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小心・傷心・焦心

 宇喜多との喧嘩から数時間後。

 幸いと言うべきか、口内の出血はすぐに止まった。頬にあざは残ったけれど、それは「こけて手すりに顔面からつっこんだ」という非常に嘘くさい話で誤魔化す事になった。

 マコト曰く、どんなバレバレな嘘も証拠がなければ嘘にはならないらしい。

 その言い分を思い出しながらお茶を口に含んだけれど、予想以上に傷にしみて、唇のはしからお茶が漏れそうになる。

 痛みがおさまってから、今度は気合を入れてから飲んでみたけど、やはり痛いものは痛い。お茶を飲むのは諦めて、湯飲みを近くのテーブルへと戻す。


「しっかし、おまえはその手の騒動に巻き込まれるようなタイプじゃ無いと思ってたんだがな」

「小学生の頃は結構巻き込まれてましたよ。まあ情けない事に、マコトに助けてもらってたんですけど」


 呆れた視線を向けてくる原田部長に、僕はあまり思い出したく無かった過去を口に出したけど、実際に思い出してみれば大抵は微笑ましい記憶であった事に苦笑した。


 あんな事があった後では、マコトはともかくカナタさんはとても遊べる心境では無いだろうという事で、コンビニで昼食を適当に買うとホテルに戻った。その間に当然原田部長に宇喜多とのことを聞かれたのだけど、僕もマコトも詳しい事は話していない。

 まあ別に原田部長には話してもいいのだけど……。


「……カナタさんに言わないでくださいよ。絶対ひくから」

「俺が言わなくても国生が言うだろ」


 それは無い……と思いたい。

 マコトがあの場で説明をしなかったのは、僕に気を使ったからだと思うけど、カナタさんに改めて聞かれたら喋らないとは言い切れない。同性のためか、マコトはどうも僕よりカナタさんの味方になる事が多い。


「それで、具体的に宇喜多とやらに何をやらかした?」

「昔石で殴りかかりました」

「……恐いなおまえ」


 断片的な事実を聞いた後の原田部長の第一声は、心底からそう思っているに違いない、ひきつった顔で放たれた。

 原田部長でこれなのだから、カナタさんが聞いたらどんな印象を持つのか。それこそ恐くて考えたくない。



「あいつって小学生の頃は見た目女みたいでさあ。別にそれで苛められるって事は無かったけど、一部の男子がからかう事があったんだよ。……ん? 今思えばいじめだったのかあれ?」

「私に聞かれても」


 ベッドに腰かけながら首を捻るマコトにそう返すと、私は自分でいれた緑茶をすするように口に含んだ。

 思っていた以上に喉が渇いていたらしく、お茶を飲み下さなくてもスポンジのように口の中に吸収されてしまうのでは無いかいう気すらしてくる。先ほどまでの緊張状態は、今まで私が経験してきた中でも稀に見るものだったらしい。


「逆に私はユーキとは逆に男みたいでな。何というかユーキは自分が守らなきゃみたいな使命感があって……今思えば凄い悪循環だったな私ら」


 当時を思い出しながら、視線をどこか遠くへと投げかけるマコト。それは今の二人を見ていたら容易に想像できる過去だけど、次の発言は私の想像の範疇を越えていた。


「というか、ぶっちゃけ私ユーキと結婚するつもりだったし」

「ブホォッ!?」

「うをっ!? 良いリアクションすんなカナタ」


 突然の結婚宣言に、私は自分でも呆れるほどうろたえ、喉を通るはずだったお茶が気管に入り込んで咳き込む。そんな私を見てマコトは一瞬驚いたようだったけれど、すぐに呆れた様子で咳き込んでいる私を眺め始める。


「そんな驚く事か。私にヤキモチやいてたし、危惧はしてたんだろ?」

「だ、だってマコトいつも私と神城くんを!?」

「ああ、今は別に結婚しようとか思ってないぞ。というかヤキモチ否定しないのな」


 最後の一言にはっとしたけれど既に遅く、マコトの表情は憎らしいチェシャ猫笑いへと変わっていた。なんだか最近こうやってからかわれる事が多いのは気のせいだろうか。


「ついでだからぶっちゃけるけどな、中一のときに婚約者が居るって聞いたときは、本気で顔も知らない婚約者に嫉妬してたんだよ。そのせいで結構強引にユーキ振り回してたなあ、清清しいくらい私の気持ちに気付いてなかったけど。というか今も気付いてないだろアレ」

