これ食って死ぬ
午後三時十二分。
最初に鳴ったのは、誰かのスマートフォンだった。
けれど一台ではなかった。机の上、鞄の中、スーツのポケット、制服の胸元。営業部も総務部も経理も関係なく、フロアにいる全員の端末がほとんど同時にけたたましい警報音を鳴らし始めた。
「え、なにこれ」
隣の席の佐藤さんが手を止めた。
その直後、天井のスピーカーから低く長いサイレンが流れた。避難訓練で聞くものとは違う。もっと不吉で、腹の奥を直接震わせるような音だった。
三浦真帆は入力途中だった請求書から顔を上げた。
二十六歳。事務職。丸い黒縁眼鏡。最近、会社の健康診断で去年より三キロ増えていたので一応ダイエット中だったが、昼休みにはコンビニで新作プリンを買った。
机の端で震えているスマートフォンを手に取る。
画面は真っ赤だった。
『緊急事態宣言』
その下に、政府からの通知が表示されていた。
『全国民の皆様へ。直ちに報道機関からの情報をご確認ください』
「地震?」
「揺れてなくない?」
「ミサイルじゃない?」
「戦争とか……?」
誰かが言った「戦争」という言葉だけが、不自然なくらい大きく聞こえた。
部長が無言で会議室のテレビをつけた。
普段は昼休みに天気予報か野球の結果くらいしか映さないテレビだったが、その日はどの局に変えても同じ赤い帯が画面の上に出ていた。
『全世界緊急放送』
スタジオに座ったアナウンサーは、何度も原稿へ視線を落としていた。いつもなら噛むことなどほとんどない男が、一度言葉につまり、唇を結んでから続けた。
『本日午後二時四十六分、各国宇宙機関による共同発表が行われました。現在、地球へ接近している小惑星について、軌道修正および破壊による回避は不可能であるとの最終判断が下されました』
フロアから音が消えた。
コピー機の駆動音だけが妙に耳についた。
『小惑星は、およそ二十四時間後に太平洋へ衝突すると予測されています。推定される衝突エネルギーから、地球上の生命圏は壊滅的な被害を受けるとみられています』
「……壊滅って」
誰かが呟いた。
アナウンサーは一度目を閉じた。
『政府は、現時点において有効な避難手段は存在しないと発表しています』
その一言で、誰も冗談だとは思わなくなった。
佐藤さんが口元を押さえた。
「嘘……」
男の社員が立ち上がり、何度も妻へ電話をかけ始めた。
「出ろよ……出てくれよ……!」
若い女性社員は、その場で母親へ電話をかけながら泣いていた。
「お母さん、ごめん、私……今日帰るから。絶対帰るから」
部長はテレビの前に立ったまま動かなかった。指先だけが小刻みに震えていた。
映像が海外へ切り替わる。
ローマ。
巨大な教会の前を埋め尽くすほどの人々が、石畳の上に跪いていた。老いた者も、若者も、子どもを抱いた母親もいた。数千人の信徒が胸の前で手を組み、泣きながら祈りを捧げている。
鐘が鳴っていた。
一度。
また一度。
重い音が街中へ広がっていく。
司祭が群衆の前に立ち、震える声で祈りの言葉を読み上げる。泣き崩れる女の肩を、見知らぬ男が支えていた。両手を空へ伸ばし、声を上げて神の名を呼ぶ者もいた。
誰もが、残された一日をどう受け止めればいいのか分からないようだった。
次に映ったのは中東の都市だった。
広場いっぱいに敷かれた敷物の上で、人々が一斉に地へ額をつけていた。祈りの声が重なって空へ昇っていく。泣いている人もいた。それでも列は崩れず、父親の隣で小さな少年が見よう見まねで手を合わせていた。
インドでは寺院へ続く長い列ができていた。
ニューヨークでは、道路の真ん中で抱き合う人々がいた。
ロンドンでは教会の扉が開放され、普段そこへ足を運ばない人間まで中へ詰めかけていた。
ソウルでは、何千人もの人が家族のもとへ帰ろうと駅へ押し寄せていた。
フランスでは、恋人同士が街角で泣きながら口づけを交わしていた。
世界中の人間が、死ぬ準備をしていた。
ある者は神へ。
ある者は家族へ。
ある者は恋人へ。
ある者は、これまで生きてきた自分の人生へ。
最後に何かを伝えようとしていた。
真帆はそれらを椅子に座ったまま眺めていた。
「へえ」
隣にいた佐藤さんが、涙の溜まった目でこちらを見る。
真帆はテレビから目を離さなかった。
