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第三章・因果


  1


 海面に強く身体を打ち付けられ、ゴボゴボ…と、泡をあげながら弘佐は沈んでいく。

 青い世界、天上は光を反射し乱舞する。

 水を飲み息ができなくて苦しかったが、その美しいきらめきに目を奪われた。

 刹那、天上のきらめきが鏡より鮮明に一つの光景を映し出す。


 そらに届くほどの大樹。


 大地に力強く根がくねり広がり、空を見上げれば太い幹や幾千いくせんの枝の格子。

 緑々とした葉が太陽の光に輪郭をなぞられて金糸の刺繍のようだ。



「おーい、そこの胡娘クーニャン!」



 少年がその空に声をかける。

 見上げる幹に一人の少女が天上を仰いで寝そべっているのを発見したからだ。

 

 幹は人を十分に支えるほどの太さだが、そこにたどりつくことはできないし、枝は人の身長をゆうに超していて、足場がなく登ることは無理だからだ。



 少女はよばれて、緩慢かんまんに上体をおこし少年を見下ろす。


 金髪碧眼の少女……香霄だ。


 香霄は少年を見定めるようにジッとみつめ、次第、形のいい唇が笑みを刻む。

「おりられないのか?」

「私はこの土地の社禝しゃしょく・香霄! そなたか、私を長き眠りから目覚めさせたのは!」

 香霄は、ひらり……、と優雅に少年の前に舞い降りた。


「ハ……? 社禝……?」


 少年はポカン、と口をあけて呆気に取られる。


「そなた、名は?」

「鏐……銭鏐せんりゅう

「鏐、そなた、願いはあるか? 私が叶えてやろう」

「いきなり、願いっていわれてもな……」

 銭鏐はうーんと、考え


 ひとこと。


「ない」


 悪童めいた笑顔でいった。

 その答えに香霄は目を瞬く。


「願い、というのは神に叶えてもらうものじゃない、というのが俺の考えだ。 人はなにかしら努力して希望や願望を現実にして手にするんじゃないのか?

 ……そりゃ、人には無理な願いってのもあるかもしれねえが、俺にはそんな願いはいまのところないな」


「じゃあ、私は鏐の願いが決まるまでそばにいる」

 


 海面はキラキラと輝きを帯びていろいろな場面ときを映し出し、弘佐に見せる。


 銭鏐と香霄の出逢いから、時はうつろい…戦や、皇帝に謁見する銭鏐の姿が映し出される。


 そのかたわらにはいつも香霄が付き添っている。

 ただそばに。

ついに銭鏐の臨終を映し出した。


 銭鏐は自分の死後のことを皆に託し終えると、香霄を呼び願った。


 真に民が安らげる国を創りたい、と。


 香霄は悔しげに目を伏せいう。


「できない…、あなたはすでに『長寿』を私に願ったもの。

 でも私はこの国の王の願いを叶えることはできる。そのためには契約しなくてはな

らない。簡単よ。元瓘げんかんに王の宣下せんげをなせばいいだけ」


 その答えをわかっていたように、銭鏐は口元に微笑を浮かべて息子を呼んだ。


父王ちちうえ…」


 元瓘はその時を待っていたようだった。

 声は涙にうるんで詰まりぎみだが、瞳には悲しみではなく、嬉々とした輝きがあった。


「お前にこの国を任す、国を良き道に……」

 

 鈴がついた丸い枕。

 警枕けいちんが高い鈴の音を立てて転がった。


 その警枕の音をききとめ、熟睡することはなかった不睡竜ふすいりゅう

銭鏐は最期にその音を耳にして永久の眠りへと落ちていった。


 同時に弘佐の視界も暗幕がゆっくりと落ち、闇につつまれ——。


 2


「おい! 弘佐、しっかりしろ!」


 怒鳴り声と、強く頬を打つ痛みに弘佐は目を覚ました。

 心配そうにのぞき込む弘純を確かめる間もなく、胃からこみ上げてくる水を吐いて

弘佐は身をよじり海水を全部吐き、やっと苦しみから解放されると、意識がハッキリしてくる。


「ここは……」


 甲板の上だ。たしか海に投げ出されて……。

 じゃあ、あれは夢……?

