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笑顔を見せて

「先生。人間って平等だと思うんだ」

「突然何だ吉田?」


 体育が終わった後で、男子の一部がだれている三時間目。

 色々とやんちゃなために、教卓の前という特等席に席替えの際に移動されたよっしーが、灰色の髪が素敵なナイスミドルな歴史の先生相手に唐突に話しかける。

 それに対する先生は「またこいつ阿呆な事を言い始めたな」という視線をよっしーに向けていて、その白髪混じりの髪はストレスのせいでは無いのかと心配になってくる。


「人に優劣をつけるなんてくだらない。これって人類が先に進むために必要な考えでしょ?」

「人類の文明は、争いとか競争によって発展してるんだがな」

「でも俺達は仲間なんだ。仲間同士で争うなんてくだらないぜ!」


 そう言って親指を立てて見せるよっしーに対し、僕は何が言いたいのかを察し、周囲も気付いたのか少しずつ笑い声が漏れ始める。


「なるほど。それでおまえは結局何が言いたいんだ?」

「テストを点数が良い順に返すのは差別だと思います!」


 握りこぶしを掲げて力説するよっしーと、無表情にそれを見る先生。

 その状態が数秒続いた後、先生は鼻で笑いながら口を開いた。


「じゃあ悪い順に返そう。最下位、吉田」

「ノオオオオォォッ!?」


 先生の口から無慈悲にワーストワンが告げられ、名前を呼ばれたよっしーが頭を抱えて絶叫し、クラスが笑いに包まれる。

 しかしそんな中で盗み見たカナタさんの横顔は、笑顔ではなく呆れたようなもので、視線も冷めたものだった。


 いつもそうだった。カナタさんは微笑む事はあるけど、こういった時に笑うことは無い。

 その理由が気になってしまい、いつの間にか僕の口からも笑みは消えていた。



「みんなはさ、将来の夢ってある?」


 神城くんがそんな事を聞いて来たのは、四時間目の授業が終わりお弁当を食べ始めた時だった。

 その問いに最近マコトや神城くんと仲の良い清家くんが、不思議そうな顔で神城くんへと視線を向ける。


「……」

「いや、来年には文系と理系でクラス分かれるらしいし。あ、僕一応文系」

「いや、何で今ので言いたい事が分かるんだよおまえは」


 無言で見つめていた清家くんに、神城くんが当然のように答えを返し、マコトがつっこみを入れた。


「え? 何となく。マコトもカナタさんが無言の時に何が言いたいか分かるでしょ?」

「分かんねえよ。おまえらはどこの新人類だ」


 神城くんは何となくと言っているけれど、それは多分清家くんの視線や、何気ない表情の変化を読んでいるからだと思う。

 私もあまり話さないけれど、そのせいか清家くんが何をどうしたいのか何となく察せられる時はあるし。マコト曰く「おまえ等見てると人類に言葉が不要な気がしてくる」


「工業系の大学に進学したいと思っている」

「じゃあ理系だね。でも県内に工業学部って三鷹大学しか無くない?」

「あまり施設が整ってないらしい。県外の工業大学に行くかもしれん」


 清家君の進路を聞いて、マコトが若干羨ましそうな顔をする。

 何でもマコトは一人暮らしに憧れていて、県外の大学に飛び出そうかと画策したものの、お父さんの猛烈な反対によって絶望的な状況らしい。

 やや破天荒な所はあるけれど、同年代に比べればしっかりとした印象のあるマコトも、親からすれば守らなければならない子供という事だろうか。そのお隣さんは、子供を人に預けて海外に飛び出して行ったけれど。


