返したけれど、その時になってプレゼントのお礼を言っていなかった事に気づく。神城くんがドアから離れる気配がしたので、私は慌てて「クッションありがとう」とつけくわえた。
それに返事は無くて、もしかして聞こえなかったのかなと思ったけれど、しばらくしてから「うん、じゃあおやすみ!」と言うとドアの前から気配が離れていった。
私だけじゃ無くて、神城くんだってまだ私へどう接したらいいか迷ってる。お互い様ということなのかもしれない。
これから上手くやっていけるのだろうかと思い、それ以前に今日は眠る事が出来るだろうかと考え始めた所で、私は何だか気恥ずかしくなってクッションに顔を埋めていた。
何故よりによって神城くんの部屋が隣なのだろう。
私は下手に物音を立てるわけにもいかず、睡魔に負けるまでクッションを抱えたままベッドの上で悶え続けた。
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突然マコトから電話がかかってきたと思ったら、「カナタと何でもいいからもっと話せ」と命令形で言われた。
いきなり何を言い出すのかと文句を言うと、「このままだと、私はおまえらの通訳にさせられそうな気がする」とわけの分からない文句を言い返された。何故同じ日本人なのに通訳する必要があるんだろう。
マコトの文句はともかく、もっと話したほうがいいのは事実だと思ったので、僕は何となく足音をしのばせながらカナタさんの部屋に向う。
両親はまだアメリカに旅立っていないので、なるべく見つかりたくないというのもあるけれど。
そんな風に無駄に時間をかけてカナタさんの部屋の前に辿り着いたけど、直前になって部屋に入るのを躊躇してしまって、結局ドアも開けずに「おやすみ」と言うのが精一杯だった。
ボクシングで相手の懐に飛び込むよりも、女の子の部屋に入るほうが勇気がいるのだと新たな発見をしつつ、僕はドアの前から離れる。
だけど僕が足を踏み出す前に、部屋の中から「クッションありがとう」とカナタさんが言うのが聞こえてきた。
今更お礼を言われた事に驚いて、今更お礼を言われた事が嬉しかった。
今になってお礼を言ってくれたという事は、プレゼントの事をそれなりに気に入ってくれたという事だと思ったから。
僕は慌てて返事を返すと、逃げるように自分の部屋に戻った。
そしてマコトから再び電話がかかってきたのでその事を報告すると、「……おまえは小学生か」と呆れかえった声で言われた。
あまりに的確なつっこみに、僕は恋をしている時は脳内麻薬が出ているという話を思い出し、今の自分は恋愛中毒者かとわけの分からない結論を出していた。




