自覚少女
季節は移り七月の頭。
六月の終わりには制服も半袖になっていたのだけれど、その時に僕の腕を見てクラスが軽い驚きに包まれていたのは、少し恥ずかしかったけれど少し嬉しかった。
全員が全員そうでは無いけれど、ボクサーというのは着痩せする人が多い。僕は特にその傾向が強くて、長袖を着ていると腕が細長く見えるらしい。だから僕が筋肉質なのに驚いた人は多かった。
まあ体育の着替えの時に気付いていた男子は居たし、よっしーからは「この細マッチョめ!」という謎の罵倒をもらっていたのだけど。
「よし、じゃあ神城はサードな」
「いや、何で?」
そして現在は体育の授業の真っ最中。女子は水泳なのに男子は太陽の下でソフトボール。
少し納得いかない気もするけれど、次の体育は男子が水泳で女子がバレーボールになり、水泳を男女が合同ですることは永遠に無いらしい。
その事を聞いた男子の一部が、絶望の悲鳴を上げていた。
僕としてもカナタさんの水着姿は見たくないわけでは無いけれど、先日それ以上のものを見てしまったわけで。
しかしそれでも水着にはまた違ったリビドーを感じないでもないけれど、そんな葛藤は今は関係無い。
「僕ソフトボールも野球もやったことないんだけど?」
「ピッチャーよりマシだろ。それにボクサーってパーキングでパンチ払い落とせるんだから、打球くらい取れるだろ」
「パーリングね。パーキングは駐車場」
「……グダグダ言ってねえで守備につけ、かっしー!」
「横暴だよ、よっしー!?」
そのまま試合開始となったのだけれど、僕は特に活躍する事も無く、柔道部のボスこと坂本くんが動けるデブだということが周知の事実となった試合だった。
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創立百年近い県立高校だけあって、三鷹東高校は古い施設が多い。
それはプール周辺の施設にも言えることで、更衣室は薄暗くジメジメしていて独特の臭いがするし、シャワーは個室も無く通路の途中に三つほど無造作に設置されているだけ。
それでも水泳の授業が楽しみなのは、やはり七月に入り暑さも厳しくなってきたせいだろう。
少なくとも体育館でバレーボールをするよりはずっと良い。
「よく髪洗えよカナタ。おまえの髪が塩素で脱色されたらユーキ泣くぞ」
「泣くわけ無いでしょう」
水泳が終わりシャワーを浴びている所に、隣に来たマコトが笑いながらそんな事を言ってくる。
確かに塩素は髪を傷めるけれど、シャワーは三つしかないのだし、後ろに順番待ちをしている人たちが居るからあまり手間はかけられない。
「いや泣くな。あいつ事あるごとにカナタの黒髪綺麗だって褒めてるし、あれはもう黒髪フェチだな」
「ほうほう。すると黒髪率の高いうちのクラスは、かっしーにとっては天国ですな」
マコトの言葉に、さらに隣に居た青山さんがニヤニヤしながら私を見てくる。
さすがに婚約者だとはばれていないけれど、私と神城くんが恋人に近い関係だという事は、クラスの周知の事実となっている。
否定したいのだけれど、婚約者以外で私と神城くんの関係をどう表したらいいのか分からず、答えられない事が多い。
友達では無いし、恋人でもない。かといって友達以上恋人未満という表現も、友達の段階を通過していないから違和感が残る。
マコトに言わせれば、私達はとっくに恋人を通り越したバカップルらしいけれど、それを認めることは断じて出来ない。
「……マコト。少しは隠す努力して」
「えー、どうせ女子しか居ないだろ。下はちゃんと隠してるぞ」
「そーだそーだ。みんな隠すな!」
更衣室にて、堂々と水着を脱いで上半身を晒すマコトに呆れながら注意したけれど、本人はまったく気にしていないし、むしろ桃井さんが煽る始末。
確かに他の人のスタイルは気になるだろうけれど、桃井さんの視線はねっとりとしているので、当然誰も言う通りにしたりしない。
マコトですら胸元を隠すのだから、いかに桃井さんの視線が危険な色を持っているかが分かる。
「桃井。女同士でも痴漢やセクハラは成立するという事を知っているか?」
「え? マジ!?」
「はいはい。犯罪者になりたくなかったら、ジロジロ見るのやめなさい」
しかしそれも黒川さんの言葉によって勢いを失い、委員長の嗜めるような言い方に完全に止められる。