 弘純は弘佐の背を労るようにさする。


「大丈夫か? それにしても、海に投げ出される奴があるか、血の気が引いたぞ」

 弘純は全身びしょぬれだった。

 海におちた自分を助けてくれたと知って謝った。


「申し訳ありません、兄上」

「申し訳ないで済むか!運が悪ければ死んでいたんだぞ!わっているのかっ!」

「まあ、まあ…しかるなら、社禝に文句を言え。あれは不可抗力だ。何人かなげだされたものだっているはずだ」


 横から晁衡がなだめ苦笑する。


「それに弘純どのも投げ出されたくせに…」

「ちがう! 弘佐が落ちたのを知って助けたんだ!」

「そういうことにしておこう」

 嗤い、さらりと聞き流す。


「そういえば、香霄は?」


 弘佐はハッとあたりを見渡す。けれど姿が見あたらない。

 あのとき彼女は疲れて、立っているのもやっとの様子だった。

 そして力をふりしぼるように風を呼んだ。


「まさか……香霄は」


「そう心配しなくてもいい。社禝は力を取り戻すためにどこかにある廟に、もどったのだろう?」

 弘佐の心情きもちをしってか晁衡は告げる。


「廟、に……」


「それより社禝のおかげでもうすぐで陸がみえてくる」

 弘佐は、上体を起こして故郷をみつめた。


 杭州。


 陸をみて安堵と、そしてなぜか不安がこみ上げた。

 あの海面が映し出した不思議な光景。

 あれは夢だったのだろうか?


 違う、夢じゃない。


 香霄は呉越の社禝かみで、銭鏐の願いを叶えるために側いた。

 これからも彼女は呉越王となる者の願いを叶えるために傍にいてくれるかもしれない。

 鼓動が耳をうち、弘佐はハッと胸元をつかむ。


 どうして、こんなに胸が高鳴る?


 香霄が神で願いを叶えてくれる存在だと知ったと同時に……。


「弘佐どの」


 肩に晁衡の手が置かれて、ハッと彼を振り返る。

 晁衡のその顔は真剣で思わず息を飲む。

「あなたは神の助けがあって再び大陸に戻る。それは定められた天命かもしれない。

 しかしこの先、なにがあっても、香霄に願いを告げてはいけない。自分の心のなかにとどめておきなさい」


「それはどういう意味ですか?」


「あれは代償を求めるものだ、」


「代償を?」

「神が無償で何かをかなえるとお思いか?

 自分の力でなし得ず、神にかなえて貰った願いにはかならず、〈大きな代償〉がともなうという」


 その言葉に鼓動が静まるのを知った。


(そうか、何を叶えてもらおうと期待したから、か)


 そうだ、自分の願望は己の手でつかみ取るもの。


 香霄に叶えてもらうものじゃない。


(本当の願いは心の中に)


