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Burn up!!

 視界が安定しないのを苛立たしく思いながら、僕は必死に宇喜多のパンチを避けていた。

 何故宇喜多と視線を合わせただけで、あれほど動揺してしまったのか。昔の事を思い出し、宇喜多に怯えたのかもしれないけど、それを認められるほど僕は強くなかった。

 勝たなくてはならないと、そう思った。そうしなければ僕は昔と変わらないのだと、ダウンをとられた瞬間に思ってしまった。

 宇喜多が僕に勝たないと過去を吹っ切れないように、僕も宇喜多に勝たないと弱い自分を変えられない。そう思いこんだ。


 だけどそんな余計な雑念が入った瞬間に、試合中ならいつでも発揮できていた集中力が切れてしまっていた。

 本調子なら簡単に避けられるであろう宇喜多のパンチを、辛うじて腕で止めやり過ごす。追い詰めるために踏み出したはずの足が、追い詰められるように下がっていく。


 負けられない。負けたくない。そんな漠然とした思いが僕を焦らせ、らしくない不用意な攻撃を選択させた。

 苦し紛れに出した右手は、ガードを固めた宇喜多の左腕に弾かれた。そしてその大きな隙を見逃してくれるはずも無く、カウンター気味に僕の顔を宇喜多の右ストレートが強襲する。


 ああ、これは駄目だ。顔に迫ってくるグローブを見ながらそう思い、衝撃が後頭部に突き抜けた後にそう結論した。


 それは諦めだったのかもしれない。


 宇喜多に負けたから何だというのか。ボクシングが強い事は自慢できるけど、弱かったら情けないだろうか。

 子供ではあるまいし。腕っ節が強いとか弱いとかいう価値観が、現代社会で生きていく中で何の役に立つのか。

 意識が薄れていくのを感じながら、僕は自分を納得させる理由を探していた。


 勝ち負けに関係無く、そんな言い訳を必死に探している時点で、僕は納得出来ていなかったのだろうし、何より情けなかっただろう。


「――神城くん!!」


 しかしどこからか聞こえて来た声が、今誰よりも大切な人の声が、雑音に包まれた世界をかき分けて僕の耳に届いた。

 その声を聞いて、僕は色んなことに気付いた。


 第2ラウンドが終わり、神城くんと宇喜多がコーナーに戻っていくのを見て、私はほっと安堵の息をついた。そして自分がそれまで息を止めていたのだという事に気付き、誰かに知られたわけでもないのに恥ずかしくなる。


