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Crash and burn


「ユーキ。大丈夫か?」「……無理かも」


 マコトがあまり心配していない様子で聞いてきたのに、それを裏切るように僕の口から弱音が漏れる。

 自分の試合が次へと迫ったというのに、僕はいつものように意識を切り替える事ができずにいた。原因は宇喜多との因縁やら試合自体の事で悩みすぎているからだと分かっているのだけど、それでも集中できないのはハッキリ言ってまずい。

 意識が切り替わってエンジンがかからない限りは、僕のボクシングの実力は平凡以下と自覚している。

 このままでは負ける。そう思って集中しようとするのだけど、逆にそれがプレッシャーになって集中できない。試合前に、ここまで見事な悪循環にはまるのは初めてだ。


「そんなに緊張しなくても、いつも通りやれば大抵の人には勝てると思うんだけどね」


 僕の様子を見かねたのか、先ほど合流したばかりの芥先輩が励ますように言う。

 ああこれは重症だ。芥先輩が愛を囁かずに普通に励ますと言う事は、僕の見た目はかなりまずい状態に見えるらしい。


「ほら、前の試合終わったぞ。意識切り替えろよ。カナタが見てんのに、みっともなく負ける気か」

「それはヤダ」


 マコトがカナタさんを引き合いに出して発破をかけてきた瞬間、それまで逃げ腰だった意識が一気に切り替わる。

 カナタさんはボクシングに殆ど興味が無いみたいだけど、負けるのを見られて嬉しいはずがない。

 それに僕だって、ボクシングに対する意地はある。

 U-15の決勝のときまで、僕はあまり勝ち負けに拘ってはいなかった。だけど試合中に感じた高揚感と、あと一歩届かなかったという事実が、初めて僕に負けて悔しいという思いを引きずり出した。

 負けて悔しいのは当たり前。だけど未だに僕は「勝って嬉しい」と思った事が無い。

 それを知りたいから、あと一歩届かなかった場所を目指そうと思った。


「集中して……いつも通りにだね」

「やっとやる気出たか。大丈夫だって。雑なボクシングやる奴は、おまえの格好の餌食だろ」


 別に宇喜多のボクシングが雑とは限らないけど、要は相手のペースに乗るなという事だろう。

 試合の準備をしてリングに近付けば、同じようにリングへと移動する宇喜多の姿が目に入った。宇喜多も僕に気付いて鋭い視線を向けてきたので、僕はそれに真っ向から視線を返す。

 色々と言いたい事があるだろうし、僕だってある。だけどマウスピースをしてしまえばろくに喋る事ができないので、あとは本当に拳で語るしかない。

 宇喜多にとってあの日の出来事がトラウマになっていたとしても、僕はそれに遠慮する気はない。

 原田部長の言うように、宇喜多が僕より強い事を証明したいのだとしても、僕はそれをねじ伏せて前に進ませてもらう。



 神城くんと宇喜多の試合は、拍子抜けするほどに何事も無く進んでいる。

 攻め続ける宇喜多に対し、一つも致命打を貰う事も無くたまに思い出したように反撃をする神城くん。今のところは、神城くんの試合によくあるパターンにはまっているように見える。


