二十五.薄明の明日
温暖なシャグンであっても、吐く息すら白くけぶる冬の最中。
澄蘭は、初めて歩くシャグン随一の市場に、目を輝かせていた。人混みの中で立ち止まってしまった彼女の腕を、ラティカが顔をしかめて引っ張る。
その日、アーリヤの誘いで、シュレヤとラティカ、澄蘭の三人の側妃は、市場をお忍びで訪ねていた。お目付け役として、各自の侍女頭と、複数の護衛官が背後に控えている。后妃たちは屋台飯や色とりどりの雑貨に目を輝かせていた。
「ねぇ、あれ、可愛い!」
素朴な屑石の髪飾りに目を留め、はしゃいだ声を上げるのは、正妃のアーリヤだ。気ままに動き回る彼女を、侍女頭が失神しそうな表情で追いかけている。
まさか国母たる王后が、こんな場所にいるとは思ってもいない装飾品の屋台の店主は、「おう姉ちゃん! お目が高いな!」と陽気な声を上げていた。
とはいえ、后妃たちも侍女たちも、名家のご令嬢揃い。物の買い方などまるで分からず、顔を見合わせる彼女たちに、唯一平民出身である姷明が溜め息をつきつつ、懇切丁寧に解説を行った。澄蘭も、祖国で市場探索の経験があったので、アーリヤが目当ての髪飾りを購入する手助けをした。
澄蘭と姷明の指南を受け、后妃たちは、黛に頬紅、揃いの口紅を思い思いに購入していく。やがて彼女たちは食料品市場に場所を移し、羊肉の串焼きや乾燥果実、地酒に肴の珍味にと、次々に手を伸ばしていった。
「お、奥方様……! もうそのあたりで、」
「あら、陽が暮れるまでは良いって言ったじゃない! あっ、あれは何かしら?」
いつになく酔ったアーリヤは、呆れ気味の侍女たちをよそに、はしゃいだ表情で駆け出していく。後を追うラティカはあまり酒に強くないため、足がふらつき、シュレヤが慌ててその身体を支えた。二人は視線を交し合い、楽しげに笑っている。
澄蘭も酒でフワフワと高揚する気分の中、そんな三人の姿を見つめ、微笑みを浮かべていた。
腹がはち切れそうなほど屋台食を満喫し、彼女たちは、上品な茶屋の一室に腰を落ち着けた。シュレヤとラティカが手洗いに向かい、澄蘭はアーリヤと二人、卓に取り残される。ふと正気に戻った澄蘭は、好機とばかりに、アーリヤの袖を引いた。
「あの。……いつかの夜、私に、──ご夫婦の睦み合いの声を聞かせたのは、どういう意図だったのですか?」
未だ酒は抜けておらず、澄蘭に言葉を選ぶ余裕はなかった。素面の姷明が頭を抱えるのを視界の隅で認めつつ、澄蘭は真っ直ぐにアーリヤを見つめる。
アーリヤはにっこりと微笑み、首を傾げてみせた。
「……さぁ。どうしてだと思う?」
(曲者揃いの妃たちだけれど……。一番食えないのは、間違いなくこの方だわ)
思わず嘆息する澄蘭に、アーリヤは楽しげに笑い声を上げた。
店を出て、「まだ時間はあるはず」と陽気に駆け出すアーリヤを、必死に皆で追いかける。澄蘭は込み上げる笑みを堪え切れず、空を見上げた。
冬は日が短く、早くも空に茜が混ざり始める。澄蘭は目を細めて、心の中でそっと語り掛けた。
(見えますか、遠珂様。私、シャグンの后妃がたと、シャグンの市場を歩いていますよ。
あなたとは、歩くことは出来なかったけれど……。いつか、互いの国の市場を、互いの国の民が自由に歩ける日のために、私はこれからも進み続けます)
この身体は既に、違う男に捧げてしまった。もう二度と、何も知らない頃には戻れない。黄泉の国に渡った彼と、この市場を共に歩くことも。
それでも、彼が目指した未来のために、澄蘭はこの歩みを止めることはない。