「……よね」


 いくら私がヤキモチを焼いているとは言っても、神城くんのマコトへの態度は友人の域を出ていないし、むしろ異性として見ていないのでは無いかとすら思える時がある。マコトのほうも、今話を聞くまではそうなのだとばかり思っていたのだけれど。


「じゃあ何で私の事を……応援したりしたの?」

「だから今は何とも思ってないって。もっと良い男見つけたからな」


 そう言って笑うマコトの顔は、今まで見せた事の無い満ち足りたものだった。だけどそこには、照れだとか青臭さというものが感じられなくて、恋に恋する状態の私とは違うのだと分かる。

 そのせいだろうか。マコトが恋をしているなんて、話を聞いた今も信じられない。


「って、話それてるな。ユーキと来島……じゃなくて宇喜多の事だっけ?」

「うん。二人に何があったの?」

「んー、私が見つけたときは小学校の裏山のそばで蹲ってるユーキを踏んでるとこで、とりあえずどかしようと思って体当たりしたんだっけか」


 私の今までの穏かな人生からすれば、神城くんが踏まれていた時点でかなりのビックイベントになりそうなのだけど、マコトの言いようからしてそれは驚くほどの事ではなかったらしい。それともその後にもっと驚く事があったのか。


「それでしばらく掴み合いになって、私がバランス崩して倒れたとこに枝が落ちてて刺さった」

「それってお腹の傷跡の?」

「おう、それ。痛いっつうより熱くて、さすがに叫んだな」


 当時から男勝りだったというマコトが叫んだという事は、それ程の痛みだったという事だろうか。その様子を想像しようとして体が震える。針が刺さっても痛いのに、枝なんて刺さったらどれ程痛いか想像したくない。


「それ見たユーキが怒った……というより錯乱してたのかねアレは。いきなり石持って来島……じゃなくて宇喜多に殴りかかった」

「……」


 最後の一言がすぐに理解できなくて言葉が出ない。

 神城くんが? 石で人を?


「……大丈夫だったの?」

「大丈夫なわけ無いだろ。頭から血が噴水みたいに出てたし、ギャク漫画ならともかくリアルで見たら本気で血の気が引くぞあれ」


 マコトの血の気が引いたのは、お腹の怪我のせいじゃ無いかと思ったけれど、そんな事は指摘する意味も無いので黙っておく。洒落にならない光景だったのは確かなのだろうし。


「もう私とユーキと宇喜多の親呼ばれて、学校中が上から下まで大騒ぎで。ユーキのおじさんとおばさんは平謝りで、宇喜多の親はユーキ責めずにお互いに怒鳴りあってるし、私の親父はユーキを褒めて母さんに殴られてるし。カオスって言うのはこういうのを言うんだろうなあと子供ながらに思ったわ」

「……じゃあ来島じゃなくて宇喜多になったっていうのは?」

「宇喜多の親が離婚したんだよ。まあ、ある意味ユーキのせいだけど、元から仲悪かったらしいし、ある意味自業自得だと思うけどな私は」


 それを聞いてほっとしたけれど、すぐにそれが間違いだと気付く。神城くんが宇喜多という人に、石で殴りかかったという事実は消えないのだから。


「神城くん……そんな短気には見えないんだけど」

「だからあの手のタイプはキレるとヤバイんだろ。普段手を出さないから、力加減が分かってないんだよ。……いや、ユーキの奴殴ったのまったく反省してなかったし、分かっててやってた可能性も」

「……」


 それは余計にヤバイのではないだろうか。それに人が流血するほど殴っておいて、謝りもせずに開き直っている神城くんもあまり想像出来ない。


「まあ宇喜多との事はそれでおしまいだよ。その後にこのままじゃダメだと思って、ユーキをボクシングジムに引っ張り込んだんだけど……まさかこうなるとはねえ」

 そういって溜息をつくマコトは、本当に今の状況が予想外で参っているのだろう。まさか過去の事件から脱却するために始めたボクシングのせいで、過去の事件の当事者に会ってしまうとは、誰が考えるだろうか。

