第一章・夢想
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1
炎が大地を舐る。
悲鳴や断末魔、建物が焔に包まれ崩れる音が耳を貫き、熱風が吹きつけた。
空は黒煙につつまれ、炎の波がまた街を飲み込む。
弘佐は空を見上げ、
ここから始まる。
そう呟いた。
姓は銭、名は弘佐、字は玄祐。十三歳の少年。呉越王の息子、太子である。
いま、その秀麗な面には笑みを刻んでいた。
皆は恐怖におそれおののいて我先にと、人を押し退けて避難する中、弘佐は一人立ち止りその光景を瞳に、そして胸に刻む。
炎への恐れはない。
むしろ勢いよく燃え上がる炎は爽快だ。
父が望んで建てた宮殿が真っ赤に燃える。
一時しか満たない私欲など燃えてしまえばいい。
任侠上がりの銭鏐が、後梁皇帝・朱全忠より爵位をうけ、故郷の地で建国したのがこの呉越。
首都は杭州、秋には金木犀の黄色い花が散り、甘い香りを放つ街道となる。
そして冬には温暖の土地には珍しく雪が降り積もり白銀の大地となった。
二つの江に挟まれ、大地は潤い、船による文化交流などが盛んであったが、それは王のまわりだけで呉越の民たちは重税を強いられ苦しんでいた。
けれど、この大火。
呉越王、父の欲望も炎に飲まれて消える。
「兄上!」
弘佐は呼ばれてハッと我に返った。
炎に見入られていたせいか、風向きが変わり火の手がすぐそこまできていることに気づかなかった。
弟の弘宗(字は隆道)が息を切り、駆け寄る。
袍を汚して髪も乱みだし、表情は不安にゆらいでいたが、弘佐を見つけて安堵する。
二ヵ月違いの異母弟は常に弘佐と一緒にいる。けれどこの大火で兄がはぐれたと知り必死に探していたにちがいない。
「探しましたよ兄上、さあ早く」
「ああ……!」
二人は火の粉まう道を避難場所を目指し駆ける。
突然、不吉な音が耳をさき、炎に巻かれた瓦が弘宗の上に降り注ぐ。
「隆道、危ない!」
弘佐は悲鳴じみた声をあげて弟を突き飛ばした。
「兄上!」
弘佐は覚悟してきつく目をつぶる。
けれど、熱は降り注がない。
(え?)
恐る恐る目をあけてみると弘佐の上に降り
注ぐはずだった瓦がパラパラと粉となって散っていた。
「早く逃げなさい。あなたはここで死ぬべきじゃない」
ハッと声をたどって見上げる。
そこには十五、六歳の金の髪を有す少女が空に浮いていた。
薄桃の袖の長い外套に、白を基調にした袷、襞がたくさんついた裳……まるで華のような少女だ。
少女の碧い瞳が弘佐を映す。
どこか愛おしげに。
「……君が、助けてくれたのか?」
「ええ」
少女は微笑み、道を指し示す。
そこは青く閑散とした火の手の及ばない道だ。
後方では焔に包まれ赤い世界が広がっているのに、なぜ?
「今のうちよ、はやく」
弘佐は不思議に思いつつ弘宗に無事をつげた。
弘宗も驚いているようだったが、ホッと息をつく。
「よかった……きっと御仏の加護が兄上には
おありなのでしょう」
「いいや、あの少女が……」
「少女?」
「不思議な力で私を助けてくれた……」
「瓦が突然、粉と化したのは目撃しましたが、兄上のおっしゃる少女はみえませぬ」
「……え?」
「そんなことより早く逃げましょう、御仏の加護があるうちに!」
弘佐はもう一度振り返る、しかしあの少女の姿はもうない。
(あの少女は一体何者なんだろう?)
