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序章 社畜、転生

朝の空気は、重かった。


いや、違う。

重いのは空気なんかじゃない――まるで鉛でも流し込まれたみたいに、俺の体そのものが鈍く沈み込んでいるのだ。


「……っ」


息を吸うだけで、胸の奥が軋むように痛む。

視界の端で、モニターの白い光がちらついていた。

そこに並ぶ黒い文字列と無数のエラー表示は、もはや情報ではなく、ただの“背景”として俺の意識に貼り付いている。


「……まだ、終わって、ない……」


自分でも驚くほどかすれた声が喉から漏れ、空気に溶けるように消えていった。

乾ききった喉は、言葉を発するたびにひび割れるような痛みを伴い、それだけで体力が削られていくのが分かる。

時計に目を向ける。


――午前3時42分。


(……またか)


昨日の朝から、一歩もこの席を離れていない。

いや、正確には“離れられなかった”。


「黒沢ー、進捗どう?」


背後から、軽い調子の声が飛んできた。

振り返る気力すら残っていない。


「……半分、くらいです」

「は? それで半分?」


呆れたような、しかしどこか楽しんでいるような笑い声。


「今日リリースだぞ? 間に合うわけないじゃん」


分かっている。

そんなことは、言われるまでもない。


「追加仕様きたから、それも入れといて」


カサリ、と紙の束が机に置かれる。その音が、やけに重く響いた。


「……これ、全部ですか」

「全部。よろしくー」


軽い足音が遠ざかっていく。

残されたのは、終わる見込みのない仕事と、すでに限界を迎えている自分だけだった。


(……ふざけんなよ)


心の中でだけ、吐き捨てる。

声に出す余裕なんてないし、出したところで何も変わらないことも分かっている。

指を動かす。キーボードを叩く。


カタ、カタ、カタ……


単調で無機質な音が、静まり返ったオフィスに虚しく響く。

視界が、少しずつぼやけていく。

それでも、止めない。

止めた瞬間に終わるのは、仕事じゃない――俺自身の“立場”だ。


(……ほんと、何やってんだろうな、俺)


ふと、そんな考えが浮かぶ。


ゲームを作りたかったはずだった。

誰かを楽しませるものを、この手で生み出したかったはずだった。


なのに、今やっているのは、終わりのないバグ修正と仕様変更、それに対する言い訳のための作業ばかりだ。


「……はは」


乾いた笑いが、勝手に漏れる。何も、楽しくない。

その瞬間だった。

ぐらり、と世界が傾いた。


「あ……?」


体が、言うことを聞かない。

指から力が抜け、キーボードから手が滑り落ちる。

視界が暗くなり、床がゆっくりと近づいてくる。

遠くで誰かが何かを叫んでいる気がするが、その声すらも水の中のようにぼやけていた。


(……ああ)


最後に浮かんだのは、ただ一つ。


(もう、働きたくねぇな)


