遠距離未遂
「大事な話がある」
四月一日。
僕のこれまでの人生の中で、これほど待ち望んだ日は無いと断言出来るほど重大な日に、父さんは僕をリビングに呼び出すとそんな事を言った。
その一言は僕の浮き足立った心を着地させるには十分な重さを持っていて、もしかして婚約が破棄されたのではと想像して、この世の終わりのような心境へと誘った。
「実は海外赴任が決まってな」
しかし父さんから告げられたのは、婚約者さんとは何の関係も無い、しかし確かに重大な事だった。
海外赴任と言われて、僕はとうとう父さんが島流しになったのかと危惧したけど、父さんは「場所はアメリカだ。しかも支社長になる」とある意味とんでもない事を言い出した。
前々から偉い人なんだろうとは思っていたけれど、まさか支社長になるほどとは思わなかった。背が高いし何でも出来るし、僕は本当にこの完璧超人の息子なのかと疑いたくなってくる。
実際に疑って「僕もしかして橋の下で拾われてきたんじゃないの?」と言った事があるけれど、言い終わる前に母さんの平手打ちが飛んできた。
初めて手をあげられて混乱し「親父にもぶたれたこと無いのに!」とお約束な反応をしてみたら、因果を逆転させる勢いで父さんに拳で殴られた。
どうやら両親は僕があまり甘えないことを気にしていて、僕が血縁関係を疑うというのは、両親からしたら洒落にならない冗談だったらしい。
そんな僕とは似てない完璧超人が今更社長になっても驚かないけど、「出張じゃ無くて赴任だから、二人も連れて行くぞ」と言ったのには耳を疑った。
「行かない」
自分でも意識しない内に出た言葉は、それでも僕の本心を告げていたと思う。
住み慣れた街を出て行きたくないし、あまり行動的じゃない僕が陽気なアメリカンに馴染めるはずがない。
それに何よりまだ出会ってもいない婚約者さんと離れるのは嫌だった。
やっと今日会う事が許されて、これから婚約者さんの事を色々知る事が出来ると思っていたのに、遠距離恋愛なんて我慢できるはずが無い。
しかしそんな理由を自覚する前に、父さんが笑顔で拳を振りぬき、僕の首から上がぐるりと半回転した。
目の前には父さんが座っているのとは反対方向にあった冷蔵庫。
僕は殴られたという事実を数秒かけて認識すると、頭の中で「カーン」と心のゴングが鳴るのを聞いた。
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「準備できた?」
後ろから母にそう聞かれて、私はいらなくなった雑誌を縛りながら無言で頷いた。
もの心着いた時から、私は母と二人で暮らしていた。しかし私たちが暮らしていたアパートが取り壊される事が決まったため、こうして引越しのための準備をしている。
狭くてボロボロのアパートだったけれど、生まれてから様々な思いと共にあったそれが取り壊されるのは、自分の一部を手放すような喪失感を私に抱かせる。
だけどその喪失感は少し横に置いて、知らなければならない事が一つあった。
「どこに引っ越すの?」
荷物は業者の人たちに任せて、母の車で移動している最中に、私は普通ならとうの昔に知っているべきであるはずの事を聞く。
それに母は前方を見たまま「知りたい?」と言うと、しばらく間を置いてから「あなたの婚約者の家よ」と満面の笑みで告げた。
それを聞いた私は、無言で自分のこめかみを押える。
私のリアクションが気に入らなかったのか、母は「驚かないの?」と聞いてきたけれど、婚約者と引き合わされるはずの日に引越しをするのだから、可能性の一つとしては考えていた。
だけど予想していてもそれが非常識な事には変わりなく、痛む頭の血行をよくするために、ぐにぐにとマッサージをしてしまうのは仕方ないと思う。
しかしよく話を聞いてみると、ちゃんとした理由はあるらしい。
何でもその物好きな婚約者のお父さんが、長期間海外に赴任する事が決まったので、その間に家が傷まないように管理する条件で住まわせてもらうらしい。
さらに物好きな婚約者は日本に残していくので、彼の保護者役を私の母にやってもらうためでもあるとか。
理由はよく分かったけれど、年頃の男女を一つ屋根の下に同居させるという暴挙に、思うところがあるのは変わらない。
私が住む部屋には鍵をつけてもらおう。そう思ったけれど、結局私の部屋に鍵がつけられる事は無かった。
この時は知らなかったけれど、彼に実際に会ってしまえば、そんなものは不要だと思ってしまったから。
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「おまえがそこまで言うなら、日本に残していくのもやぶさかじゃない」
そうリビングのテーブルの前に座り直して言う父さんを、僕は顔を濡れタオルで冷やしながら睨め付けた。
僕の人生初の親子喧嘩は、ラウンド制などぶっちぎって十分ほど続いた後、父さんの判定勝ちで終わった。
いくら体格差があるとはいえ、現役のアマチュアボクサー相手にほぼ無傷とは、本当に何者なのだろうかこの人は。
