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プロローグ

「あなたには婚約者がいるの」


 そんな事を母さんが言ったのは、僕が中学に上がる頃だった。

「へー」と生返事をする僕に、母さんは「冗談じゃないわよ」と怒った。だけど僕は冗談だと思ったんじゃなくて、単に信じられなかっただけなんだ。

 その日はそれで終わったのだけど、数日後に出張ばかりしている父さんが帰ってくると、同じ事を言ってくる。

 いよいよ本当なのだと思い始めて「相手は誰?」と聞いたけど、二人は声を合わせて「内緒」としか答えくれない。

 それでも悩み続ける僕を見かねたのか、父さんは「婚約者というのはあくまでも予定で、すぐに解消してもいいから気にするな」と苦笑しながら教えてくれた。

 それに少し納得した僕だったけど、父さんが今度は真剣な顔で「俺と母さんの大事な人の娘さんだ。出来ることなら上手くいって欲しいんだけどな」と付け加えてくる。

 そんな事を言われたら、軽く考えるのは不可能だ。


「どんな子なの?」

「歳は?」

「名前は?」


 色気づき始めた中学生が、婚約者が居ると言われて気にするなという方が無理な話。

 僕は少しでもその婚約者さんの情報を得ようと、幾つも質問を繰り返したのだけど、返ってくるのは「内緒」という一言だけ。

 最後には拗ねてしまった僕を苦笑しながら見ていた両親は、「高校生になったら教えてあげる」と言ってきた。

「何で高校生?」と聞くと「高校生にもなったら、将来の事を考えてお付き合いすることも出来るだろう」と父さんが答える。

 それに素直に頷いてしまう僕は、古風というか一途というか、とにかく珍しい子供だったのでは無いだろうか。


 それからの僕は、名前も顔も知らない婚約者さんの事が気になって仕方が無かった。


「可愛いのかな?」

「優しい子だといいな」

「僕より背が高かったらどうしよう」


 そんな考えても仕方がない事を考え続け。


「僕でつり合うのかな?」

「やっぱり運動が出来る人の方がいいのかな?」

「頭が悪かったらがっかりされるよね?」


 そして仕舞には婚約者さんというまだ見ぬ想像上の強敵を作り出し、それにつりあうようにある意味無駄な努力まで始める始末。

 何てことはない。僕は婚約者という存在に浮かれて舞い上がり、恋に恋してしまっていたのだろう。


 だって普通じゃ無い。

 その頃から僕は、全然知らない婚約者さんを絶対に好きになるという確信があって、浮気なんてせずにその人の事を思い続ける自信があったのだから。



「あなたには婚約者が居るの」


 突然そんな事を言われて私が無言で首を傾げると、母は顔に笑みを浮かべて一緒に首を傾げてみせた。


 婚約者と言われて、私は見ず知らずの人間と結婚させられるのかと不安になったけれど、「好きになれなかったら破棄して大丈夫よ」と言われてすぐに安堵した。

 そして婚約者がどんな人なのかと思い、少し期待のようなものが湧いてきたけれど、すぐにそれは落胆に変わってしまう。


 私はあまり人付き合いの上手い性格じゃない。その人がどんなに素晴らしい人でも、私の事を好きにならなければ意味が無い。

 そんな考えをしている私に、母が「ちゃんと顔を上げなさい」と厳しい声で注意してくる。


 だけど私は目つきが悪いから、皆睨んだって誤解する。だったら最初から目を合わせないようにした方がいい。

 そうやってさらに俯いてしまう私に「自信の無さは人の輝きを殺してしまうから、威圧する勢いで相手を見なさい」と母は言う。


 そんな事をしたら、ますます誤解されてしまう。

 私は輝いて無くていい。ただ静かに生きていければいい。


 そうやって後ろ向きになってしまう私に、母は苦笑すると「じゃあ賭けをしましょう」と言った。


「高校生になったら、あなたを婚約者と会わせるわ。その時相手を真っ直ぐに見つめなさい。そうすれば、絶対にあなたの事を好きになってくれるから」


 内容が賭けになってない。そう私が言うと、母は「じゃあ相手があなたの事を好きにならなかったら私の負けね」と朗らかに言ってみせた。


 それだと振られたら私の勝ちという事になってしまうのだけれど、確かに私は振られると思っているから間違いでは無い。

 どちらにせよ、私は婚約者から目を背けることは許されないらしい。


 そして三年もの年月を助走期間にして決行される私の一世一代の賭けが、実行する前から負けていたのだと知ったのは、随分と後になってからだった。



「あなたの婚約者は三鷹東高校に行くらしいわよ」

 情報規制によってまったく知ることの出来なかった久しぶりの婚約者さん情報は、僕の口から珈琲を噴出させるのには十分なものだった。


 三鷹東高校。県立の進学校で、周辺の高校では偏差値が最も高い。そんな高校を目指せるような人だというのにも驚いけど、何より同じ街に住んでいるという事実に驚いた。

 そしてそんな情報をわざわざリークしてきたという事は、両親は遠回しに僕に三鷹東高校へ入れと言いたかったのだろう。


 しかし悲しいかな。中学に入ってから僕は幼馴染に引き摺られてボクシングジムへ通っていたため、勉強など当然のように疎かになり、学年の真ん中あたりをふよふよとたゆとうていた。