「じゃあマコトの夢は?」

「お嫁さん」


 マコトの答えに箸の力加減を誤り卵焼きを落とした。

 幸い卵焼きは弁当箱内のごはんの上に落ちたけれど、私はそれを凝視したまま顔を上げる事が出来ない。

 動いたらやられる。

 何故か分からないが、教室全体がそんな空気に支配されていた。


「何で目をそらす?」

「国生がこの場にいる全員の予想を打ち砕いたからだ」

「良い度胸だなコラ。じゃあおまえはどんな予想をしたんだ?」

「……K-1の世界に乗り込んで、並居る男達を血祭りに」

「無理に決まってるだろ」


「無理なの?」 そう教室にいたほぼ全員が思ったに違いない。



 飛ぶように迫ってきたジャブを、上半身を反らして何とかやり過ごす。

 しかし相手の腕は予想以上に伸び、グローブが鼻先に当たり、それだけで衝撃が僅かに頭へと突き抜ける。


「見切れると思ったのかな?」


 軽い笑みを浮かべながら聞いてくる芥先輩に、いつもの嫌悪感など置き去りにして悔しさが湧き上がってくる。

 予想以上に伸びたように感じたのは、芥先輩のジャブの速度がいきなり上がったから。なるほどこの人も、体格に恵まれていながら癖のあるボクシングをするタイプらしい。


「危ない橋と分かったら、渡らないから大丈夫です」

「じゃあ安全そうな橋をたくさん用意しないとね。フフフ……僕の全てで君を受け止めるよ」


 その笑みに、ゾワリと背中を何かが這い上がるような悪寒を感じ、剥き出しの腕に鳥肌が立つ。

 前言撤回。どうあっても、この人への苦手意識は抜けそうに無い。


「うわ!?」

「おっよく避けたね」


 ジャブを警戒していた所にいきなり飛んできた右ストレートを屈んでやり過ごすと、距離を取って芥先輩の動きをよく観察してみる。

 すると今まで半身に近い状態で構えていたのに、いつのまにか体が殆ど正面を向いていて、そのため右が思っていたより速く自分に届いたのだと気付く。


「さあさあ、試合のときの集中力があれば、奇襲同然の攻撃でも避けられるだろう。もっとそばにおいで」

「断固拒否します」


 芥先輩が左手でチョイチョイと手招きをしてくるけれど、その満面の笑みといい色んな意味で危ない。

 自分がアウトボクサーだという事を、これほど感謝したのはこの時が初めてだった。



「おー、苦戦してんなユーキ」

「ある意味初見殺しだからな芥は。見た目はヒョロイが」

「あの身長でライト級ってある意味凄いよなあ。脂肪はともかく何で筋肉つかないんだろう」

「あんま食わないんだよあいつ。その分打たれ弱いけどな」

「ああ、そういえばユーキに一発でのされたっけ」


 神城くんと芥先輩のスパーリングを見ながら、プレハブ小屋の隅に置かれたテーブルを囲んで、マコトと原田先輩が何やら紙切れの整理をしている。

 どこでどうやって調べたかは知らないけれど、今年の国体の予選に出てくる人間を、大まかに纏めたものらしい。


 しかも本当に神城くんを出すつもりらしく、同じ階級の人間のチェックも抜かりなく、ボクシング部の存在しない高校の出場者の名前まである。

 本当にどこから持ってきたのだろう。


「四人しか出場しないんですか?」

「フェザー級はな。俺のウェルターとか二人だぞ」

「芥先輩のライトは三人だな。競技人口減ってるとは聞いてたけど、ここまで少ないんだな」

「県によっては予選すらない階級とかあるぞ。まあそういうとこは、ライバル不在なせいであんま強くないらしいがな」


 そこまで言うと、原田先輩は紙に落としていた視線を上げ、目のあったマコトと同時に溜息をつく。

 ウェルターの二人と言うのは、原田先輩とこの間の練習試合の相手だろうから、本人にとってはつまらない試合なのかもしれない。


 しかしボクシングの競技人口が少ないと言うのは、失礼だけれど納得してしまう事実だなあと思う。

 もし神城くんとマコトがボクシングをやっていなければ、私はボクシングに興味を持つきっかけなどなかっただろうし、階級の名前だって知らないままだったはず。

 もっとも今だって、プロボクサーにどんな人がいるかは、たまにニュースになっている人たちを辛うじて知っているだけなのだけど。


「芥はこの間の練習試合自体は勝ったけど、残りの一人に去年負けてるからな。全国いけるかは微妙だな」

「だったら部長も微妙っすね」

「大丈夫だ。根性で勝つ」


 力とか技術では無く根性で勝つというのは、やぶれかぶれというわけではなくて、実力が伯仲しているかららしい。

 さっきの溜息からあまり乗り気でないのかと思ったのだけれど、実はやる気満々なのかもしれない。


「神城くんは勝てるんですか?」

「少なくともこの間の橘ってやつにはな」

「ユーキは大舞台になるほど集中力増すしな」


 私の問いに、原田先輩とマコトは悩みもせずに即答したけれど、橘くん以外についてはそう楽観出来ないらしい。


「残りの二人の内の二年の三嶋テツヤってのは……何でボクシングやってんのか分かんないくらい打たれ弱いから大丈夫だろうな。問題は三年の早川シュン」

「あー、菊間ジムの?」

「……何で高校よりジム名が先に出てくるんだよ」


 どうやら知り合いらしいマコトの言葉に、原田先輩が驚いた様子で聞いたけれど、当のマコトは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。


