十三.正妃アーリヤの思惑
ようやく外に出られた澄蘭は、空気を思う存分吸った。
禁足解除の翌日、澄蘭は、香玉を連れて後宮内を散歩していた。姷明と桃児は公休日で、自室で休んでいるようだった。
時折向けられる視線は未だ冷たいものの、面と向かって何かを言われることはなくなった。病で右半身に発疹が残り、人目を気にしがちな香玉も、必要以上に着目される空気が改善されて、ほっと息をついている。
ポツリポツリと言葉を交わしながら、流星宮へ戻ろうとしていた二人に、前方から歩いてきた女官が声を掛けてきた。
「……ご歓談中、失礼いたします。皇女様」
恭しく膝を曲げ頭を垂れる女官の腰には、正妃の宮の紋が下がっている。澄蘭は立ち止まり、香玉が慌てて頭を下げ返した。
「何でしょうか? 豊麗宮のお方」
首を傾げる澄蘭に、女官はニコリともせずに答える。
「王后アーリヤ様が、今晩、お酒でもいかがでしょうかと仰っています。ぜひ、豊麗宮へ足をお運びください」
澄蘭は目を瞬かせた。
(いかがでしょうか、と仰られても……。断る権利もないわよね)
正妃の望みとなれば、すなわち、出頭要請と同義だ。拒む理由もないため、澄蘭はすぐに頷いて答える。
「ありがとうございます。ぜひ、とお伝えください」
澄蘭の返答に、女官は「それでは、こちらの支度が整いましたら、迎えを遣わします」と事務的に告げ、足早に去って行った。
右人差し指で自身の頬をかいた澄蘭は、香玉を振り返り、彼女に尋ねる。
「……手ぶらというわけには、いかないわよね。悪いけれど、戻ったら、適切な品を見繕うのを手伝ってくれる?」
香玉は微かに頬を紅潮させ、頭を下げた。
侍女頭である姷明が休みの日は、シャグン女官のオミアが代行となる。香玉と必死に選んだ、干し杏や乾燥茘枝といった、つまみにも茶請けにもなりそうな菓子を手に、澄蘭は案内されるまま豊麗宮の廊下を歩いて行った。オミアも無言で、その後ろに静々と続く。
後宮の中央、側妃の宮の倍以上の広さの正妃の宮は、迷路のように道が入り組んでいる。万が一更衣に出たら、一人で部屋に戻ることは困難だと、澄蘭は内心で苦笑した。
ようやく辿り着いた部屋の前で、豊麗宮の女官は無表情で振り返った。あまり大きな部屋ではないようで、右隣の部屋の扉がすぐ近くにある。
女官は立ち止まった流星宮の二人に、淡々と告げた。
「恐れながら、正妃様は皇女様とお二人でお話したいと仰せです。侍女の方は、別室でお待ちいただけますか」
オミアは微かに不満気な色を覗かせるが、黙って頷く。女官は澄蘭に「こちらの室内でお待ちください」とだけ告げ、オミアを別室に連行していった。
一人取り残され、澄蘭は呆然と立ち尽くすが、溜め息と共に部屋の扉を推し開けた。
(いついらっしゃるんだろう、アーリヤ様……)
窓のないその部屋は、小さな卓と一対の椅子、簡易な茶道具が置かれた質素な内装だった。卓の上には玻璃の盃と透明な酒瓶が置かれ、走り書きで、「良ければ先に召し上がっていてください」と記された紙片がある。
そんなことを言われても、正妃を差し置いて、一人出来上がるわけにもいかない。
「失礼いたします……」
誰にともなく呟き、澄蘭は恐る恐る椅子に腰掛けた。
「……っ」
女性の細い悲鳴のような声に、澄蘭はハッと息を飲んだ。
緊張の極みに達し、気が付けば澄蘭は寝入ってしまっていた。慌てて澄蘭は立ち上がるが、室内に人の気配はない。酒はまったく減っておらず、アーリヤはまだ、この部屋にやって来ていないようだ。
(誰の声……? 隣の部屋?)
先ほどの女性の声は、隣から聞こえてきた気がした。澄蘭はそろりと立ち上がり、音が聞こえてきた方の壁に耳を寄せる。しばらくそのまま耳をすませ、やがて澄蘭は目を見開いた。
(この音……!)
何かの軋むような音、泣き声にも似た女性の歓声。男性の、低く荒い吐息。
澄蘭は頬を真紅に染め、慌てて壁から飛び退る。
礼の後宮で育った澄蘭には、その音の正体は理解出来ないものではなかった。理解出来ないのは、なぜ、待機を命じられた部屋の隣から『その』音が響いてくるのかだ。
(アーリヤ様……、何を考えていらっしゃるの……!)
隣は恐らく、アーリヤの寝室だろう。そしてそこにこの時間に夜半の後宮に滞在を許される男は、王宮の主のみ。
澄蘭はいたたまれなさに耳を塞ぎ、微かに響くその声から必死に全身を守った。
隣室が静まり返ってしばらくして後、澄蘭をここまで案内した女官が入室してきた。彼女はぐったりと卓に伏せた澄蘭を見やり、目を丸くして声を掛けてくる。
「皇女様、……大丈夫ですか?」
隣の部屋から響く音を追い出そうと、立て続けに白葡萄酒を煽っていた澄蘭は、ぐったりと顔を上げた。羞恥と酔いで真っ赤に染まった顔で、澄蘭は女官に問い掛ける。
「……正妃様は?」
「申し訳ございません。急遽、王のお渡りがあり、連絡が行き違ってしまいました。大変恐縮ですが、また後日、お誘い出来ればとのことです」
澄蘭はもはや取り繕う余裕もなく、盛大に溜め息を吐いて頭を抱える。どこか気の毒そうな色を浮かべたその女官は、オミアを呼んでくると告げて足早に去って行った。
翌朝、オミアから澄蘭の様子がおかしいと聞かされた姷明が、気遣わしげに澄蘭に声を掛けてきた。
「あの、澄蘭様。昨夜は何かあったのですか? ご様子がおかしいと、オミアが」
「姷明。……後宮とは、恐ろしい場所ね」
一向に要領の得ない澄蘭の言葉に、姷明は目を白黒させていた。
一時期、サミーラから怯懦の瞳で見られていた澄蘭だが、誤解も解け、すっかり以前のような気安さを取り戻していた。
内心で安堵する澄蘭に、サミーラは朗らかな笑顔で話しかけてくる。
今日も二人で慰問先に向かいながら、二人は馬車の中で会話を弾ませていた。
澄蘭はふと、伺うようにサミーラに尋ねる。
「……あの、サミーラ様。サミーラ様から見て、正妃様はどんな方ですか?」
「正妃様ですか?」
サミーラは愛らしい仕草で首を傾げ、指を唇に当てて考え込む。やがて彼女は顔を上げ、どこか苦笑のように見える笑顔を浮かべた。
「とても愛らしい方です。二人のお子を授かってもなお、お美しくて。王ともずっと仲睦まじくていらっしゃると、聞いています」
サミーラの苦笑は寂しげな色も帯びていて、彼女が王夫妻に抱く複雑な感情の片鱗が見て取れた。
澄蘭は沈黙し、小さく吐息を漏らした。