「スキンシップじゃん……」と呟いているけれど、誰にも信用されないのは言うまでも無い。
「……?」
ふとマコトに視線を向けると、お腹に何かついているのに気づく。
それをマコトに言おうとしたけれど、寸前でそれが何なのか気付いて言葉を飲み込む。
もし軟膏をぐちゃぐちゃに塗ってそのまま放置すれば、こんな形に固まるだろうかという、マコトのはりのある肌の中で浮いた皺。
それが傷跡だと分かり、マコトの腹部にそんな傷跡があることに少なからず動揺してしまった。
「ん? あー別に内臓にまで傷残ってたりしないぞ」
私の視線に気付いたのか、マコトが苦笑しながら言った。
マコトがそう言うなら、それは事実なんだろう。もし本当に気を使うような傷跡だったら、マコトは気付かれる前に自分で言う。
もっとも女の子に消えない傷跡があるだけで、十分気を使う問題だと思うのだけど。
「どうしたのそれ?」
「……こけて枝が刺さった」
嘘はついていないけれど、何か隠している。そんな印象を持たせる歯切れの悪い答え方だった。
本当にそれだけなら、言うのを躊躇ったりするはずが無いのだから。
「マコトならこけても受身とれそうだけど」
「小学生に無茶言うな」
詳しい事情が気になったけれど、隠し事を追及するのも悪いと思い、私は素直な感想を返した。
しかし後にそれを後悔する事になる。
その傷跡は、神城くんという人間にも無関係なものでは無かったから。
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体育の授業が終わり昼休み。
普段なら僕とカナタさんとマコト、それに清家くんを加えた四人でお弁当を食べるのだけど、女子達は誰かが持ち込んだらしいドライヤーで髪を乾かすのに忙しいらしく、まだお弁当を食べ始めていない。
「しかし肩にかかる髪は縛れって生徒手帳に書いてあるのに、誰も守ってないじゃん」
代わりにというか、よっしー含む田んぼ三兄弟とお弁当を食べていたのだけれど、コンセント付近に群がっている女子を見ながら、蔵田くんが独り言のようにそう呟いた。
確かにこのクラスは肩より髪の長い女子が半数近く居るけれど、ゴムなりなんなりでまとめている人は少ない。
三鷹東は校則がゆるい事で有名だけれど、それは学校側に取り締まる気が無いだけで、定められた校則自体は十年以上も変わってない。
だから生徒手帳の校則には「指定された制服以外は着用しない」だとか「靴は黒の革靴。または白の運動靴とする」だとかいう、いつの時代の校則だと言いたくなる様なものが並んでいたりする。
「そりゃ在って無いような校則だし、守る人居ないよ」
「いや待て神城。校則は守らなきゃダメだ」
だから僕は当然のように言ったのだけど、それについて思わぬ……というよりありえない人物から反論が上がった。
「……今度はどんな馬鹿を思いついた吉田」
「馬鹿とはなんだ杉田。俺はいつだって大真面目なのに」
「うん。いつも大真面目に馬鹿やってるよね」
「きつ!? 最近言葉に容赦無いぞかっしー!?」
杉田くんと僕の言葉によっしーは傷ついた仕種を見せたけど、それを気遣うクラスメイトは一人も居ない。
むしろ一部の人間は期待しているに違いない。今度はどんな馬鹿をやらかすのかと。
「蔵田。生徒手帳の七十三ページの上から十二行目を音読してみろ」
「はあ? えーと……頭髪は清潔に保ち高校生に相応しいものにする。かっこ頭髪が肩より長い場合は三つ編みやポニーテールなどにして肩にかからないようにする事が望ましい。かっことじ」
「国生さーん! 校則だからポニーテールにしようぜ!」
生徒手帳片手に女子の方へと突撃するよっしー。
それを見て男子の一部は「そう来たか」と呆れ、さらに一部は「ナイスだ吉田!」とよっしーを賞賛する。
しかしよっしーは大事なことを忘れている。マコトには髪を縛る必要など無いという事を。
「私肩に髪かかってないぞ?」
「ぎゃふん!?」
「うわ。私『ぎゃふん』てリアルに言う人初めて見たで」
そう。マコトの髪はそれなりに長いけれど、ぎりぎり肩より上くらいで切り揃えられている。
あっさりと正論で返され、よっしーはオーバーにのけぞり、その際の叫びを聞いた黄桜さんが冷めた目で言う。
まあ髪の長さの前に、校則云々と言い出すなら、マコトはまず髪を黒く染めるのが先決だろうけれど。
「ま、まだだ! 美藤さんの髪を……!」