「去年うちのジムの先輩がタコ殴りにされたんですよ。かなり行儀が悪かったらしくて、思いっきり愚痴ってたんで嫌でも覚えるって」

「なるほど。まあとにかくそういう奴だってことだ。神城みたいな行儀の良いタイプは相性悪いんじゃないか?」

「大丈夫。ユーキもキレるとヤバイタイプだし」


 それは大丈夫とは言わない。そう原田先輩と同時につっこみを入れた。



「カナタさんって何であんまり笑わないんですか?」


 夜も更け、カナタさんがお風呂に入っていて居ない隙に、僕はカナタさんの母親であるユミさんに常々気になって居た事を聞いてみた。

 本人に聞こうかとも思ったのだけど、何か笑わないことにトラウマのような理由でもあるのかもしれないと考え直した。多分考えすぎなのだろうけれど。


「それがね、小学生の頃に男子に『笑顔が気持ち悪い』って言われちゃったらしくて、それ以来笑わなくなっちゃったのよ」


 ビンゴだった。

 聞いただけだと大したことないように聞こえるけれど、女の子が外見の事を中傷されるのは男以上に辛いだろうし、思春期に入れば尚更だっただろう。

 しかも良かったのか悪かったのか、それが笑顔という対処出来てしまうものだったために、カナタさんは本当に対処して笑顔を封印してしまった。


 カナタさんの心境を思えばやるせないけど、どこの誰とも知れない男のせいでカナタさんの笑顔が滅多に見る事が出来ないと思うと、ふつふつと怒りがこみ上げてくる。


「ちなみにその男子はどこに住んでますか? ちょっと試合を目前にスパーリングをしたくなってきたんですけど」

「えーとね。北日吉の二丁目の……」

「お母さん!」


 半分以上冗談で聞いたことにユミさんが答えている所に、カナタさんが中途半端に空いていたドアを突き飛ばすようにしてリビングに飛び込んできた。

 余程慌てていたのか、髪は渇ききっていない上に頬は上気していて、色っぽいなあと思い顔が緩みそうになる。

 幸い僕の表情に注意を向ける余裕が無かったのか、カナタさんはユミさんに向って鋭い視線を向けていて僕のほうは見ていない。


「昔の事掘り返さないでよ! 神城くんなら本気で殴りに行きかねないんだから!」

「やだカナタったら。むしろ女冥利に尽きるじゃない」


 珍しいというか、記憶にある限り初めて怒っているカナタさんに対して、ユミさんは慣れているのか左手で口を覆いつつ、右手をパタパタと振りながら余裕で返事をしている。

 しかし「本気で殴りに行きかねない」とは、カナタさんの中で僕はどれだけアグレッシブな男になっているのだろう。


「カナタさん。冗談だから落ち着いて」

「本当に?」


 本気で心配していたのか、目線は鋭くも眉は下がり気味という何とも複雑そうなその顔を見て、反省するわけでも無く可愛いなあと思ってしまう僕は最低かもしれない。


「僕はカナタさんの笑顔可愛いと思うよ」


 そして何の前置きも無くそんな事を言ってしまったのは、後悔していないけれど唐突過ぎた。

 カナタさんは大きく目を見開いて驚いた様子を見せると、キョロキョロと視線を落ち着き無く彷徨わせた末に、「何言ってんのこの人」といった感じの視線を僕に向けてきた。

 流石に傷ついた僕は、その日はさっさとお風呂に入って寝ることにした。



 自室に戻った私は、ベッドの上にうつ伏せに倒れこむと、黒猫のクッションを手繰り寄せて正面から顔を埋めた。