疑問におもいながら弘佐は弘宗の後をおった。
天福六年(九四一年)『原因不明』の大火により杭州の街はほとんど焦土と化し、無事に避難した呉越王も望んで建てた宮殿が焼失し、それに衝撃をうけ病に倒れてしまった。
2
杭州の街に焦土の匂いを伴って夏の風がわたる。
大火の後なので足取りと市の雰囲気ふんいきは暗くピリピリしていたが、張りのある呼び子の声。
こころを慰めようとする旅芸人たちのおかげで少しは明るくなっているようだ。
「はぐれないでくださいよ、兄上」
「それはこっちのせりふだ、隆道」
少年ふたり、人をぬってようやくとなりに並ぶ。
ふたりとも薄汚れた衣服を身にまとい、無造作に髪をまとめ、泥どろで頬を汚していた。
一見、孤児の少年にしかみえない。
誰も呉越王の子息、弘佐と弘宗だと言い当てるものはいないだろう。
ふたりはお忍びで焦土と化した街まできていた。最初は弘佐ひとりで皆に知られずにいこうとしていが、
「兄上一人だと心配ですからね」
と、さっそく民に身をやつした弘宗が待ち伏せしていたのだ。
弘佐はちらりと道端を見やる。
そこには自分と同い年ぐらいの……いや自分より幼い子供が物乞いをしていた。
骨と皮だけの手がのび、しかし、その瞳はうつろで未来を映していない。
混沌として虚ろだった。
「兄上」
ぴしゃり、といさめられて弘佐はハッ、とする。
しらず、足を子供の元に向けていた。
弘宗は手をひいてかぶりをふる。
「相手にしてはいけません、気持ちはわかりますが、けれど…施しはほかの者をよびます」
「わかってる」
弘佐は固い拳を作った。
一方、弘宗は唇をかみしめうつむく。
その顔色は暗い。
「隆道?」
「……私は、どれだけ自分が甘く生きてきたか痛感しています。命じればなんでも手に入る。そう当たり前になっていたようです」
涙をグッ、とつよく拳で拭う。
「民たちは一日の食事にも苦労し、働き口にもなかなかありつけず、私達たちと同い年ぐらいの子供などは孤児として物乞いをせねば生きていけない。そして、大火がおきてなお途方にくれる人々が増えた。元凶は父王です。父王があの宮殿をたて、民をさらに苦しめた。だから天罰がくだって大火がおきたに違いないのです!」
「隆道……」
弘佐は弘宗の震える背中を撫ぜた。
同じ感想を抱いていることが嬉しい。
あの宮殿が炎に見えるのは心がすいたのは否めないが、同時に 家を失って途方にくれる者、ひどい火傷をおって泣き叫ぶ声、もっとも燃え盛る大火の中からの断末魔は二度と聴きたくない、そして繰り返してはいけない。
「そうならないように、私達がなんとかしよう。そうだな…だれもが幸せにくらせる〈この世の楽園〉をつくろうか」
「〈この世の楽園〉?」
「戦がなくて飢えのない…みんな微笑んでいられる国だ……隆道、私は必ずこの国を地上の楽園にしてみせる。手伝ってくれるか?」
「もちろん。兄上のために私は全力を尽くしましょう」
弘宗は真剣に頷き、拱手をした。
「よろしく頼むな」
「そういえば、兄上。あの大火で少女をみたとおしゃってましたよね」
弘宗は話題をかえてたずねる。
「昔、兄上が同じようなことを仰っていたのを思い出しました」
「……え?」
弘宗はくすくすとわらって、
「殺されかけたというのに『だれか金木犀の精を見なかったか?』としつこく私や弟妹たちに訊きまわってたじゃありませんか」
「金木犀の精……」
弘佐はハッと思い出す。
数年前のことだったか、侍女が弘佐を刺殺そうとしたことがあった。
けれどそのとき、弘佐はその衝撃よりも、違うものに心を奪われていた。
(そう……金木犀の精霊に)
だから皆にしつこくききまわった。
「だれか、金木犀の精霊をみなかったか?」と。
けれど皆は「知らない」と首を振るだけで……。
幻だったのかと、内心とても落ち込み、大きなため息をついたけど。
でもただ一人、渋い顔をした人物がいた。
それは父王だ。
「知っている」とも「知らない」ともいわなかった。
ただ複雑に笑っていた。
もしかしたらご存じなのかもしれない。
それを裏付ける記憶がよみがえる。
ある夜、眠れず院庭を歩いていたら父上の懇願する声を聴いた。
誰かを呼ぶ、懇願。
青白い月光に照らされた中庭。
そこに父王が金木犀に向かってだれかの名を呼びつづけていた。