「うん。よっしーちょっと落ち着こうか」
「OK.まずおまえが落ち着こうぜかっしー。男の嫉妬は醜いぞー?」
「問答無用」
じりじりと後ずさるよっしーの制服の襟を掴み、座っていた椅子へとズルズルと引き摺って連行する。
女子がクスクスと笑っているのが聞こえてくるけれど、深く気にしないことにする。
「ちぃ、このソフトマッチョめ! 両手に花状態のクセになんて心が狭いんだ。独占禁止法を知らないのか」
弁当代わりのハムカツサンドに齧りつきながら、グチグチと文句をたれるよっしー。
確かに花である事は否定しないけれど、マコトは棘があるどころか蝿取り草みたいに噛み付いてきそうだなあ。
「……羨ましいなら彼女作れ」
そんな事を考えていたら、それまで黙々と弁当を食べていた清家くんがボソリと呟いた。
その言葉に一部除いた男子がお通夜状態になったのは、静かで良かったけど少しうざかった。
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放課後になり、私はいつものようにボクシング部のマネージャーもどきをしに行こうとしたのだけれど、突然マコトに呼び止められて教室に残された。
どうやらマコトは、私が神城くんから微妙に視線を反らしているのに気付いていたらしく、いつまでたっての改善されないので理由を聞きたかったらしい。
理由と言われたら、先日お風呂で遭遇した事なのだけれど、それを素直に言ったらマコトはどんな反応をするやら……。
「なるほど。そんな面白い事があったのか」
そんな風に心配しながら白状した私に、正面の机を挟んで座っていたマコトは、少しもこちらを気遣う様子も見せずにそう言ってのけた。
もうこの反応の時点で話したことを後悔しそうなのだけれど、かと言って話さなくても神城くんがマコトに相談しかねないし、それなら自分の感知出来る範囲で話が動いたほうが幾分か楽だ。
……そう思いたい。
「それで? 私が最後に見たときに下は生えてなかったけど、今はどうなんだ?」
「言えるわけ無いでしょう!?」
真顔で聞いてくるマコトに、私は机を叩きながら叫ぶように言い返していた。
無意識のそれは羞恥心のせいであり、それを理解しているマコトはチェシャ猫笑いを浮かべると「言えないという事は確認したんだな」と言った。
「……それで、何で俺が?」
顔に熱が溜まり、慌てて前言を撤回しようとした所に、抑揚の無い男子の声が割って入り勢いを削がれる。
声の主へと視線を向けると、そこには相変わらずの無表情で椅子に座っている清家くん。
肩にかかったままのバッグは、帰ろうとしたところをマコトに無理矢理座らされたからだけれど、そのままにしているのは「早く帰らせろ」という彼なりの無言の抗議だろう。
「何が不満なんだよ?」
「そういう話は女子だけでやれ」
不思議そうなマコトに、清家くんは片眉を不機嫌そうに上げながら、少しも動揺していない様子で答える。
その女子とは違って角ばった体を視界に入れた瞬間、先日見た神城くんの姿を思い出してしまい、反射的に首ごと視線をそらしてしまう。
そしてその様子を見たマコトが、首を捻りながら清家くんへと問いかける。
「なんだ今の反応?」
「羞恥……にしても過剰。もしかして男性恐怖症に?」
「そ、そうじゃにゃくて」
清家くんの言葉を否定しようとしたけれど、自分でも予想以上に余裕が無いのか、どもった上に途中で噛んでしまった。
そのせいで余計に焦ってしまい、顔の血行が良くなりすぎているのか、自分で感じられるほどに顔が熱くなってくる。
「オイ……恋は女を変えるつっても変わりすぎだろ。誰だこの可愛い女子は?」
「そう変わらないと思うが。しかし神城以外にも似たような反応するなら、単に異性に免疫が無いのか?」
からかうというよりも、本気で呆気に取られたように言うマコトに、清家くんが相変わらずの無表情で話の軌道を修正する。
しかし次に清家くんからされた質問は、私の体温をさらに上げる無神経なものだった。
「本でも画像でも直にでもいいから、男の裸は見た事無いのか?」
「あるわけ無いでしょう!?」
「無いのかよ。そういやカナタって母子家庭だしなあ。近付き難いし、見事に男と接する機会が無いんじゃないか?」
自分でも意識せずに大声で否定してしまった私に、マコトがさっきまでの調子は何だったのかと聞きたくなるほど、真面目な様子で私の分析を始めている。
