九.狙われた妃
悲鳴を聞いて飛び起きた澄蘭の部屋に、隣室から姷明が駆け込んでくる。彼女はすでに起床していたのか、身支度を整えていた。
「事情を探って参ります。澄蘭様はここを動かないでください」
「無茶はしないで」
眉をひそめる澄蘭に一つ頷き、姷明は部屋の扉の隙間からこちらを覗いているオミアに告げる。
「澄蘭様をお願いします。可能ならば、お召しかえの補佐を」
「……分かりました」
足早に入室してきたオミアと目配せをし、姷明は部屋を駆け出していった。
事情はすぐに判明した。
悲鳴の主は、後宮の南東に位置するサミーラの宮の侍女。サミーラの部屋の窓が、外から暗紅の液体で汚されており、地面には首を落とされた数羽の鶏の死骸が転がっていたそうだ。
陰惨な光景を想像し、澄蘭とオミアが蒼白になる。実際にその現場を見てきたのだろう姷明も、嘔気を堪えるような険しい表情を浮かべた。
総毛立った澄蘭は一つ息を吐き、顔色の悪い姷明に白湯を差し出して言った。
「様子を見てくるわ。悪いけど、誰か付き合ってほしいと声を掛けて」
「澄蘭様、」
「サミーラ様が心配よ」
きっぱりと告げて立ち上がる主人に、姷明は早々に白旗を上げて項垂れた。
サミーラの宮の裏には、幾重にも重なった人垣が出来ていた。その隙間から、澄蘭と姷明、付き添いを申し出たシャグン女官のヤトラが、顔を出した瞬間のことだった。
彼女たちの姿に気付いた一団が、音を立てそうな勢いで振り返る。ヤトラがビクリと肩を震わせた。
集団の中心には、泣きじゃくるサミーラと、いち早く駆けつけたのだろう、隣の宮に暮らすラティカがいる。
彼女はサミーラの背を抱き、険しい表情で澄蘭を睨んだ。
二人を取り囲むように血相を変えた女官たちが立ち並んでおり、更にその外を、シュレヤとファリダ、彼女たちの女官が囲んでいる。
人垣が一斉に左右に割れ、サミーラたちが立つ位置まで、真っ直ぐに空間が走る形になる。サミーラの視線を塞ぐように走り出てきた大勢の女官が、澄蘭たちとの間に仁王立ちになった。
「何しに来たのよ!」
集団の中で声を荒らげるのは、サミーラが地元から伴ってきた侍女の一人だ。もう一人、サミーラから幼なじみだと紹介されていた侍女頭の姿が見えないので、彼女がこの状況の発見者だったのだろう。
今にも掴みかからんばかりの女官に、姷明が冷静な声で問い掛ける。
「待ってください。いったい何事ですか?」
「とぼけないでよ! この異国女がやったんでしょう!?」
聞く耳を持たない女官の興奮した声音に、澄蘭と姷明は顔を見合わせる。サミーラの身体を別の女官に託したラティカが、澄蘭の鼻先に拳を突き付けた。
正確には、拳に握りこんでいた鉱石飾りを。
「鶏の死骸の横に、こんなものが落ちていました。……この意匠、流星宮のものですね?」
澄蘭は息を飲んで、目を見開く。
その場に集まった人々は、澄蘭と姷明を、疑惑と嫌悪、軽蔑の目で睨み付ける。澄蘭を怯えた目で見るサミーラと、澄蘭を糾弾するラティカだけでなく、シュレヤやファリダもひどく冷たい目で澄蘭を遠巻きに見据えていた。付き添いのヤトラが、泣き出しそうに肩を震わせる。
(サミーラ様……!)
澄蘭が咄嗟に否定の声を上げようとしたその時、空から落ちる霧雨のようにしっとりとした声が、輪の外から投げ掛けられた。
「──どうしたの?」
女官たちが跪き、側妃たちが無言で腰を落とす。背後を振り返った澄蘭と姷明も、慌ててそれぞれに倣った。
数名の侍女を連れて輪の中心に歩み寄ってきたのは、正妃アーリヤだった。
珍しく下ろしたままの髪に、どこか気怠い雰囲気を全身に滲ませ、彼女は無表情に佇んでいる。進み出たラティカが、これまでの事情を端的に語った。
アーリヤがちらりと、澄蘭を振り返る。
ラティカが突き付けた紋とは、妃や所属する女官たちに与えられた腰飾りで、宮中の通行証を語った兼ねたものだ。各宮ごと、妃と女官ごとに意匠や材質が違っており、ラティカが手にするのは、間違いなく流星宮の妃の身分を表すものだった。
昨夜の入浴前に澄蘭が手ずから、自室の机の上の専用箱に仕舞い、そのあとは今朝まで宮を出ることもなかった。所在を確かめることもしていない。
(私は、サミーラ様にこんなことはしていない。でも、紋が私のものではないとは、断言出来ない……)
取り乱して叫んだところで、澄蘭の無実を信じる者もいるまい。それでも黙っておられず、澄蘭は小さく首を振りながら声を上げた。
「……私は断じて、このようなことはしておりません。もちろん、誰かに命じてやらせたことも」
凛と背筋を伸ばした澄蘭を、しかしアーリヤは興味なさげに一瞥するのみだ。彼女は無表情に、淡々と告げた。
「皇女様には当面、自宮での禁足を命じます。シュレヤは女官長に命じて、調査に取り掛かりなさい。誰か、サミーラの宮を片付けて」
取り付く島もないアーリヤに、澄蘭は黙って頭を下げる。大人しく、その場を去るしかなかった。
自分の部屋に戻った澄蘭は、紋章箱の中身を確認しようとして息を飲んだ。
(鍵が入らない……)
女官たちが配属と共に受け取る紋とは違い、妃のそれには貴重な鉱石が用いられている。紋を仕舞う箱も美しい細工が施され、代々の妃の間で受け継がれていく。鍵の管理も、各妃の仕事のうちだ。
昨夜までは確かに、澄蘭が胸元に下げたその鍵で解錠は可能だった。それが、なぜ。
険しい表情で黙り込む澄蘭に、姷明がそっと声を掛けた。
「……澄蘭様。しばし、外してもよろしいでしょうか? ご不安でしたら、桃児か香玉をおそばに付けますが」
「いえ、一人で大丈夫だけど……。どこへ行くつもり?」
訝る澄蘭の耳元に屈み込み、姷明は強かな微笑みと共に告げた。
「情報を集めて参ります。禁足を命じられたのは、澄蘭様だけですから」
飄々とそう述べ、颯爽と部屋を出て行く姷明を、澄蘭は口をポカンと開けて見送った。