(あまりにも悲痛で……)
だからそれ以上、聴いてはいけないような気がしてそっと部屋に戻ったけれど。
「……もしかしたら金木犀の精霊となにか関係があるのかもしれない」
そう呟いたとき、ふと、弘佐の視界に一人の少女が映った。
「あれは——!」
「兄上?!」
弘宗の呼び止める声を無視して弘佐は駆けだした。
間違えるはずはない。
金の髪、薄桃の外套…。
あのとき助けてくれた少女だ。
「まっ、」
弘佐は声をかけようとした刹那、背後から伸びた手に口をふさがれ、横道に連れ込まれた。
おどろいて仰ぎ見ると黒ずくめの男がにやりと笑った。
急に眠気が襲う。
手巾に眠り薬が含まれていた。
3
宮殿の院庭に、あまい金木犀の香りが満ちていた。
どれも美しく咲き誇り、私は香りに誘われるように庭におりる。
そして中でいちばん黄色く咲き誇っている金木犀のそばに一人の少女が座っていのに気づいた。
金髪碧眼、黄色を基調にした衣裳を身に纏っていて……。
花の、金木犀の化身だと思い、興味がわいて傍にそっとしのびよるとその少女は泣いていた。
「どうして泣いてるの?」
そう訊くと、少女はおどろいていたようだけれど柔らかく微笑む。
その笑顔がすごく美しくて、私はしらず、胸の衣を掴んでいた。
「泣いてないよ。……欠伸したら涙がでちゃっただけ」
「うそだ」
「うそじゃ、ないわ」
「……どうして泣いていたの?」
「だから……」
私はじっと彼女の碧い瞳を見つづけた。
すると彼女は、ため息を吐いて、
「あなたのお母様のもっているあの玉牡丹の花弁、あるでしょ?」
思いついて私はうなずく。
母上がとても大切にしている、白玉で出来た美しく上質な髪飾り。
とても嬉しそうに父にもらったのだといっていた。
(あれだろうか?)
「本当は私がもらったはずなのに、私は普通の人には姿が見えないから。取られてしまったの……。まあ、しょうがないのだけど」
また一筋、涙が頬を伝う。
「泣かないで!」
私はあわててその涙を袖で拭った。
「私が、……私がもっといいものをあげるから泣かないで」
「無理だわ」
「無理じゃない!」
彼女は目をしばたたいてくすりと笑った。
「わかった、もう泣かないわ。あなたが私にいいものをくれる日を待っている。慰めてくれてありがとうね」
優しく、柔らかい手が頬に触れ、ドキドキと胸が高鳴る。
鼓動がきかれないように、きかれていませんように……。
「あなたは、なにものなの?」
かろうじて、そう訊ねることができた。
「私は……人ではないの」
「じゃあ、やっぱり〈金木犀の精霊〉なの?」
「フフッ、そうよ、いつかあなたの願いを叶えてあげる。それまであなたの記憶のすみに……」
いきなり突風が吹き、地面に散っていた小花が舞い上がる。
「わぁ!」
その風の強さにおどろいて私は顔を覆う。
けれどその風が空に帰ったと同時にどさりと、倒れる音が後方にあがった。
ふりむくと、侍女が匕首を握ったまま、白目を向き、青い唇には一筋の赤い血を流して仰向けにたおれていた。
もしかして、あの金木犀の精霊が私を助けてくれたのだろうか?
(それとも……)
私は雲一つない青い空をみあげた。
「――…っ」
夢から醒めると、そこは宮殿の院庭ではなく、薄暗い……見覚えのない部屋に弘佐は寝かされていた。
頭痛がするし、当て身もくらったのか腹部が鈍く響く。
さすろうにも両手足を縛られていて、どうにもならない。
――どうして、こんなところに、
「……そういえば、あの黒ずくめの男に手巾を…あれに眠り薬がしこまれていたのだろうか」
ずっとつけられていたのか、それともただたんに、人さらいにあったのだろうか。
どちらにしても油断をしていた自分を恥じずにはいられない。
「不覚、だったな」
自嘲ぎみに呟くのと同時に、複数の足音をとらえ弘佐はとっさに気絶しているふりをした。
「太子の具合はどうだ?」
暗い部屋に開け放たれた分だけの光が差し込む。
「まだ意識を取り戻されていないようだな」
「少々つよい薬を使いましたので……」
聞き覚えのある声だ。父の近臣だろうか?
「王も気が触れておる。自分の息子を殺せとは……、狂ったように、私に元祐さまを殺せと申されて。ま……あの方が王になられると少々操りにくい」
(私を殺したがっている? 父王が?)
