二十一.祈りと呪い
ラティカはふらふらと、力なく歩いていた。
そこは、彼女の清静宮のすぐ北にある、澄蘭の流星宮の廊下だった。月明かりに照らされたその道を、ラティカは幽鬼のような足取りで進んでいく。
(以前も、こんなことがあったわね……)
ラティカは虚ろに嗤った。
あれはまだ、夏の始め頃だったか。大国の皇女のお手並み拝見とばかりに、意気揚々と罠を仕掛けた。年若い皇女は、ラティカたちが思った以上の冷静さで、自身に降りかかる嫌疑の火の粉を払ってみせた。
あの時はまだ、ここまで追い詰められた心持ちではなかったように思う。
今はただ、愛されない孤独の沼に、一人取り残されてしまった。
二十五歳、決して若いとは言えない年齢になり、その沼は想像以上に強い力で、ラティカをどん底に引きずり込んでいく。
王の訪いがある晩は、寝ずの護衛官と王直属の女官がついてくるため、妃の侍女は寝入っている。秘戯の様子を知ることは、不敬とされるからだ。
しんと静まり返った宮を、ラティカはゆっくりと手探りで進んでいった。
側妃の宮の造りはどこも同じであるため、後宮生活も七年が経過したラティカが迷うことはない。護衛官は宮の外、妃の寝室の窓に背を向けて立つ。王付き女官は寝室の脇、続きの一室で待機しているはずだ。
今まさに、濡れ場が繰り広げられているだろう澄蘭の寝室の前で、ラティカは手中のナイフに目を落とした。
(私は、ここで何をしているんだろう……)
冷静な理性がそう囁くが、身体はどす黒い本能に突き動かされ、止まることは出来ない。
扉に手をかける。誰も気づかない。
(誰か。……誰か、私を止めて)
内心で上げた悲鳴は、かすかな呼吸音にかき消される。
扉を一息に開け、部屋に駆け込み、ナイフを勢いよく振りかざし──
「そこまでです、ラティカ様」
涼やかな声に打たれ、ラティカは立ち尽くした。恐る恐る、彼女は顔を上げる。
そして、息を飲んだ。
寝台で王に組み敷かれているはずの澄蘭が、きっちりと整えたシャグン式の衣装をまとい、ラティカの背後に立っている。慌てて目線を向けた寝台は空っぽだった。
澄蘭の脇に控えた侍女の姷明が、ラティカを険しい目で睨み据えていた。
ラティカは目を見開く。
「なん……で……」
「王はいらしてませんよ。――というか、私、ご挨拶すらまだです。お見かけしたのも、ファリダ様の件の時の一度だけ」
苦笑する澄蘭に、ラティカは混乱して立ち尽くしていた。
姷明が素早く歩み寄り、ラティカの手からナイフを取り上げる。澄蘭は冷静な無表情で、ラティカに向き直った。自分よりも七つも年下の少女の落ち着きように、ラティカの中の何かが崩れ落ちる。
彼女は地に崩れ落ち、か細い声で自分を嗤った。
「……笑いなさいよ。女としての価値もない、嫉妬に狂った愚か者の妄挙だって……!」
「笑いませんよ」
そう言い切り、そっと目を伏せ、澄蘭は呟いた。彼女は躊躇いもなく膝をつき、ラティカの背を撫でる。
「自分はこうありたいと、いくら強く心に決めたって、自分にないものを持つ人は眩しく見える。『私もあんなふうに愛されたい』って、願わずにはいられない。
他人から与えられる縁もなしに、真っ直ぐ生きていける人は、きっと多くはないんです」
澄蘭の言葉に、ラティカは呆然と身を震わせた。
愛されたい。必要とされたい。認められたい。
それは、澄蘭には痛いほどに理解出来る感情だった。その思いゆえに大切な人を守れなかった結果、今、澄蘭はここにいる。
束の間、澄蘭は深く息をつき、おもむろに立ち上がった。その目に宿るのは、紛れもない怒りの炎。
同時にそれは、自分自身への怒りでもあった。
澄蘭が話をしようと思っていたのは、別の人物だった。そしてそのために、澄蘭はラティカを利用した。だがその策略が、ここまで彼女を追いつめてしまうとは、考えてもいなかったのだ。
人の心に踏み入る権利など、誰にもない。
これから澄蘭が発する言葉のは、自分への戒めと糾弾も含んでいる。
(ならばせめて、ここで全てを終わらせる。――逃がさない)
両の拳を握り締め、澄蘭は真っ直ぐ前を見据えて言った。
「……だからこそ、こんな風に、その切実な願いで人を操る人が許せない。──ねえ、見ていらっしゃるんでしょう?」
サミーラ様。
澄蘭が告げた名に、ラティカは瞠目して振り返った。