「地球、粉々になっちゃうんだ」
「……真帆ちゃん」
「ん?」
「怖くないの?」
少し考えた。
「うーん」
怖いのかもしれない。
ただ、明日の午後に死ぬと言われても、いまいち実感がなかった。
まだ会社のエアコンは動いているし、机の上には午前中に淹れたコーヒーが残っている。三時になればいつも通り眠くなるし、さっきから少しお腹も空いている。
地球が滅亡するという話と、自分が明日死ぬという話が、どうにも頭の中で繋がらなかった。
真帆は机の引き出しを開けた。
昨日買ったチョコレートが残っている。
一個取り出して口に放り込む。
少し柔らかくなっていた。
甘い。
テレビでは、泣きながら聖書を抱きしめる老人が映っていた。
あと二十四時間。
明日の午後三時十二分。
死ぬ。
真帆はチョコレートを噛みながら、ぼんやりと考えた。
じゃあ。
最後に何食べよう。
*
会社は、そのまま解散になった。
部長は社員を前にして何かを言おうとしたが、途中で声が出なくなった。
「皆さん……その……家族のところへ……」
そこで口元を押さえた。
五十を過ぎた男が、子どものように泣いていた。
「今まで……ありがとうございました」
誰も笑わなかった。
何人かの社員も泣いていた。
佐藤さんは真帆を抱きしめてきた。
「真帆ちゃん、元気でね」
「明日死ぬけどね」
「そういうこと言わないでよ……」
「あ、ごめん」
真帆は背中を軽く叩いた。
佐藤さんはさらに泣いた。
会社を出る。
街はもう、昨日までの街ではなくなっていた。
車道には車が溢れ、交差点ではクラクションが鳴り続けている。タクシーを止めようと道路へ出る人間がいて、警察官が声を枯らして歩道へ戻るよう叫んでいた。
駅へ向かう人々は皆、足早だった。
泣きながら電話している男。
子どもの手を強く握っている母親。
「絶対帰るから」と何度も電話口へ繰り返す女。
若い男が路上に座り込み、顔を覆っていた。
誰も彼を気にしていなかった。
皆、自分の最後で精一杯だった。
真帆はスマートフォンを取り出した。
焼肉。
検索する。
「最後なら焼肉かな」
特上カルビ。
厚切り牛タン。
ハラミ。
ご飯は大盛り。
普段ならカロリーを見て少し躊躇するが、明日死ぬなら関係ない。
どうせなら一番高いコースでいい。
しかし検索結果を開くと、近所の店はすでに臨時休業になっていた。
『従業員を家族のもとへ帰すため、本日の営業を終了いたします』
「そりゃそうだよね」
別の店。
休業。
もう一軒。
休業。
「寿司かな」
高級寿司なら悪くない。
大トロ。
ウニ。
イクラ。
あわび。
いつもなら絶対に頼まない値段でも、もう口座残高を心配する必要はない。
調べる。
閉店。
閉店。
閉店。
「じゃあラーメン」
いつも行列ができている豚骨ラーメン。
ニンニクをたっぷり入れて、替え玉もする。
翌日の口臭を気にする必要もない。
そこも閉まっていた。
「みんな帰るんだなあ」
真帆はスマートフォンをしまった。
当たり前だ。
明日死ぬと分かってまで、知らない人間へ肉を運んだり、寿司を握ったり、ラーメンを作ったりしたい人間はそういない。
ふと、母親のカレーが頭に浮かんだ。
市販のルーで作った、ごく普通のカレー。
じゃがいもが大きい。
人参はたまに固い。
肉は豚。
「カレーもありだな」
実家までは電車で二時間半。
普段なら帰れない距離ではない。
けれど駅を見ると、人が溢れていた。
改札の外まで長い列が伸びている。駅員が拡声器を持って何か叫び、ホームへ入れない人々が怒鳴っていた。泣く子どもの声が聞こえる。
電光掲示板には遅延と運休の文字。
真帆はその光景をしばらく眺めた。
「……面倒くさ」
踵を返した。
最後の一日を満員電車で過ごすくらいなら、カレーは諦めていい。
*
夕方になると、街から少しずつ人が消えていった。
皆、行く場所を決めたのだろう。
家族のもとへ帰った者。
恋人の家へ向かった者。
友人同士で集まった者。
教会へ行った者。
寺へ行った者。
一人で海へ向かった者もいるのかもしれない。
スーパーへ入ると、商品棚の大半が空になっていた。
肉も魚も、総菜もパンも菓子も酒もなくなっている。
レジの前には誰もいなかった。