「幸い、二人だけでお忍びをしてくれたおかげで楽に捕らえることができたが……隆道さまのほうはどうだ?」
(……隆道? 弟がどうしたのだろう……)
「……はっ、警護のものが二人のあとを密かにつけていたらしく、応急処置を施されたのちに宮殿へ。命に別状はないと言うこと。弘佐さまについては捜索隊がうごいておりますが……」
「はやく手を打たなくてはな、ここを探られたら厄介だ」
「毒を用意させましょうか?」
「それがいい、なるべく苦しませぬようにな……」
ふたりはその場から離れていった。
それはきっと毒殺の準備をするためだろう。
「冗談じゃない、そうやすやすと殺されてたまるか! なんとかここから逃げださなくては、クッ!」
どうにか縄をはずせないかと身じろぎをするが、しかし身じろぎするほどきつく縛られていく。
「くそ……っ」
そのとき、プツン…と、突然、戒めがとけた。
「え?」
不思議におもい、青紫色の痕がついた手首をさすりながら造作なくとけた縄をみつめる。
鋭い刃物はもので切られたような縄の切り口。
「とにかく。これでなんとかなる」
そう、少なくとも毒殺の可能性はなくなった。
5
弘佐は人に注意しつつ棟をでると、そこは広い邸宅の院庭。
天には白い月が高く上がっている。
広く凝った庭で大きな蓮池に奇岩の浮島がありそして幾つかの亭がある。
しかし、すべては薄闇、紺色の影がおとされて色彩はうかがえない。
「……でも、焦土の匂いが届くということは杭州からあまり遠く離れていないという
ことだろうか?」
ならばなんとか、離宮に戻れるかもしれない。
慎重に出口を探すけれど、どこも衛兵が見回って、そしてだんだんと辺りが騒がしくなった。
「なんだ、なにかあったのか?」
「賊が侵入したらしい!」
(賊扱い?)
どっちが賊だろう、太子を誘拐し殺害しようとしたものこそ、賊だろうに。
弘佐は苦笑をうかべながら、どう脱出しようが考える。
もし主犯格だけが弘佐の暗殺計画に携わっているならば、逆に身分を証明して奴らを追捕できるかもしれない。
本当に淡い期待だが。
弘佐は懐を探り舌打ちをする。
念のため身分を証明する印綬をもっていたが奪われていた。
「……こうなったら強行突破しかないか?」
「こっちよ」
「!」
突然、わいた声におどろいて振り向く。
そこには、
「金木犀の精霊!」
少女はシッ、と静にと合図し、微笑む。
「また会えたわね、弘佐」
「どうしてここに……」
「逃げたいならこっちに来て。死にたいならべつに構わないけど?」
「死ぬものか」
「ならこっち」
「あなたは……この邸のものか?」
「まさか」
少女はくすりと笑い、
「あなたの味方よ」
そういう。
「……答えになってない……」
だが、なんとなく納得してしまう。
導かれるままに行くと裏口を見つけた。
遠くに視線を馳せる、そこには闇の帳を裂く灯、不夜城が。
そこが離宮だとすれば近い。
「助かった……」
「まだよ、弘佐」
「え?」
「殺してもいい、決して外に逃がすな!」
ヒュッ……と矢が空を裂き頬を掠めた。
殺気と殺されるかもしれないという恐怖に総毛だつ。
しかし、ここで死ぬわけにはいかない。
弘佐は全力で駆ける。
何としてでも生きて、自分の夢を叶えなければならない。
(この世の楽園をつくる)
それが弘佐の夢であり、大望。
大唐帝国が滅んで幾十年、自分が生まれたときから乱世。
華北の朝廷は謀叛、弑逆が絶えず民の安らげる土地などない、地獄。
華南も例外ではない。十の国が王、又は帝を名乗って凌ぎを削り戦を起こす。
いまこの世には本当に民の安らぐ土地などない。
だからなおさら楽園を作りたい。平和な土地を、国を!
「つっ!」
矢が肩に突き刺さり激しい痛みが全身を巡る。
弘佐は激痛に足が竦みその場にたおれるが、それが幸いし、頭上に無数の矢が通りすぎた。
……死ぬものか。
弘佐は歯をギリッとかみしめ、大地に爪をたて、再び力つよく走り出す。
「狙え!」
弓弦がギリギリとしぼられ、矢が自分にむけられるのをしる。
今度こそ、ダメかもしれない。
「あきらめない、あなたが好きよ」
(いつの間に先にきていたのだろう?)