納得いかないとばかりに目で抗議する僕を放置して、父さんは「だけどおまえ家事出来るのか?」と心配そうに聞いてくる。
少し考えてみるけれど、確かに長い間一人暮らしをするには厳しいかもしれない。洗濯は問題無いけど、料理は毎日作れるほどレパートリーが豊富なわけじゃない。
最悪の場合は幼馴染の家にたかりに行くという手もあるけど、それを言ったらもう一度拳が飛んできて、アメリカへと拉致されかねないので黙っておいた。
もっとも父さんは最初から僕を連れて行くつもりなんて無くて、一人残していく僕のために既に手は打っていたのだけど。
「ん? 来たか。お待ちかねのお客さんだ。おまえが迎えに行って来い」
ピンポンと来客を知らせる音がなって、それを聞いた父さんがそんな事を言う。
僕は父さんの言っている意味がすぐには理解出来なかったけれど、お客さんというのは婚約者さんの事だと気付くと、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。
リビングから玄関まで約十歩。普段から歩き慣れている床が、雲のようにふよふよと頼りない気がする。
「どんな子だろう」と、婚約者さんの存在を知ってから三年間に幾度も反芻した思いは、早鐘のように高鳴る心臓の音にかき消されたようだった。
まるで躾のなっていない子供がプレゼントの包装紙を破るように、僕は躊躇いもせずにノブに手をかけて玄関のドアを開いた。
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「はじめまして。神城ユウキです」
母さんに言われて、一足先に物好きな婚約者さんの家に向った私を出迎えたのは、人懐っこい微笑を浮かべた少年だった。
背は私より少し低くて、紺色の長袖のシャツに隠された腕は細く、どこか頼りない印象を受ける。
まだまだ幼さの残る顔や長めの髪と合わせて、どこか子犬っぽいなと失礼な事を思った。
けれど今は、それより重要な事がある。
私は母さんとの賭けを実行するために「美藤カナタです」と短く自分の名前を言うと、物好きな婚約者の顔を真っ直ぐに見つめた。
するとそれまで微笑んでいた顔が、僅かに動揺して曇ってしまう。
それを見た私は自分が賭けに勝った事を確信し、胸がチクリと痛む。
そしてその痛みを感じて、やっと私はどこかで母の言う通り、物好きな婚約者が自分の事を受け入れてくれるのでは無いかと期待していたことに気付いた。
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「美籐カナタです」
そう短く言って顔を上げたその人は、こちらを鋭い目でジッと見て来た。
服装は白いシャツに黒のロングスカートと地味だけれど、今どき珍しいくらいの黒く長い艶やかな髪が、知らぬ内に僕の目を引いていた。
そんな無遠慮な視線に機嫌を悪くしたのか、婚約者さんは僕を睨むように見つめてきたのだけど、僕はそれに臆するどころか、心臓を射抜かれたように鼓動が高鳴るのを感じた。
「恋は大いなる勘違い」という言葉を聞いた事があるけれど、願わくばこの勘違いが永遠に続いて欲しいと思うほどに。
だけどある事に気付いてしまって、僕の高鳴っていた心は水をうった様に鎮まってしまう。 僕を見つめる婚約者さんの目線は僕より少し高い。ぎりぎり平均身長に届かない僕の身長を、この時ほど怨んだことは無かっただろう。
「背高いですね」
あまりにショックだったためか、無意識の内にそんな事を言ってしまう。
もしかしたら背が高いことを気にしているかもしれないと気付き、言った後にしまったと思ったけど、僕の言葉を聞いた婚約者さんは何も言わずに目を見開いていた。
先ほどまで鋭かった目が少しだけ丸くなるのを見て、僕は自分の失言も忘れて可愛いなあと思った。
恋に恋する僕のいかれた恋心は、本人に会っても冷める事無く、むしろ加速し続けているようだった。
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「背高いですね」
心と一緒に視線を落としそうになった私の耳に、そんな言葉が聞こえてくる。
一瞬何を言われたのか分からなくて、視線を物好きな婚約者に向けると、そこにはどこか悔しそうな様子の彼が居た。
背が低いことを気にしているのだろうか。しかも私の目つきの悪さなんて少しも気にしてないらしい。
しばらく間を空けてその事を理解すると、私は失礼だと認識しながらも、口元が緩みそうになった。
母との賭けは私の負けのようだったけれど、そんな事がどうでもいいくらいに暖かい感情が胸を満たしていた。
だって嬉しかったから。
私の目つきも態度も気にせずに、純粋な好意を抱き、受け入れようとしてくれている。
それがたまらなく嬉しかったから。
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そうやって海を挟んで離れ離れになるはずだった、僕と私の距離は零になった。
出来ることなら、二人の距離がずっと零のままである事を願って。




