バッティング
「ユーキー。準備良いか?」
「いつでも」
マコトの呼びかけに答えた神城くんが、パンと軽い音を立てながらグローブをつけた拳をぶつけると、手を使わずに軽快に立ち上がる。
まだ戦闘態勢に入っていない顔は、いつも通りの子犬のようだけれど、少なからず緊張はあるのかその表情はどこか固い。
今私達が居るのは、ボクシングインターハイ予選が行われている星岡学園ボクシング場。
星岡学園の格闘技関連の部は、三鷹東に比べて部費に恵まれているのか、小奇麗な武道館にまとめて施設が作られていた。
私達が居るのもボクシング場と剣道場の境目にある通路で、他の選手達もここで休んだり試合の準備をしている。
これから神城くんが挑むのは、インターハイ出場を決める決勝戦。
決勝とは言っても、一回戦であたった三嶋という人は、以前に原田部長が言っていたように打たれ弱く、最後のほうにはふらふらになっていてとても試合になってはいなかった。そのため神城くんもあまり勝った気にはならなかったらしい。
問題なのは、これから戦う早川という選手。
三年生であり経験があるのは間違いが無いし、何より果敢に攻めてくる上に反則もたまにやらかすらしい。
一回戦で橘くんと戦ったときには、反則はもちろん怪しい行為も出なかったらしいけれど、それは橘くんを実力でねじ伏せたという事でもある。
「気をつけて」
特に意識せずに、私は神城くんの背中にそう言ったのだけど、振り返った神城くんはどこか困ったように苦笑していた。
「こういう時は、『頑張って』って言って欲しいんだけど」
それを聞いた私は、神城くんだって試合に勝ちたいのだという当たり前の事を、考えていなかったことに気付いた。
それはきっと神城くんが力を誇示するようには見えない、温和な性格だったから。だから私は、神城くんは勝ち負けには拘ってないのだと勝手に思っていた。
「……頑張って」
「うん。絶対勝つよ」
それならと、私は少しでも神城くんにやる気を出して欲しいと思って、慣れない事をしてしまった。
私はちゃんと、笑ってその言葉を口に出来ていたのだろうか。
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「挑発されても前に出るなよ。近づけないのを第一に、あとアッパーでダウン取ってる試合多いらしいから、うっかりガード抜かれないようにな」
「分かってる。ようはいつも通りにね」
セコンドに入っているマコトの注意に頷いて返すと、向かいのコーナーにいる早川さんに視線を向ける。
目はたれ目なのにどこか威圧感があり、短く刈り込んだ髪は明らかに校則違反であろう緑色。僕のような何でボクシングをやっているのか疑問を持たれるタイプとは違い、ボクシングをやるべくしてやっている人間のように見える。
だけど臆する必要は無い。ボクシングは喧嘩じゃ無くてスポーツだ。
牙を封じられた状態なら、草食動物が肉食動物に勝てる可能性だって高い。
レフェリーに促されてリング中央に向う。
グローブを合わせた早川さんは、ボクと目を合わせると見下したように軽薄な笑みを浮かべた。それを見て少し心がざわついたのは、その目が小学生の頃に僕をからかって遊んでいた連中の目と似ていたからだろうか。
大丈夫。僕はもうマコトに守られてた泣き虫じゃない。カナタさんの前では謙遜したけれど、U-15の大会で結果を残した事は、僕の数少ない自慢になっている。
もう一度、あの決勝戦で見えた風景を見るために。上がれる所まで上がってやる。
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「流石に落ち着いてるな」
「当たり前です。神城さんならあんな男相手にもなりません」