彼女は強い微笑みを唇に刻み、小さく呪文を唱える。
そのきいたこともない呪文は縷々とあたりに響き、突風が香霄の指先から生まれ吹く。放たれた矢は軌道を逸れて放った主に返っていった。
「ぐはっ……!」
「ぎゃあ!」
そして、次々と私兵たちは断末魔をあげ、倒れて逝く。
弘佐は少女をまじまじと見つめた。
勝ち誇った顔を。
一体、この少女はなにものなのだろう?
何度も私を救ってくれて、助けてくれる。
そして、なぜか泣きたいほど懐かしい。
そういえば、もう泣くことはなくなっただろうか……。
ふと、そんなことをおもって月明かりに青白く映える少女の顔をみつめる。
少女は弘佐の視線に気づきにこりと微笑むけれどすぐに真剣な表情をつくり、弘佐のもとにかけよる。
「弘佐、傷がすごいっ!」
「え……?」
肩口が鮮血に染まって、じっとりと服を濡らしていた。
それを見たせいか急に痛みが蘇り、フッと一瞬、気が遠くなりかけるが必死に意識を握る。
けれど身体のほうがいうことをきいてくれず、痛みにたえきれない。
足がすくみ、弘佐は少女の膝に身体を預ける。
「死ぬのかな……私は」
「死にはしないわ。それにあなた、私にあの玉牡丹よりいいものをくれるって約束したわよね」
金木犀の精霊はあの時と変わらない笑みをむけた。
弘佐は嬉しくなる。
「覚えていてくれたのか?」
「そうよ」
「金木犀の精霊よ……名は?」
「香霄」
「香霄……」
「しばらく、眠りなさい」
そういい、弘佐の瞼を優しくなぜた。
一生懸命意識を握っていたのに、そのやさしい手の温もりが弘佐を眠りへと誘っていった。
6
「良くがんばったわね」
香霄は気を失った弘佐にねぎらいの言葉をかけ、あたりを見回す。
追ってくる気配はない。
当たり前だ。弘佐に危害を加える者をすべて殺したのだから。
「さて、ここにこうしておいてもまた誰かくるだろうし、傷は治したからいいとして……どうしたものかな?」
香霄が思案していると突然、草むらが、ガサリ、と動いてひとりの男が姿を現した。
香霄は思わず身構える。
人の身なりをしているが、どこか違和感というか、自分と似た、、気配、を持っている。
男は異国の白い服を身にまとい、漆黒の長髪を赤い組紐で結んでいる。
容貌は端整だが切れ長な目尻が印象的で、飄々としたものを感じさせる。
あきらかに大陸の者ではない。
「……お主は……社禝(土地神)か?」
「え?」
「おどろくことはない。……私の母が似たようなものでな。私は……、そうだな、晁衡と名のっておこうかな?」
「晁衡……」
「そなたの名を訊きたい」
「……香霄。この地の、社禝」
「やはりな」
晁衡は香霄の正体をいいあてたことに満足して、笑みを浮かべると倒れている弘佐をひょい、と抱き抱えた。
香霄はハッと、晁衡をにらむ。
「なにをするつもり?」
「この少年を私に預けてみないか?