「神城さんは、1ラウンド目は様子見に徹する事が多いですからね。しかも防御に徹している神城さんに下手な攻撃は当たりませんから、試合相手を焦らせる効果もあります」

「そして第2ラウンドに入ったところで、ヒットマンスタイルに切り替えて攻めにまわる。本当に、腹が立つほど的確なボクシングをしてくる」


 試合が始まる直前に戻ってきた橘兄妹が、予選の時と同じように解説をしてくれる。

 しかし説明された神城くんの戦術が分かっても、それがどれくらい凄いことなのかは理解できない。

 そもそも1ラウンドの二分間の様子見で、どれほどの事が分かるものなのだろう。


「しかいやけにボディ狙いが多いな」


 橘くんがそう呟いたので注意して見ると、確かに宇喜多のパンチは下に集中している。何故かは分からないけれど、私は宇喜多が何かを企んでいるような気がした。

 けれど結局何事も無いまま、ゴングがなり第1ラウンドは特に山場も無く終了した。



「よーし、良い感じだぞ」


 第1ラウンドが終わりコーナーに戻ってきた僕の汗を拭きながら、マコトは満足げな笑みを浮かべながらそう言った。

 今のところお互いに決定打はないけど、確かに僕の方にペースがあると言っていい。予想以上に宇喜多の相手がしやすかった。


「やけにお腹狙ってくるんだけど、何か意地になってないあれ?」

「だよなあ。おまえよく腹殴られてたし、昔の嫌がらせの続きか?」


 だとしたら、宇喜多の精神はどれだけ歪んでいるのだろうか。もしかしたら、僕たちが思っている以上に、宇喜多はあの事件を引きずっているのかもしれない。


「ほれマウスピース。いけると思ったらこのラウンドで決めろ」


 マコトの言葉に、僕は頷きながら立ち上がる。だけどこの時、僕たちは一つ勘違いしていた。

 そしてある意味で、宇喜多の方が一枚上手だったのだと思い知らされる。


 第2ラウンドが始まり、宇喜多が構えると同時に、僕も拳を上げて宇喜多を見据える。

 狙うのは宇喜多が踏み出した瞬間。出鼻を挫いて、ペースを完全にこちらのものにする。


 開始して数秒としない内に、宇喜多は突進するように僕の方へと向ってきた。それを待っていたように、僕は宇喜多の顔にジャブを叩き込む。

 しかしそれを宇喜多も予想していたのだろう。左のグローブで難なく防ぐと、僕との距離をつめてくる。

 僕は普段フリッカージャブを好んで使っているけど、通常のジャブだってかなりのものだと自信を持って言える。

 それに対してすぐに対応して見せた宇喜多も、今までボクシングに多くの時間と労力を捧げてきたのだろう。才能と力だけで、ここまで動けるはずが無いのだから。


 でも対処出来ないほどじゃ無い。そう判断した僕がヒットマンスタイルに切り替えるのを見て、宇喜多の動きが一瞬止まる。

 警戒したのか戸惑ったのか。どちらなのか僕には分からないけど、距離をつめようとしていた宇喜多の動きが止まったのは僕にとっては好都合だった。

 宇喜多が射程内に居るのを確認し、力の抜けた左腕をしならせるようにしてフリッカージャブを放つ。

 正面を捉えたはずのジャブは、宇喜多が顔を背けたために左頬に当たった。それは宇喜多はフリッカージャブに反応は出来ていたのに、防御が間に合わなかったという事。

 いきなりジャブの質が変わったためか、警戒するように距離をとろうとする宇喜多。だけどそれを追うように踏み込み、僕は追加でフリッカージャブを打ち続ける。

 僕は逃げるのは得意だけど、逃げる相手を追い詰めるのも得意だ。それに下がろうとしたところを畳み掛ければ、大抵の人間は戦意が低下する。

 だけど宇喜多は、その大抵の人間には分類されなかったらしい。フリッカージャブの嵐の中でも、宇喜多の炎のように揺らぐ目は僕を見据えていた。

 その目に僕は怯えたのかもしれない。もしかしたら、昔宇喜多に無抵抗でされるままだったことを思い出し、体が竦んだのかもしれない。

 原因はともかく、宇喜多と目が合った瞬間に放たれたフリッカージャブが、甘いものだったのは確かだった。

 これ以上無いくらい綺麗に、宇喜多の顔面にグローブが叩きつけられる。しかし宇喜多はそれが堪えた様子も無く、打ち終った左腕を戻すのに引っ付くように、僕の方へと迫ってきていた。


「……今のは?」


 神城くんが地面に膝をついた状態でカウントをとられている。その光景を半ば呆然と眺めながら、私はついさっき起きた攻防が理解しきれず呟いていた。


「一発もらう覚悟で飛び込んで、左のボディとほぼ同時に、右でがら空きの顔面を打ち抜いた。さっきからボディばかり狙っていたのは、今のコンビネーションを決めるための下準備か」

「でも先ほどまでのように、神城さんが守りに徹していたら防げていたはずです。まるで神城さんが攻めてくるのを待っていたようですね」


 冷静な橘くんと、目を細めた橘さんが待っていましたとばかりに解説してくれる。

 話を聞いた限りでは、宇喜多は闘争心の強いタイプだと思っていたのだけど、ただ我武者羅に攻めていたわけでは無いらしい。

 それに驚きながらも、いつの間にか試合を再開していたリングへ視線を向けると、まるで第1ラウンドの焼き直しのように宇喜多が攻め、神城くんが守っていた。

 しかしよく見てみれば、第1ラウンドと違って神城くんが追い詰められる場面が多く、何度か有効打をもらってしまっている。


「出鼻を挫くつもりが挫かれた。ダメージと合わせて、流れを完全に向こうにもっていかれたな」

 橘くんの言う通り、先ほどの一撃のダメージは大きかったらしく、今の神城くんの動きは精彩を欠く。

 それこそ何かの拍子にもう一度まともに攻撃を受けたら、そのまま倒れてしまうのではないかと思うほどに。


「踏ん張ってください神城さん! これ以上ダウンとられたら後がありません!」


 隣で橘さんが必死に声を上げているけれど、果たしてそれは神城くんに届いているのだろうか。

 今の神城くんには、これまでのような余裕が見られず、本当に焦っている事がここからでも分かる。


「行け宇喜多!」

「相手ふらついてるぞ!」

「神城さーん!!」


 宇喜多と同じ高校の生徒らしき人たちが、私達から角を挟んで離れた場所で声を上げている。それに対抗するように叫ぶ橘さん。耳が痛くなってきた。

 しかし宇喜多の仲間たちの応援は届かなかったのか、それとも橘さんの叫びが効いたのか、神城くんは度々危ない状態になりながらも宇喜多の猛攻をしのぎ続ける。

 しかしもう少しで第2ラウンドが終わるというところで、先ほどの橘さんの危惧が現実になったように、足を止めた神城くんの顔を宇喜多の右ストレートが貫いた。


「神城くん!!」


 元々壊れかけていた操り人形の糸が切れたように、神城くんの体が慣性に従って後ろへと傾いていく。

 その光景を見た私は、自分でも気づかない内に悲鳴のような声を出していた。

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