「確かに。それでも油断したらひっくり返るぞ」
試合開始のゴングが鳴ったところに、いつの間にか隣に並んで座っていた橘兄妹が、神城くんが優勢という評価を下した。
橘くんは昨日負けた時点でもう試合は無いはずだけれど、まだ星岡学園の他の階級の選手は勝ち残っているので応援に来ていたのだろう。問題は何故私の隣に居るのだろうか。
「試合が終わったら、神城さんはあなたの所に真っ先に来るだろうから待ち伏せです」
「……察してくれ」
挑戦的な笑みを浮かべる橘さんと、疲れたように渇いた笑いを漏らす橘くん。
神城くんといい、肉体的には強いのに、女の子に振り回されている男子が多いのは気のせいだろうか。
それにしても橘さんはともかく、神城くんをライバル視している様子だった橘くんが、あっさりと自分が負けた相手より神城くんが強いと言ったのは意外だった。
そう私が言うと、橘くんは「神城は強いよ。アマチュアではな」と意味深な言葉を返してきた。
「アマチュアではダウンとろうがダメージがほとんど無かろうが、クリーンヒットしたらポイントが入る。どう見てもダメージが大きい方が、ポイントを多く取っていて判定勝ちとかいう事もある。
そういう意味で、神城みたいな丁寧で冷静なボクシングをする奴は手ごわい。下手にねじ伏せようとしたら、一発殴る間にこっちが殴られまくってポイントが開く」
「だからと言って強打が軽んじられるわけではありません。神城さんもU-15の決勝では、ポイントでは拮抗していたのに最終的にKO負けしています。神城さんは防御は上手いですが、あまり打たれ強いボクサーではありませんし」
今度は橘さんが冷静に神城くんの弱点を分析していて驚く。
そんな私の心境を感じ取ったのか、橘さんはこちらへ振り向くと、どこか得意そうに笑ってみせる。
「それを差し引いても、決勝での神城さんの動きは見惚れるものでしたよ。……今はちょっと見劣りしますね。やはり相手が強くないと本調子にならないのでしょうか」
「……どうせ俺では役者不足だ」
橘さんに他意は無いのだろうけれど、間接的に貶められたと思ったのか、橘くんがどこか拗ねたように呟く。
しかし橘さんはそう言うけれど、今相手の攻撃を捌ききっている神城くんの動きは、素人の私にはとても洗練されて速いものに見える。
そしてその動きに私が見とれている間に、第一ラウンドが終了し神城くんはセコンドであるマコトの居るコーナーへと下がっていく。
「ポイントは神城さんが5ポイントほどリードですね。このままいくなら、3ラウンド終わる前にRSCで決まるかもしれません」
「ちなみにRSCとはレフェリーストップコンテストの略で、プロボクシングで言う所のTKOだ。出される状況は様々だが、この場合は試合終了までに、ポイント差が15以上開いて勝敗が決まる事をカスミは予想している」
「……どうも」
いつの間にか解説するように試合の流れを説明する橘さんと、素人の私にも分かるように補足を加えてくれる橘くん。
それにお礼を言うべきか迷ったけれど、とりあえず助かるのは事実なので頭を下げておいた。
見ている感じでも橘兄妹の評価でも、神城くんが有利で間違いない。
そう安心しながら見ていたのだけれど、そんな私の楽観を嘲笑うように、第2ラウンドが半ばまで終わったところでそれは起こった。
「あっ」
声を上げたのは、私だったのか橘さんだったのか。
一度神城くんが相手選手に張り付かれたと思ったら、離れた瞬間に右フックをもらって崩れ落ちた。今までの神城くんの動きからしたら、避けられないようには見えなかったのに。
マットの中央付近で動かない神城くんを気にしながら、セコンドのマコトが苛立たしげに唇を噛んでいるのが目に入る。相手の選手が、何かやったのだろうか?