 弘佐はその言葉を強く胸に刻んだ。



        3


「兄上!」


 弘宗は兄の帰還をしり、太医や侍従の静止を無視して弘佐のもとに駆けつけた。

 身体は動くだけで鈍い痛みが襲い繰る。

 けれど、弘佐あにの姿を目にとめて痛みなど消え去った。


      ★ ☆ ★


 弘宗は突然駆けだした弘佐の姿を一生懸命に追った。


「兄上、待ってください、——!」

 けれど兄が横合いから伸びた腕にとらえられたのを目撃し青ざめ、同時に鈍い痛みが腹部に走った。

 人にぶつかった時、匕首を刺された。


「兄…上」


 激痛に倒れて、闇に沈む視界がふたたび光をとらえたのはそれから丸一日。

 かすむ視界が高い天井を映し、そして心配そうにのぞき込む、母と一歳年下の弟・弘俶——文徳の顔をとらえる。

 しばらく意識が朦朧とし、状況がわかなくて、順を追って記憶を辿り、行き着いたのは兄の行方。


「兄上は!」


 叫ぶように訊ねると、母は弘佐の行方を捜させていると告げた。

 しかし、母は弘佐を邪魔な存在だとおもっている。


 たった二、三ヶ月しか違わぬのに自分が生んだ息子が太子にはなれないと言うことで。


 弘宗は弘佐をとても敬愛して慕っている。

 兄を悪く言うものは例え母でも許さない。


 もしかしたら弘佐の行方を捜し、見つけ次第、殺すつもりだろうか?


 まさか、と思うが内心、気が気ではなく兄が無事であるように…としか祈れない自分が悔しかった。

 そして弘佐が行方をくらませて数日。

 その間、父王の体調が悪化した。


 いままで熱にうなされながらも意識をたもっていた父王は呼んでも気づかなくなった。


 王が危篤で、その上、太子が行方不明。


 このまま王が倒れ、弘佐の行方が(つい)ぞ捜し出せなかったら、弘宗が呉越王を嗣ぐことになる。


「兄上……、どうかご無事で」


 そう強く祈らない日はない。

 自分の夢は、兄を支え民が安らげる国をともに創ること。

 兄上なしでは私の夢もない。

 明確な構想と熱い思いを持つ兄を補佐することこそ自分の描く道。


「兄上、ご無事で」


 なんど口を吐いたかわからない祈りを呟いたとき、

「隆道兄上!」

 突然、弘俶があわてて室にはいってきた。

「文徳、なにをそうあわてて、まさか兄上が!」

 弘俶は「はい、」と涙をうかべてうなずき、

「いまお戻りになって! ともの者も一緒に!」

 ともの者、というのが気になるが、とにかく兄が無事に帰ってきたことに安堵し、じわりと心がしびれ、涙になってあふれるのを、拳でぬぐって寝台から身体を起こした。


 弘俶は弘宗に肩をかして、ともに弘佐を迎えにいく。


 背後で「どうか安静に!」という声がかかったが、兄を思う弟たちはその声を無視し急いだ。


「痛みますか、隆道兄上?」


 身をかがめるようにして歩く弘倧を心配して弘俶は訊ねる。

 ニッ、と弘宗は笑う。

「大丈夫だ、文徳。たいした傷ではない。それに兄上を心配させたくないから……」

「ではせめて袍を羽織ってくるべきでしたね。ねまきのままでは示しがつきませんよ。

 でもすこしは玄佑兄上にも心配をさせるべきです。ぼくは隆道兄上がどんなに玄佑兄上を心配なさっていたか……みてきてつらかったんですから」

「そうだな」

 くすりと苦笑し、引っかかっていた言葉をおもいだす。

「文徳、ともの者、とはどういうことだ?」

「え? 玄佑兄上の側近のものでしょう?」

「?」

 弘宗は首をかしげた。

 なおさらわけが解らない。

 弘佐はひとり『さらわれた』のだ。

 供を連れて行けたはずがない。


(兄上と親しい近衛が探し出したというわけか?)


        4


「兄上!」

「隆道、文徳!」


 臣下たちに囲まれる弘佐は弟たちに呼ばれて、振り返りふたりの元にかけた。


「すまない、心配をかけたな。隆道は刺されたときいたが、大事ないか?」

「ええ、経過は良いそうです。それに私は兄上が無事ならそれでいいのです」


 瞳を潤るませて弘宗はいい、ハッ、と弘佐をうかがう。

「兄上は? どこか怪我とかしておりませんか? あ…、ただ服装がかわっているだけですね?」


「これか?」


 弘佐はきている服『狩衣』をつまむ。

 弘佐がいま身につけているのは日本の服装だ。

 晁衡が着ているのと同じもの。

 ちゃんとした服も用意されていたが、晁衡が着ているものが珍しくて少し着てみたかった。


(めったに着られるものでもなさそうだったから)