この少年は高貴な方だと存ずるし、悪いようにはしない」
彼は柔らかな微笑みを浮かべる。
香霄は信じてみることにした。
彼から悪意は感じられないし、何となく信じられる人物だと直感したからだ。
それにこれでも香霄は忙しい身。
あの人のところにいき問いたださないといけない。
「……お願いするわ、でももし弘佐を危険な目にあわせたら承知しない」
「わかった」
頷くのをみつつ、香霄は風に包まれ虚空に消えた。
7
銭元潅は懐かしい気配に目をあける。
彼女が訪れると清々しい風を感じていたが、それも久しくなかった。
元潅は首を傾ける。
寝台に横たわる自分の身体が厭わしと思ったのはこれがはじめてのことだ。
(なにもかもがだるく重い)
「……香霄いるのか」
ささやくほどの声音しかでなかったが、香霄は聴き取り頷いた。
「ええ」
「声をきくのも久しい気がする」
「わたしはずっとあなたのそばにいたのよ。
声もきこえなくなったのはあなたの欲望のせいよ」
「欲望か……フ、そなたは、それは叶えてくれはしなかったな」
「当たり前よ。私は社禝よ、土地のため、民のためになることなら叶えてあげるけどね。それ以外のことを聴く義理はない」
「そうだったかな?」
「……そうよ」
香霄はすこし後ろめたそうに答えた。
「すでに予の命が尽きている気がするのだが……」
「いいえ、まだあなたの命数は尽きてない。これはあなたが仕組んだことよ。願っておきながら生きながらえたいという浅ましい計画。だからあなたは、苦しくてももう少し生きてなくてはダメ。やり残していることがあるものね」
「……『宣下』のことか……?」
「そうよ」
「怒っているな……香霄」
「ええ。どうして弘佐を殺そうとしたの?」
「……死にたくないからだ」
「矛盾してるわ。あなたは覚悟して願ったのではないの、私に…」
「……たしかに予は願った。『変えたい』とけれどその根本にあるのはささやかなものだ」
「……」
「予は愛しいものの姿を視、声を聴きたいと、その願いの根本にはあった。だから。
原因である欲望をあの大火ですべて焼き尽くしたかった」
元潅は小さく笑い目をとじた。
「弘佐も……予と同じ運命をたどるのだろうか……」
その言葉を香霄は否定したのかもしれないが、意識は闇へと落ちていった。
★
「やっと戻ったか!」
弘純はほっと息をついて、ゆっくりとした足取りで船に近づく陰陽師に手をふった。
もう少し戻るのが遅かったらこの杭州を離れていた。
日本の伊予から首領の最期の命をうけ杭州に入港した彼らは、しばらく岸辺付近に身を潜めていた。
――しかし杭州の港街にきたときはさすがにおどろいた。
なんせ、大火が発生し天高く炎が踊り燃え広がっていたのだから。
もし、ここに弘純一行、とくに陰陽師がこの杭州に現れず、〈雨乞い〉をしなければ街はもっと損害を受けていたに違いない。
しかし、大火の後は詮索されるのをきらい、人目のつかない岩影に停泊していたのだが、今日はやけに呉越の兵士らが港周辺を嗅ぎ回る。
怪しまれるといけないので船の移動をすると決めた直後、陰陽師が何処かに姿をくらました。
置いていってもよかったのだが三ヶ月この杭州に停泊する約束だったため置いてはいけない。
――彼の性格からいって約束をやぶった者に報復するのは目に見えている。
その陰陽師がようやく戻ってきたことに安堵と苛立ちを抱いて弘純は駆け寄った。
「おい、は……」
「晁衡だ」
しら、と名の訂正をいれる。
相変わらずの陰陽師に弘純は大きくため息を吐き、恨めしげに睨めつける。
「名なんてどうでもいいだろう?」
「そうか? なら弘純どのも、『弘環』と名乗ってもいいではないのか?」
「……減らず口め」
不貞腐れて弘純はそっぽを向きかけ、晁衡がその腕に抱えている少年をみて目をみはる。
「そいつは……」
かがり火に照らされた少年の服は鮮血に濡れていた。
怪我をおっているのだろうか、――けれど案外血色はよさそうだ。
しかし、その顔……。
「お前に似ているだろう?」
晁衡はくすくすわらって見つめる。
弘純はハッと顔色をかえた。
「もしかして…おい、死にそうなのかこいつは!」
「……さあ。生き倒れてるところを拾ったまでだ」
「どうして……っ、とにかく手当てを!」
弘純は晁衡から奪うようにして弘佐を抱きかかえ船にはこぶ。
晁衡は微かに微笑んだ。
■■■
はじまりました。新シリーズ。
三国時代とはまた違った時代です。
時代背景としてはあの大唐が滅び、北方では血で血で洗う王朝変遷が繰り広げられ南方ではいくつもの国が並び立つ不思議な時代です。
呉越はそのなかの一つの国で、基本的には中央王朝を宗主国として仰ぐことで「王」と言う称号をいただいています。しかし、周りは敵国に囲まれています。
ですが、宋時代になるまで最後まで生き残る国です。
外字、おおいです(涙)
例えば弟の弘宗。
本当の字はこちら→倧(きっとPCしかみられない)
しかも三人でてくるので、代字をつかわせてもらっています。
そして、のちのち重要になってくる国の名前もでてきません。
申し訳ないですが、その時はカタガナで表現します。
PC上ではメッセージで表示します。
周瑜の娘の「大喬さん」も少しだけ参上し、かなしいEDの先も少し書いています。
もしよろしければ、最後までお付き合いください。