「早川の頭が神城の顔面に当たっていたな。レフェリーは見ていなかったか?」
「見てないと反則はとられないの?」
どうやら橘くんには一部始終が見えていたらしい。もしかして証拠がないと反則にならないのかと思って聞いたのだけれど、それに橘くんはどこか苦々しい顔で答える。
「周りは見てたみたいだし、バッティングは認められるだろうが、故意と判断されなければ注意だけだろう」
「故意と判断されたら?」
「減点されはするが、神城のダメージによっては割に合わないかもしれん。出血は無いが、体の調子が戻る前に畳み掛けられる可能性もある」
そこまで聞いて、神城くんが負けるかもしれないと不安になったところで、そういえば橘さんが静かだと気付き視線を向ける。
その怒りは私より深いのか、橘さんは騒ぐ気配も見せずに、ただ鋭く細めた目でリングをじっと見つめている。後で何かやらかしそうな雰囲気だけれど、そこは橘くんが止めると期待して、触れないほうが良いかもしれない。
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「ユーキー。大丈夫か?」
「めっちゃ痛い」
何とか第2ラウンドを終えコーナーに戻ったところで、マコトが濡れタオルで顔を冷やしながら調子を聞いて来た。
動きに支障は無いと思うけど、痛いものは痛い。
「で、どうすんだ? ポイントは開きまくったし、残りは逃げるか?」
「……」
確実に勝つのなら、ここは下手に打ち合わずに防御に専念した方がいい。だけど……。
「あんな奴から絶対逃げない」
「……やっぱおまえボクシング向きだな」
僕の言葉にマコトが笑って見せると同時に、第3ラウンド開始の合図がされる。
一度目を閉じ、ゆっくりと開いた視界の先には苛立っている様子の早川。その早川に向って、僕はゆっくりと足を踏み出した。
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「……神城は負けず嫌いだったか」
予想に反して攻撃の手を緩めない神城くんの様子を見て、橘くんが呆れた、しかしどこか嬉しそうな声で言った。
でも神城くんは芥先輩や原田部長といった、素人目に見ても体格差のある相手でも消極的にはならないし、リングに上がると性格が変わるのかもしれない。
「やっちゃってください神城さん! そんな往生際の悪い苔みたいな髪した男なんて叩きふせてください!」
そして神城くんの引かない様子を見て、先ほどの不機嫌を解き放ったように大きく声援を送る橘さん。
周囲から目を惹きまくっているのだけれど、それが気にならないのは恋ゆえの盲目か、それとも彼女の素の性格のせいか。
「……しかしえげつないな」
橘くんが呟いたのに気付いて視線をリングに戻すと、それまで一進一退だった攻防に変化が起こっていた。
神城くんのジャブが当たる。
相手が前に出ようとする。
それに合わせたように顔面に神城くんのジャブ。
それに怯んだ相手が下がったところに追加でジャブ。
何というか。相手を近づけさせずに一方的に殴っていた。これは確かにえげつないかもしれない。
「……こういう事はよくあるの?」
「いや。神城の読みと反応の早さとジャブの速さがあってこそだ」
話している間にも、前に出ようとした相手の勢いを削ぐように、神城くんのジャブが当たる。その口元には、少しだけれど笑みが浮かんでいるように見える。
「Sだな」
「Sですね」
橘兄妹が揃って言った言葉に、私は反論する材料が見つからなかった。
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「はあ~」
試合での疲労を吐き出すように、僕は湯に浸かるとゆっくりと息を吐き出した。
早川さんとの試合は、ポイントに大差がついた時点で勝利が決まり、僕は一年生ながらインターハイ本戦の出場が決まった。
試合を終えた後に、待ち構えていたようにカスミさんが居たのは驚いたけれど、少し話すと笑顔で何処かへ行ってしまった。リュウくんが慌てて追いかけていったけれど、何か大会の運営でも手伝っていたのだろうか。
僕以外の三鷹東の出場者は、芥先輩は残念ながら決勝で負けてしまったけれど、原田部長は昨日の一回戦から決勝という試合を制してインターハイ出場を決めた。