 顔を上げたくない。というより顔を外気にさらしたくないのかもしれない。

 今の私の心の中は、恐らくこれまでの人生で初めてと言って良いほど複雑怪奇な状態になってしまっている。


 神城くんに笑顔が可愛いと言われたのは、素直に嬉しいと思ったはずだし、何より安心したと思う。

 だから神城くんに笑顔を見て欲しいなどと思ってしまったのは、今にして思えばあまりにも私らしくなく、自分がいつの間にか盲目状態になっているのでは無いかという危機感が募ってくる。

 しかもその照れを途中で自覚してしまい、結局笑うことは出来ずに、自分でもどうなってるのか分からない無様な顔を神城くんに晒してしまった可能性が高い。

 実際に神城くんは若干引いていたし、しばらくは顔をまともに合わせることすら恥ずかしい状態にまで、私は落ち込んでしまっていた。


「!?」


 羞恥やら歓喜やら後悔やらが渦巻いて動けない所に、突然枕もとの携帯から着信音がして、反射的にベッドの上で体が跳ねる。

 一体誰からだろうと思い、片目だけクッションからずらして携帯を手に取ると、画面にはマコトの名前が映っていた。

 どうしてこう、彼女は美味しいタイミングを見逃す事無く電話をかけてくるのだろうか。


「……もしもし?」

「もしもーし……ってどうしたカナタ? 何か声がいつもより高いぞ?」


 それは色んな意味でテンションが上がっているから。と素直に言えるはずも無く、何でも無いと誤魔化して話を促す。


「話は全て聞かせてもらった。というかユーキに「僕何かやっちゃったかなあ?」と相談された」


 衝動的に隣の部屋を襲撃しそうになったけれど、今顔を合わせるのは恥ずかしいので何とか自重する。

 本当に、いつの間に私はこんなに神城くんに弱くなっていたのだろう。


「恥ずかしいのか? 恥ずかしいんだな? 今すぐそのレアな顔を写メに撮って送れ!」

「送らないから」


 何故か一緒になってテンションが上がっているらしいマコトに、なるべく冷静さを心がけて拒絶する。


「というか実際照れて妙な態度とっただけだろ? 何で私がバカップルの惚気聞いた上にフォローせにゃならんのだ」

「私に聞かれても」


 それにフォローは一瞬で済み、既に目的が私をからかう事に変わっている。


「というか誰がバカップルなの!?」

「おっ、新鮮な反応。というか笑顔が可愛いだの何だのでそこまで照れるって、おまえら小学生か」


 何度言われたか分からないつっこみを聞き流しながら、いつのまにかこちらの方が必死でマコトの方が冷静なことに気付く。

 何故こんなにうろたえているのだろう。これでは小学生並と言われても反論出来ない。


「明日からどうしよう……」

「とりあえず笑っとけ。笑って誤魔化せ。うん、明日から楽しみだな」

「あのねえ……」


 それが出来れば苦労しない。マコトのように、余裕のチェシャ猫笑いが出きればどれだけ良い事か。

 マコトとの通話を終えると、明日からの日常を憂鬱に、しかしどこか楽しみに思いながら眠くも無いのに布団へと潜り込む。

 当然眠ることなど出来ず、枕に顔を埋めたまま悶え続け、眠る事が出来たのは時計の長針が何周もした後だった。

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