店員も帰ったのだろう。
床に落ちた袋菓子だけが踏まれて砕けていた。
真帆は棚を一周して、何も持たずに外へ出た。
夕焼けが広がっていた。
恐ろしいほど、普通の空だった。
公園では家族が肩を寄せ合って空を見上げていた。
小さな女の子が父親へ何かを尋ねる。
父親は答えず、娘を強く抱きしめた。
ベンチに座った老夫婦は、手を握っていた。
遠くから鐘の音が聞こえた。
教会の鐘だった。
どこかで祈りが続いている。
誰かが泣いている。
誰かが歌っている。
誰かが、大切な人の名前を呼んでいる。
真帆のスマートフォンも、何度も鳴った。
ポケットの中で震えている。
一度切れる。
少しすると、また鳴る。
真帆は取り出さなかった。
「お腹空いたな」
それだけ呟いて、家へ帰った。
*
翌日。
テレビでは世界各地の様子が映し出されていた。
バチカンの広場には、夜が明けてもまだ人が残っていた。
何万人もの信徒が跪き、祈り続けている。
泣きながら聖歌を歌う者。
子どもを胸に抱きながら十字を切る母親。
両手を組み、目を閉じた老人。
誰も空腹など気にしていないように見えた。
日本の寺院にも人が集まっていた。
本堂の前に座り、静かに目を閉じる人々。
僧侶が鐘を鳴らすたび、低い音が境内を満たした。
海岸では、家族が日の出を見ていた。
病院では医師と看護師が患者の手を握っていた。
刑務所では、受刑者たちが最後の電話を許されていた。
ある男は電話口へ何度も謝っていた。
ある女は笑いながら「愛してる」と言っていた。
ニュースキャスターも、もう原稿を読むだけではいられなくなっていた。
『衝突まで……残り三時間となりました』
声が震えていた。
『ご家族と……大切な方と……どうか、残された時間を……』
そこで言葉が途切れた。
スタジオの誰も責めなかった。
真帆はソファでそれを見ながら、冷蔵庫を開けた。
「なんもないな」
卵。
麦茶。
ヨーグルト。
半分の玉ねぎ。
マヨネーズ。
閉める。
もう一度開ける。
当然、増えていない。
「うーん」
冷凍庫を開ける。
冷凍うどん。
食パン。
氷。
そして、奥に袋がひとつ残っていた。
「あ」
ミートボール。
いつも買っているやつ。
弁当に入れることもあるし、夕飯を作るのが面倒な日はそのまま温めて食べる。
特別好きというわけでもない。
嫌いでもない。
高級でもない。
思い出があるわけでもない。
ただ、よく食べる。
真帆は袋を手に取った。
十二個残っている。
「……これでいいかな」
しばらく見つめる。
「いや」
少し考えてから、頷いた。
「これ食って死ぬか」
皿に全部出して、電子レンジへ入れた。
回転皿がゆっくり回り始める。
テレビの音だけが部屋に響いていた。
『衝突まで、残り一分を切りました』
画面には世界中の人々が映っていた。
祈る人。
抱き合う人。
泣く人。
笑う人。
キスをする人。
手を握る人。
誰かの肩へ顔を埋める人。
電子レンジが鳴った。
チン。
「はいはい」
皿を取り出す。
熱い。
テーブルへ置いた。
スマートフォンがまた鳴り始めた。
もう何度目か分からない。
真帆は一瞬だけ画面を見た。
母。
友人。
会社の人。
通知がいくつも重なっている。
そのまま伏せた。
テレビから声が聞こえる。
『十秒です』
真帆は箸を持った。
『九』
一個つまむ。
『八』
口へ運ぶ。
『七』
噛む。
『六』
甘い。
『五』
少し酸っぱい。
『四』
柔らかい。
『三』
いつもの味だった。
「……うま」
『二』
窓の外が白くなった。
*
宇宙には、音がなかった。
青い地球の一角に、白い光が生まれた。
それは一瞬で広がり、海を持ち上げ、雲を吹き飛ばし、大陸を裂いた。
地球の表面を亀裂が走る。
青かった惑星が、ゆっくりと形を失っていく。
祈りも。
悲鳴も。
愛しているという言葉も。
ごめんなさいという言葉も。
もう、どこにも届かない。
星は砕けた。
岩石の破片が、暗い宇宙へ散っていく。
人類が何千年もかけて作った街も、国も、宗教も、歴史も、名前も、全部が同じ場所で消えた。
昨日まで地球だったものは、ただの無数の欠片になって漂っていた。
三浦真帆、二十六歳。
その最後の晩餐は、
いつものミートボールだった。