 天井を見上げながら放たれた、「明日の試合は荒れんだろうな」というマコトの一言が、私には予言のように思えた。



「……なるほど。まあ宇喜多の気持ちも分からんでもないなそれは」

「え?」


 話を終えた所に放たれた原田部長の言葉は、僕の予想外のものだった。僕は何故宇喜多が小学生の頃に、そして今日のように絡んできたか分からないのに、原田部長は分かったというのだろうか。


「まず小学生の頃は、単純におまえが気に入らなかったんだろ。男子が女子と常に一緒に居るだけでターゲットになりかねないのに、おまえらは見た目性別反転コンビだろ。もういじめてくれと言っているようにしか見えないな」

「何で断言出来るんですか?」

「俺がガキの頃にいじめっこだったからに決まってるだろ」


 僕の疑問に原田部長は一点の曇りもなく堂々と答えてみせる。

 しかしどう考えても胸を張って言う事じゃ無い。


「……あとあれだ! 男は好きな子いじめちゃうもんなんだよ! その好きな子のそばに男子がいたら倍率ドンだ!」

「えー? 宇喜多がマコトの事好きだったとか想像出来ないんですけど」


 僕の生温かい視線に耐え切れなかったのか、逆切れ気味に他に考えられるいじめの理由を話す原田部長。恐らくそれは原田部長がいじめてた理由なんだろうけど、宇喜多が同じ理由というのは僕には信じがたい。


「もしかしたら芥の同類とか? おまえ女みたいだったんだろ?」

「笑えないからやめてください」


 もしそれが万が一にでも事実だったとしたら、明日の試合を棄権する事すら考えなくてはならない。


「でだ、今日つっかかってきたのは、お前に殴られたのがトラウマにでもなってるんじゃないか? 格下だと思ってた奴に負けたわけだろ。俺達みたいな強いだの弱いだのっていう価値観から脱却出来ない人種は、そういうのを無性に気にするもんなんだよ」

「何て迷惑な……」


 しかしそれは、宇喜多が試合では無く喧嘩での決着に拘っているように見えたことを考えると、案外的を射ているのかもしれない。僕としては勝ったとは、それどころか喧嘩だったとすら思っていなかったのだけど。

 そんな僕の考えを聞くと、原田部長はさらに呆れた様子を見せた。


「喧嘩じゃ無いって、じゃあ何だったんだお前の凶行は?」

「えー……カッとなってやったから、なんだと聞かれても困るんですけど」


 別に今までの仕返しだとか、殺したいほど憎かったわけではなくて、気がついたら殴っていたのだ。


「マコトが怪我した仕返し……かなあ? だから喧嘩じゃ無くて正当防衛的な」

「どう考えても過剰防衛だろ」

「……返す言葉もないです」


 それについては、当時は絶対に謝るものかと意地になっていたけど、殴るのはともかく石で頭を割ったのは明らかにやりすぎだと反省できる。しかしそれでも、宇喜多に素直に謝る事が出来ないのは、それなりの理由はあるけど、結局の所僕がまだ子供だからなのかもしれない。

 だってあのとき父さんは、自分は悪くないのに頭を必死に下げていたのだから。例え言い分があったとしても、社会の法律や常識をふまえれば、あのとき僕は宇喜多を傷付けた事を謝らなければならなかったのだ。

 ならば今から謝れば良いのではという考えが浮かんだけれど、先ほど再会したばかりの宇喜多の顔を思い浮かべて即座に沈めた。

 当時からの鬱憤やら何やらで、宇喜多にも僕を殴りたい理由があったのだろうけれど、だからと言って素直に頭を割られるわけにもいかない。

 そもそも宇喜多だって、僕やマコトには一言も謝っていないのだからお互い様。そう考えた所で、やはり自分の考えがとても子供っぽいものである事に気づく。

 かと言って、どうやって問題を抑えればいいのやら。まったく良い考えが浮かばない。


「もう拳で語っとけ。明日試合だからついでに」


 どこから買ってきたのか、業務用と書かれた袋に入った大量の煎餅を音をたてて食べながら言う原田部長の言葉は、説得力は皆無だけど逃れられない未来でもあった。

 どうせ試合は無くならないのだから、殴り合ってスッキリする事に期待することにしよう。

 しかし少し考えたら、僕の逃げまくるスタイルは、逆に相手を苛立たせるのという至極当たり前なことに気付く。

 むしろリングの上でルール無視の殴り合いになるのでは無いか。そう考えると胃がきりきりと痛みはじめた。

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