 これはまずいと思った僕は、いつも首根っこを掴んでくる幼馴染を振り払い、勉強に没頭した。ついでに放置されて寂しかったのか、幼馴染まで勉強を始めた。


 そうして始めた勉強会はみるみる効果を上げ、三年の最初の中間テストの頃には上位十位圏内を狙えるまでになった。

 これは単純に勉強時間が増えたのもあるが、ボクシングで殴られて脳細胞が壊死する事が減ったのが原因ではなかろうか。


 そんな事を思ってボクシングと縁を切ろうかと思ったのだけど、勉強で憔悴していた幼馴染が、中間テストが終わるなり「ボクシングしようぜ!」と良い笑顔で僕を引き摺っていったので叶わなかった。


 何故疲れていたはずなのに殴り合って元気になるのか。闘争心の欠片もない一般人の僕には分からない永遠の謎だった。



「あなたの婚約者も三鷹東を受験するらしいわよ」


 そんな事を母さんが言ったのは、蝉の声が聞こえ始めた夏の初め頃だった。

「頭が良い人なんだな」と暢気に思っていた私だったけれど、「あなたが行くって聞いて猛勉強してるらしいわよ」と告げられて、飲んでいた麦茶を噴出しそうになった。


 何故私が三鷹東を志望している事を知っているのか。そんな私の疑問を察したのか、母は笑顔のまま首を傾けると「言っちゃった」と歳に似合わない可愛らしい声で言った。


 謎は一つ解けたけれど、新たな謎が浮かんでくる。

 何故私と同じ高校をわざわざ目指すのだろう。妙な対抗意識でも持たれているのだろうか。


 再び思考の渦に沈む私に、母は最初から答えを用意していたように「あなたとつりあうようになりたいんだって」と楽しそうに教えてくれた。


 何故会った事も無い私とのつりあいを気にするのかと、理解できずにますます首を傾げてしまう。

 そしてそんなに期待されてしまったら、いざ会った時に自分が惨めになるでは無いかと、会った事も無い婚約者に文句を言いたくなってしまう。


 そんな私の様子をじっと観察していたのだろう。母は手を叩いて私の注意を引くと、人差し指を立てて、言い聞かせるように言う。


「半年後には本人と会わせるわ。だからその時は――」

「相手を真っ直ぐに見つめる。……でしょう?」


 自分の言葉を遮って放たれた私の言葉に満足したのか、母は何度か頷くと手に持っていた麦茶を一気に飲み干した。


 婚約者の存在を知ってから約二年。

 さほど意識していなかった婚約者との出会いは、あと一度季節を巡りもしない時まで近付いていた。



 寒さのやわらいできた三月の頭。

 幼馴染と共に三鷹東高校に合格発表を見に来ていた僕は、体育館の壁の前に張り出された番号の羅列を順繰りに見つめ、そして拳を握り締めた。


 自分の番号の前から突然虫食いのように番号が欠けていて焦ったけれど、そこにはちゃんと僕の受験番号が記されている。

 二学期が終わる頃には合格は確実なレベルに至っていたとはいえ、実際に合格しているのを確認すると、安堵や喜びが心から溢れ出して来る。


 そうして僕が一人充実感を抱いて空を仰いでいると、突然近付いてきた幼馴染が「やった!」と声を上げながら、ボクシングで鍛え上げられた右ストレートを叩き込んできた。

 最後までぎりぎりじゃないかと評価されていた幼馴染も、奇跡的に合格できたらしい。


 二学期が始まった辺りから幼馴染は急激に大人びて、落ち着いた性格になっていた。

 だけど余程嬉しかったのか、喜びと共に放たれた右ストレートは加減されておらず、受け止めた左手が痺れるほどだった。


 二人揃って合格したことをひとしきり喜び合った後、婚約者さんがもしかしたらこの場に居るのではないかと思い至る。

 そして周囲を見渡してみたけれど、顔も名前も分からない相手を探せるはずが無い。


 はやる気持ちを抑えるように、僕は幼馴染と共に帰路に着いた。

 婚約者と会うことの出来る日まで、既に一ヶ月を切っていた。



 まだまだ寒さの残る三月の初め。

 私は一人で三鷹東高校へと赴き、体育館の壁に張り出された合格者の受験番号を眺めていた。

 すぐに自分の受験番号を見つけて安堵し、もしかしたら落ちるのではと危惧していた自分に気付く。


 しかしそれも仕方ない。物好きな婚約者が私のためにわざわざ同じ高校を目指してくれたのに、私が落ちたりしたら申し訳が立たない。

 そんな事を考えていると、すぐ近くで何かを叩くような音が聞こえてくる。


 音の発生源へと目を向けると、一組の男女が手を取り合って合格を喜んでいるのが目に入る。恋人同士だろうか。

 その様子を少し羨ましく思いながら、物好きな婚約者はちゃんと合格できたのだろうかと思いをはせる。

 そしていつの間にか、自分まで顔も知らない婚約者の動向が気になっているという事実に苦笑が漏れる。


 何故か弾んでいる心を抑えながら、私は一人合格の報告のために中学校への道を歩き始めた。

 婚約者との初会合の日は、約一ヵ月後にまで迫っていた。



 そして桜の花びらの舞う四月の一日。

 一年の内で唯一嘘が許される日に、僕と私の嘘のような零距離恋愛が始まった。

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