 ただし、ここに来てからは念のため上に袍をはおってきてきたが。


「おい、兄弟感動の再会はいいが、弘佐、はやく着替えて父王とあったほうがいいんじゃないか?」


 突然頭上から太く透る声が落ちてきて弘倧と弘俶はハッとし、

「兄上に対してなんと無礼な……」

 しかし弘宗は言葉をつぐことができなくなった。

 袍服をまとって、髪を無造作に巾に包んでいる長身で若い男は父王にそっくりだったからだ。


「久しぶりだな、二人とも」


 悪童めいた笑みを浮かべる弘純。

 その背後には異国の男も苦笑をうかべている——晁衡だ。


 じつは晁衡が〈大規模な術〉をかけてあやしまれることなく宮城内部に潜入できるようにしたのだ。

「あなたは…?」

 呆然とする弟二人に、兄二人は苦笑を禁じ得ない。

「このかたは弘環兄上だ」

「こ、弘環兄上!」

 弘宗は予想通り驚愕をうかべたが、弘俶は不思議そうに首をかしげているだけだった。

 むりもない、弘俶はまだもの心のつかない赤ん坊だったのだから。


        5


「これも御仏の導きなのでしょう」


 弘宗は、弘佐と弘純がどのように出逢ったのか説明をうけて、複雑な表情でしみじみ頷いた。

 説明といっても香霄のことをうまく省いて話したが——しかし、この話だけでは疑い深い弘宗は信じないと弘純はおもって今まで持てあまして売ってしまおうとも思ったが、なぜか手放せなかった印綬をふたりに示した。

 それでなんとか信じてはもらえたが。


「大兄上はどうして王宮に? ——まさか王位を狙って?」


 弘純は鼻でわらって、荒く弘宗の頭をなぜていう。

「ああ、心配しなくともいい。俺は行方不明になって死んだことになってるだろうし、いまさら陸で暮らそうとはおもってない。 ましてや王位なんて。——ただ、どうして父王が、俺を殺そうとしたのかを正確なところを知りたくて……」

 そこで、ハッと口を押さえる。

 口をすべらせてしまった。

 弘宗はその言葉の意味を聡くとらえて大きく目を瞠る。


「殺そうした? 父王が大兄上を殺そうとなさったのですか!  では今回の一件、玄佑兄上を殺そうとしたのも……、父王…」


「隆道、文徳。私はこれから弘純兄上を伴って父王のもとにいく。 心配をかけてしまったし、父王も大火のあと私の行方がしれなくなって気が気じゃなかったかもしれない、お心にご負担をかけたとおもう」


「兄上、父王は兄上を亡き者にしようとなさったんですよ、どうしてそう善意的にとることができるんですか!」

 弘宗は弘佐の肩を掴んで行かせまいとするが、弘佐は優しくその手をはずす。


「行かなくてはいけないんだ。国を『嗣ぐ』ために」


「兄上……」

 弘佐は颯爽と回廊をいく。

 父のもとにつながる回廊を。

  

      ★ ☆ ★


 どこからか風が吹き、優しく元權の頬をなぜた。


 訣別だというように。名残欲しく。

 それと同時に、侍従が弘佐の訪れを告げた。


「弘佐……か、」


 元權は皆に下がるようにいい、弘佐と二人だけにするよう命じる。

 弘佐は死ななかった。

 ならばここで己の天命が尽きる。


(父と同じように息子に王の宣下すれば終わる)