今まで同好会同然だった三鷹東のボクシング部が、二人もインターハイ出場を決めたのは初めての事らしい。
「あ~お風呂って良いかも」
父さんと母さんがアメリカへ行き、カナタさんとユミさんがこの家に来てから、家の中でも変わったことは結構ある。
食事は言わずもがな。一応は他人であるユミさんに家事を任せきりにするのはどうかと思い、母さんに対してよりも家事を手伝う事が多くなったし、同い年の異性であるカナタさんが居るから部屋の掃除にも気を使うようになった。
洗面所を使う時間がカナタさんと重なるので、以前より早めに身支度を済ませるようになったし、トイレや風呂の順番なんて一番と言って良いほど気を使う。
そして変わったことの一つに、以前はシャワーで済ませる事が多かったのに、今では毎日のように湯船に浸かっている事がある。
これはユミさんに言われたからで、僕は最初は渋っていたのだけど最終的には押し切られた。まあ確かにちゃんと入ってみると、体の疲れが溶け出していくようで気持ち良いのだけど。
「……眠」
そしてそんなお風呂の魔力の虜となって精神まで溶けきった所で、その事件は起こった。
うっかり風呂に入ったまま意識が飛びそうになり、これはまずいと思い立ち上がりかけたところで、ガラリと音をたてて入り口の引き戸がスライドした。
「……」
「……え?」
現れたのは、僕が居る事を予想していなかったのか、驚いて固まっているカナタさん。
そのカナタさんが服を着ていてくれれば、僕が「キャー!」とでも悲鳴を上げて後日の笑い話として済んだだろう。だけど残念というべきかそれとも幸運というべきか、カナタさんが持っているのはタオルだけであり、右半身からおへその辺りまでは隠れていたけれど、それ以外は完全に露出して僕の視線に晒されていた。
全体的に細身だけれど、マコトが言っていたことは本当だったらしく、隠されていない右胸はその存在を大きく主張している。そう見えるのは、単に僕が男だからかもしれないけど。
「……」
「……」
僕が無言なのはどうしようか悩んでいるからだけど、カナタさんが無言なのは、冷静だからでは無く混乱しているからだと断言できる。
だっていつもなら鋭いくらいのカナタさんの目が、かつて無いほどの丸くなっているのだから。
原因をあげるなら、カナタさんが僕がもう入って無いと勘違いした事。そして僕が風呂で眠りかけて音を立てなかったので、その勘違いを正せなかった上に、カナタさんが脱衣所に来た事に気付けなかった事だろう。
つまりはお互いに原因があったと主張したいのだけど、こういう場合は過程などに意味は無く、全面的に男の方が悪いのだと相場が決まっている。
したがって今すぐに謝った方が良いと分かってはいるのだけれど、脳は冷静なのに体はまだ現実に追いつけていないらしく、固まったまま動いてくれない。
「……」
そうやって数分、もしかしたらたった数秒かもしれない間無言が続いた後、がらがらがらと、開いた時よりもゆっくりと引き戸が閉まっていった。
そして戸が閉じ終わっても、お互いになお無言が続く。気まずい空気は無い。何故なら空気が止まったままだから。
「……」
脱力して再びお湯の中に体を沈めた時には、カナタさんは服を着なおしたのか、気配は既に脱衣所から消えていた。
それを確認して少し気を抜いた瞬間、脳裏に先ほど見たカナタさんの姿が鮮明に浮かび、のぼせかけていた頭にさらに血が上る。
意図したわけでは無いけれど、僕の視線の中心はカナタさんの瞳へと向けられていた。しかしそれでもカナタさんの全身を見ていたとは、自分の視界の広さに改めて感心すると同時に感謝する。
しかし嫌われてしまったかもしれないと思うと、のぼせかけた頭が一気に冷え、嫌な汗がだらだらと垂れてきた。
「……出よう」
このまま現実逃避をしていると、本気でのぼせかねないので、とりあえず風呂から上がることにした。
そして髪も乾かさずにリビングへ行くと、カナタさんは何事も無かったかのように振る舞い、僕の出てきた脱衣所へと向った。
しかしその視線がしっかりと反らされていたのは、僕の気のせいでは無いだろう。
下手に謝る機会をもらえなかったために、長期戦でほとぼりが冷めるのを待つしかなさそうだった。