「……」


 そんな私の事を、橘さんが複雑そうな様子で見つめてくる。それは嫉妬なのか羨望なのか。私には分からない。

 ただ双子の兄である橘くんは分かっているのか、妹の様子を見て珍しく笑っている。


「美藤さんの声に応えるみたいに、神城が踏み止まった事が気に入らないんだろう」

「……」


 兄のからかうような言葉に、橘さんは何も応えず細めた目を向ける。そしてしばらくして私に視線を向きなおすと、まくしたてるように言葉を紡ぐ。


「偶然です。声を聞いただけで疲労が回復するわけはありませんし、何よりここから声が届くはずがありません」

「そうか? 美藤さんは意外に声が大きいから、届いたかもしれんぞ?」

「ぐ・う・ぜ・ん・で・す!」


 強調するように一語ずつ区切りながら、橘さんは否定する。しかしその様子は、どちらかというと自分自身に言い聞かせているように見える。


「それより次のラウンドで終わりなんですよ。ポイントは微妙ですし、逆転するにも神城さんのダメージが大きいです」


 橘さんが誤魔化すように言ったのは、確かな事実でもあった。

 コーナーに座ってマコトに汗をふかれている神城くんは、肩が大きく上下していて余裕があるようには見えない。

 このまま押し切られてしまうのか。そう思った私を安心させるように、神城くんはこちらに視線を向けると軽く右手を上げて見せた。


「ボコボコ殴られてダウンまでとられやがって。いいわけはあるか?」

「何か昔を思い出して」

「いいわけすんな」

「……」


 僕の汗をふきながら聞いて来たマコトに正直に答えたのに、前提条件を覆すような文句を言われた。

 何だろうこの理不尽さは。危うく倒れるところだったのを堪えて帰ってきたのだから、労いの一つくらいあっても罰は当たらないと思うんだけど。


「それで、いけるのか?」

「……うん。さっきのでスイッチ入った」


 先ほどまで切れていた集中力が戻ってきた。いや、もしかしたらこれは、集中とはまた違うのかもしれない。

 普段は集中すればするほど相手しか見えなくなるのに、今は周りがよく見える。

 一階に居る選手たちはもちろん二階の座席に居る人達、視界の端に居るカナタさんと橘兄妹の様子まで把握できる。

 ついでにサングラスにノースリーブという怪しい人を見つけたけど、考えるのは後にする。


 僕はこの感覚を、U-15の決勝の時に一度だけ経験した。そしてあの時も、手痛い一撃をもらった後にこの状態になったはず。

 もしかしたら殴られた衝撃で、脳がある意味まずい状態にシフトしているのかもしれない。


「昔を思い出すのは終わったのか?」

「うん。というか昔の事も、今の宇喜多もどうでも良くなってきた」


 あっけらかんと言い放った僕に、マコトが目を丸くする。まあ確かに、この短時間で思考が切り替わりすぎだと自分でも思うけど、そうなってしまったものは仕方ない。


「カナタさんの前でかっこつけたい。だから宇喜多を殴り倒す」

「どこをどうしてそんな愉快な結論になった」


 僕の決意に呆れたような言葉を返したマコトだったけど、その顔には笑みが浮かんでいた。リングの下にいる芥先輩の顔にも、何とも複雑そうな笑みが浮かんでいる。


「よーし、分かった行ってこい。カナタが惚れるくらい圧倒しちまえ」

「もちろん」


 破顔一笑僕を送り出すマコトに、ガッツポーズを返して立ち上がる。だけどそれはカラ元気で、正直な所あまり長い間は動き回れそうに無い。

 宇喜多は一気に勝負を決める事にしたのか、第3ラウンドが始まるなり強襲をしかけてきた。僕の反応速度は上がっているはずなのに、それでも宇喜多のパンチのキレは油断できないものに見える。


 だけど僕の方が速い。それは単に動きが速いだけでなく、相手の行動の把握や次の行動の決定の早さによって発生する、相手との時間の剥離と言えるかもしれない。

 だけどこの優位は短い。あと少しすれば、足がまた動かなくなると自分で冷静に判断できる。だから宇喜多が攻めている間に、こちらからも仕掛けるしかない。

 ボディへの攻撃を受け止めたところで、宇喜多の目が勝利を確信したように見えた。宇喜多は僕がこれ以上動けないと思っている。ならこのまま先ほどの上下のコンビネーションで決めに来るはず。

 違ったらまた別の方法を考えよう。そんな大雑把な事を考えながら、僕は残りの体力や気力を総動員して足を動かす。

 そして宇喜多がパンチのモーションに入った頃には、僕の体は宇喜多の左手側へと回りこんでいた。


「何故そこにいる?」


 そう宇喜多の目が言っているように見えた。

 焦りを顔に浮かべ、左手を持ち上げながら体の向きを変えようとする宇喜多。

 しかしその行動が終わる前に、僕は宇喜多の顎を右ストレートで打ちぬいた。



「兄さん見えましたか?」

「ここからなら見えるだろう。実際に目の前でやられたら、追う自信は無いな」


 レフリーがカウントを取る声をバックに、橘兄妹が呆気に取られたような様子で言葉を交わしている。

 パンチを避けた神城くんが、宇喜多の側面に回りこんだ。言葉にすれば簡単だけれど、その動きは素早く、床を滑って移動したのではないかと思うほど滑らかだった。


「……立つか」

「え?」


 橘くんが漏らした声につられて視線を向けると、ダウンしていた宇喜多が凄まじい形相で膝をついていた。

 彼は彼なりに意地があり、負けるわけにはいかないのだろう。

 レフリーはカウントを進め、6まで数えられた所で宇喜多がリングに手をついて力をこめる。


「立て宇喜多!」

「相手辛そうだぞ! 突けば倒れる!」


 仲間たちから声援が送られ、それに応えるように宇喜多の体によりいっそう力が入る。

 そしてレフリーのカウントが9まで進んだところで、宇喜多の体が反動をつけるようにして持ち上がった。



 数度打ち鳴らされたゴングの音を聞きながら、僕は半ば呆然としながら宇喜多の姿を眺めていた。

 対する宇喜多は僕の方を見ようとせず、ただリングに一度グローブを叩きつけると、セコンドの手を払いのけて立ち上がる。

 宇喜多は間に合わなかった。

 立ち上がろうとした宇喜多の体は、少し浮き上がった後に再び沈み込み、当然ファイティングポーズもとれず10カウント。僕の初めてのKO勝ちとなった。


 宇喜多からすれば納得いかないだろう。宇喜多がセコンドを振り払って立ち上がったという事は、足が動かなかったのは一時的なもの。カウントに間に合いさえすれば、宇喜多に勝機はあったかもしれない。

 だけど僕がそれを考えても仕方ない。宇喜多と目を合わせることも無く、僕は背を向ける。

 例えこれ以上何かを交わしても、きっと僕と宇喜多は分かり合えない。世の中にはそういう相手もいて当然だ。

 だけどこのままボクシングを続ければ、これからも宇喜多とやりあう機会はあるかもしれない。そしてそれも悪くないと思う自分が居る。


 宇喜多は試合中に、反則の類や危険な行為は一切しなかった。憎しみに近い敵意を抱いていた宇喜多が、試合の中では正面から正々堂々と僕と打ち合った。

 恐らくこの場所だけが、僕と宇喜多が対等になれる場所なのだと思う。


 だから今度会うときも、出来ることならこの場所で。

 そんな思いを込めて宇喜多へと振り返ると、宇喜多も合わせたようにこちらへと振り返る。その目には、試合前ほどの勢いはない。

 しばらくそうやって見つめ合っていたけど、不意に宇喜多は視線を反らすと、左手をひらひらと振りながら去っていった。

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