 終わるが……。


「父王、ご心配をおかけして申し訳ございません」

「いいや、お前さえ無事ならそれでいい……」

 重く、思う通りに動かない手をあげて息子の頬にあてる。

 しらじらしい、と思うも、本当の気持ちだ。


 なぜかホッとしている。


 弘佐はハッと、目を瞠り、手に手をそえて、つよく頬に押しつけた。

 父子の情が温かい、胸を切なく苦しくさせたがしばらくして、弘佐はゆっくりと手を戻し告げる。

「父王に紹介したき者がございます」

 弘佐の数歩後れて膝をつく者をしめす。


「我が兄、弘環です」


 元權はその名を耳にして目を大きくみはり、青年を凝視する。

 かすれる視界に若かりし頃の自分がいた。


「まさ、か」


「……お久しぶりです、父王。この弘環、そして弘佐もあなたの暗殺の手を逃れて無事に生きて戻りました」

 タンとした、抑揚のない強い声がそう告げる。怒りを抑えた声音こわねだ。

「どうしてお前が、ここに?」

「どうして?  それは私のセリフです父王、どうして私たちを殺そうとしたのか」

 元瓘は怪訝に眉をしかめるが、あきらめたように一つ大きなため息を吐く。

「死にたくなかったからだ」

「どういうことです?」

「お前たちは……香霄を視た。彼女はこの国の王を選ぶ社禝だ。 彼女が見える者はこの国の王となる。

 私は怖かった、香霄が他の者に見えるのが……私が香霄を視えるようになって父王は数年のうちに死んだ。

 しかし私は死にたくはない、だから視えるものを殺すのが一番だと考えた。さすれば私はずっと王でいられる」

「ただ、そのためにっ! あなたは息子をも殺せるのか!」

 弘純は怒りにかられ父王の胸ぐらをつかもうと手を伸ばすが、弘佐がその手を包みこむように押さえ込る。


「父王はもう、私たちを瞳に映していない」


「え?」

 弘純は父の瞳をハッとしてみつめる。

 死の淵をさまよう顔は血の気がなく、虚空を映す瞳はうつろ。

 ただ動くのは想いを告げる唇だけだ。


「けれど、違った。香霄が次の王を選ぶから死ぬのではない。社禝に『願った』から予は死ぬのだ」


「香霄に願ったから、死ぬ?」

 弘佐はどきりとして訊いた。

 脳裏に晁衡の言葉を思い出したからだ。

 

『神が無償で何かをかなえるとお思いか? 自分の力でなし得ず、神にかなえて貰った願いにはかならず、〈大きな代償〉がともなうということだ』


(父王は香霄に願ったから死に逝くのか?)


 願いの代償として。

 弘佐は固唾をのんで、訊いた。


「父王は、香霄になにを望んだのですか?」


「……、変えたいと」


 こころなしか、元權の青い唇がほころんだ。

「欲望を打ち消したいと。

 結果、大火がおきて、栄華を極めた宮殿が燃えた……」


 民を顧みず、自分の欲望をもとめ、建てたあの壮麗な宮殿を、都を。


 ——しかし、その根本にあるのは、もっと違う願いでささやかなものだったが。


「じゃあ、あの大火は父王が願った結果だったのか…っ」

 弘佐の声は怒りに震えていた。

 だかもう顔は見えない。

「弘佐よ、もう、予はつかれた……」

 元瓘は何もうつさない目をとじ、大きく息を吸う。


 先王の臨終さいごの時を思い出す。


 あのとき、元權は先王の死を心待ちにしていた。

 父に付き従い、乱世をかけぬて国を築いた——英傑が死ぬのは悲しかったが、しかし臨終の際は泣きはしなかったのだ。


 むしろ、父が長年築いたものが簡単に手にはいるとおもうと嬉しかった。

 父の側にいつも付き添っていた女神が手にはいるのだとおもうと。


 この息子はどのような顔をして自分をみているのだろう?

 香霄のことはすでに知っているはずだ。

 弘佐も香霄を望むときがくるのだろうか?