そうまで冷静な反応をされると、焦っている自分が恥ずかしくなってくる。
「異性を異性として初めて認識したということか」
「前からユーキの事は好きだったみたいだぞ?」
「それは精神的もので、今は性的な意味というか、肉体的な意味というか、中学生が異様に異性の体が気になるみたいな状態だろう」
「ああ、つまり小学生の恋愛が中学生の恋愛になったと。良かったなカナタ」
「何が!?」
本気で良かったと思っているのか笑顔で肩を叩いてくるマコトに、収まりきらない熱を吐き出すように大声で聞き返す。
だけど実際に神城くんの体を一々思い出して悶々としているのは確かであり、清家くんの推測は正しいような気がしてくる。
「その前に見られたことは気にしてないのか?」
「そうそっち!」と叫びたくなるほど今更な事を聞かれて、私は話の流れを変えようとしたけれど、数秒後にどちらにせよ恥ずかしい事に気づき勢いが削がれる。
「……被害妄想だと思うんだけど、神城くんが私を見るたびに、は、裸を思い出してるような気がして」
「……」
またしても噛みながら言った私に、今まで冷静だった清家くんが止まった。
否定するでも無ければ、私を落ち着かせるようなフォローもせず、電池が切れたように身動きしない。
「まあ男に好きな子の裸思い出すなって方が無理だろ?」
「……ノーコメント」
呆れたようなマコトの言葉に対する清家くんの灰色の返答は、肯定しているようなものだった。
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「神城。国生と美藤はどうした?」
「何か話があるとかで、教室に残ってました」
隣に居た原田部長にマコトとカナタさんの事を聞かれたので、僕はサンドバックを殴る手を休め、グローブをはめた手で校舎の方を指す。
それに原田部長は納得したのか、「そうか」と返すとサンドバックを右ストレートで一発殴った。
サンドバッグが大きく揺れるのを見て、この人のパンチがマコト以上に危険なものだと再確認する。
そしてしばらく僕と原田部長が直接スパーリングをしないよう提案したマコトに、今更ながら感謝する。
本能で戦っているタイプだから、白熱すると手加減と言うものを本当に忘れる人だし、下手をすればインターハイを前に怪我でもしかねない。
「……神城。おまえカウンターは使えないのか?」
「え、どっちかというと手を出される前に出すようにしてますから」
不意に聞かれて僕は正直に返したのだけれど、原田先輩は何か思うところがあったのか、手を休めて何やら考える様子を見せる。
「はっきり言って、おまえはボクシングは上手いが相手を倒す決定力に欠ける。全国に出れば、おまえと同等以上の速さやテクニックを持つ相手だって居る。そういった奴らに対抗するためにも、カウンターを覚えた方が良いぞ」
それは確かに事実だった。
以前芥先輩を思わずジョルトブローで殴り倒したけれど、隙の大きいジョルトを試合で使ったことは無い。
その点カウンターなら、一年前より速さも反射神経も上がっているし、何より相手のリズムを読むのも得意だから僕に向いているだろう。
「でもどうやって覚え……」
「安心しろ」
疑問を口にしかけたところで、原田部長が何を企んでいるのか気づき、思わず後ずさる。
それに対して原田部長は肉食動物を思わせる笑みを浮かべると、グローブを打ち合わせる。
「おまえはカウンターを覚えたい。俺は苦手なアウトボクサーへの対策を色々試したい。分かるな?」
「分かりたくないけど分かります」
要するに原田部長はこう言っているのだ。
「リングに上がれ。大丈夫。これはスパーリングじゃ無いから約束は破ってない」と。
「……助けてください」
「うん。ごめん無理」
一番頼りたくない芥先輩に助けを求めたけれど、原田部長に一睨みされて首を横に振った。
「さあ殺るぞ神城」
「練習ですよね!? その殺気は何!?」
結局カウンターを覚えるどころでは無く、僕はマコトとカナタさんが来るまでリングの上で逃げ回り続けた。
それでもマコトや芥先輩相手にカウンターの練習は続け、付け焼刃ながらも僕はインターハイへの準備を着々と進めた。
しかし夏休みに入りインターハイも近いという時期に、試合どころでは無い事態へと僕は陥る事になった。