その思考が途切れると同時に、意識も完全に消えた。





「……おい」


どこからともなく、声が響いた。


「おーい、起きろー」


やけに気の抜けた呼びかけに、重たいまぶたをゆっくりと持ち上げる。


視界に広がっていたのは――ただの白だった。

床も、天井も、境界も存在しない、現実感の欠けた空間。


「……どこだよ、ここ」

「死後の待合室、みたいなもんだな」


振り向くと、一人の男が立っていた。

ラフな服装に、やる気のなさそうな立ち姿。

だが、その目だけは不釣り合いなほど鋭く、どこかすべてを見透かしているような光を宿している。


「……誰だ」

「神様」

「……は?」


思わず間の抜けた声が出る。


「いやいや、もっとこう……あるだろ。神様っぽいの」

「例えば?」

「威厳とか、神々しさとか」

「ゲームじゃないんだから神に威厳なんて求めるなよ」

「なんでそこ基準なんだよ」


自然とツッコミが口をつく。

だが、それと同時に、妙な納得感もあった。


「…で、お前。過労死な」

「……やっぱりか」


あまりにもあっさり言われて、逆に現実味が出る。


「あんな働き方してりゃな、そりゃ死ぬ」


神様は肩をすくめた。


「人間ってのはな、本来もっとマシに働けるはずなんだよ」

「……同感だな」


迷いなく言葉が出た。


「だろ?」


神様は口元を歪める。


「だからさ。やり直してみる気ないか?」

「……やり直し?」

「人生。別の世界で」


静かに提示された選択肢。


「今度は“使う側”だ。社長とかどうよ」


その言葉に、胸の奥がわずかにざわつく。

使われる側ではなく、使う側。

命令される側ではなく、決める側。


(……悪くない)


「……できるのかよ」

「できるようにするのが神様だろ」


軽く言って、指を鳴らす。

次の瞬間、視界に光る文字が浮かび上がった。


《スキル付与:絶対契約》


「契約を操る力だ」

「契約……」


その言葉には、嫌というほど馴染みがある。


納期、仕様、責任――そのすべてに縛られてきた。


「ルールを決めて、それを守らせる。ただそれだけだ」

「……なるほどな」


理解は早かった。

むしろ、これ以上なく自分向きの能力だとすら思う。


「ブラックにするも、ホワイトにするも、お前次第だ」


神様の声が、ほんのわずかに低くなる。


「――変えてみろよ」

「何を」

「働き方ってやつをさ」


その一言が、妙に胸に残った。


(……面白い)


「やる」


短く、しかしはっきりと答える。


「やってやるよ」


その瞬間、世界が歪んだ。

意識が、どこかへ引きずり込まれていく。


「じゃあな、社長さん」


軽い声が、遠ざかっていった。





「……起きてください、社長」


今度は、はっきりとした現実の声だった。

冷静で、無駄のない響き。

ゆっくりと目を開けると、石造りの天井が視界に入る。

体を起こし、周囲を見渡す。


古びた執務室。

積み上げられた書類。

手入れのされていない机。


そして――


目の前に、一人の女性が立っていた。

背筋をまっすぐに伸ばし、無駄のない所作で佇むその姿は洗練されているが、同時にその瞳の奥には隠しきれない疲労が色濃く滲んでいた。


「自己紹介をさせていただきます」


丁寧に一礼する。


「セリス・ヴァルディア。当商会の秘書を務めております」


秘書。

その言葉が、この状況の現実味を一気に引き上げる。


「ここはルミナス商会。本日より、あなたが社長を務める場所です」


淡々と告げられる事実。


「現状を報告します」


セリスは続ける。


「資金は枯渇寸前。業務依頼はほぼ皆無。社員の士気は最低水準。加えて前社長は責任を放棄し、失踪しています」


一拍の間。


「以上です」

「……終わってんな」

「ええ」


即答だった。


「完全に」


その一言に、一切の誇張はない。

部屋の空気そのものが、それを証明していた。


(……異世界でもブラックか)


思わず息を吐く。


だが――


今は違う。

俺はもう、使われる側じゃない。


「この会社、俺が立て直す」


セリスの視線が、わずかに揺れた。


「……本気ですか?」

「ああ」


即答する。

その瞬間、視界の端に文字が浮かぶ。


《絶対契約:発動可能》


(……なるほどな)


口元が、わずかに歪む。


「まずは一人だ」


ゆっくりと立ち上がる。


「お前を、救う」


まっすぐにセリスを見る。

彼女は一瞬だけ沈黙し――やがて、小さく息を吐いた。


「……理解できません」

「だろうな」


ほんのわずかに、声が揺れる。


「――期待は、しません」


それは拒絶ではなく、積み重なった諦めだった。

だからこそ。


(変える)


この会社を。

この世界を。

ブラックなんてものが当たり前でなくなるように。


これは――社畜だった俺が、働き方を変える物語。


その、始まりだ。

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