 それが〈望み〉となるのだろうか。


「父王は、愚かだ」

 そのつぶやきとともに熱い涙が元瓘の頬におちた。

 元權は口元に笑みを刻み宣下した。


「銭弘佐、お前に国を託す」


 元權は金木犀の香りを乗せた心地よい風を感じながら逝った。


        6


「俺は、別に父王の死を看取るためではなくて、弘佐の護衛をかねてつきそったつもりだったんだがな……抜け目のない父だから最期に何かあると踏んでいたのに、でも最期は親子の情……やっぱり最期までなにを考えているかわからなかった」


 弘純は満月をみつめながら、そばにいる晁衡に告げた。

 彼は杯に月を映しつつ「そうか」と頷く。


 晁衡と弘純は王宮の院庭にわが望める一室を一時貸してもらっていた。


 ——中秋の満月、そして咲き誇る金木犀の花。


 遠くとどろくは、銭塘江の満ち潮が激しくぶつかり合う音だ。


 海上で満月を望むのも、日本のススキ野原でこぼれ落ちるような月を愛でるのも捨てがたいが、この風情はなかなか味わえないだろう。


「俺は……一度死んだと、思っていた」


 あの蒼海のただなかに。

 ——そして藤原純友に拾われた時点で自分は日本人に生まれ変わったのだと、おもっていた。

 けれど、ここに帰ってきて死んだはずの自分がまだ生きていることをしった。


 父を憎いと思う気持ち、大切な兄弟を思う気持ち、そして国が好きだと思う気持ち、様々に掘り返される。


「父王は愚かだと、弘佐は言った。ほんとうに愚かだ。大火を起こさずとも心を入れ替えて、自分のためではなく民のために尽力すればよかったんだ。——弘佐に託されたのは焦土と化した都と狡猾な官吏ども、楽園どころか地獄だ」

 ぐい、と杯をあける。

「願えばいいではないか、香霄に。楽園を創りたいから少し、手をかしてくれと」

「願えば弘佐は死ぬ」

「じゃあ、言い方をかえればいいのだ、頼んでいると」


「同じことだろう、本当に口が減らないな、晴明はるあきよ」


 晁衡は、フッ、と口元を綻ばせた。

 そして窺うように弘純に訊ねる。

「しかし、いいのか。明日、弟たちに内緒でこの国を出るんだろう。日本にお前の居場所はない」


「だれが日本に帰るといった? 他国を見て歩くんだよ。……まあ朝廷にほんが大陸ここまで追補派遣するとはまず考えられんが、……巨海にでることは禁忌だからな」


「見聞と称して弘佐どのに他国の状況をおしえてやろうという魂胆だな?」


 弘純は笑った。

「俺にできるのはこのぐらいだ。それにそう簡単にお前を日本に帰さない。道連れだ」

「願ったりかなったりだな」


 晁衡……安倍晴明あべのはるあきにとって日本はつまらないところだった。


 貴族は繁栄を謳歌し、しかし反面、心の闇に怯えている。


 民は貴族の際限のない搾取に餓えて拓く力を見いだせずに死んでいくというのに。


 恵まれた者ほど未来を拓こうとしないで、自分の心が生んだ闇やみに怯えて。

 晴明は生まれつき人の生き死にを知ることができた。

 だから、見たことを話せば、安堵したり怯えたり、絶望したり……そしてどうしたらいいとすがりつく。


 その手が重くて痛い、何とかしてくれと、運命を託されたようで。


「自分で考えろ!」と、晴明は叫び、それらの手をはらった。

 運命は自分の行いでかわるモノなのだから。


(どこか、遠くに、そう大陸に渡ろう。そうもっと広大な世界をみてみたい)


 しかし思っているだけでは貴族となんらかわりようがない。

 ならば行動あるのみ。

 だから、あの乱——弘純が重傷を負ったとき、助けてやったのだ。

 この者はきっと、自分を狭きところからだしてくれると確信して。



 しかし、長い旅になりそうだ。



 これもまた運命なのだろう。


 晴明はこぼれ落ちそうな輝きを放つ満月を見つめ、つと和歌を口ずさむ。



「あまのはら ふりさけみれば 春日なる、三笠の山にいでし月かも、か……」



 通り名でつかっている『晁衡』は、遣唐使として大陸にわたり終ぞ日本に帰ってこれなかった安倍仲麻呂あべのなかまろの中国名だ。


 その名を自分が名乗っているのも気まぐれではないきがした。



ご指摘分直しました! ありがとうございます!

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