八.敵意
澄蘭に与えられる公務は変わらず、街中の孤児院や貧民院の慰問のみだった。
シャグンに降嫁し二月あまり。未だに王とは会う機会もないが、澄蘭は市民との触れ合いを楽しんでいた。
道中は一人のこともあれば、平民出身のサミーラ妃と一緒になることもある。素朴で朗らかな彼女は、市民の支持を一身に集めており、行く先々で歓声が上がる。サミーラも笑顔で、ごく自然に彼らの輪に入っていった。
「サミーラ様は、民に愛されていらっしゃるのですね」
澄蘭が言外に尊敬を滲ませながら声を掛けると、サミーラはそばかすの愛らしい肌を紅潮させて首を振る。
「……わ、私は、平民の出ですから。他の妃様方とは違って、気安いのでしょう」
「それだけでしょうか? サミーラ様が民の目線に立ち、真摯に向き合っておられるからだと思いますよ。彼らも、それを理解している」
微笑む澄蘭を、サミーラがおずおずと上目で見つめた。
「……澄蘭様こそ、皇女様なのに民にお優しいのですね。先ほども……」
サミーラが口にしたのは、街路を歩いていた澄蘭に、子どもがぶつかってしまった時のことだろう。友と遊ぶことに夢中で、その少年は周囲を見ていなかった。侍女と数名の護衛を連れて歩いていた側妃の列に、頭から突っ込んでしまったのだ。子を追いかけて走ってきた、痩せた母親が凍り付く中、澄蘭は転んだ少年の垢じみた手を取り微笑んだ。
「周囲を見て走らなければ、危ないですよ。気をつけなさい」
滑らかなシャグン語で告げた澄蘭に、貧民の子はコクコクと頷いていた。
それほど驚かれるような行動だろうか、と思いつつ、澄蘭は微笑でサミーラに答える。
「国に生きる者は皆、大切な『民』ですから。僅かな間でしたが、祖国でも、街中で子どもたちとよく遊んだものです」
「まあ……」
感じ入ったように呟くサミーラに、澄蘭はどこか自嘲気味に呟いた。
「──ただ、それも、義兄の策略の一環だったのですけど」
「え?」
きょとんとした顔のサミーラに、澄蘭は「何でもありません」と微笑んだ。
後宮に戻った澄蘭はサミーラと別れ、随行していた女官たちと共に、自分の宮に戻った。
宮の前で出迎えた姷明に、澄蘭が応じていると、左隣の宮から見覚えのある姿が出て来たのに気付き、目を瞠る。
「あれは……、外務長官のラナ殿? なぜシュレヤ様の宮から」
驚く澄蘭に、姷明がそっと耳打ちする。
「ラナ様は、シュレヤ様のご母堂筋の遠戚にあたるそうです」
優秀な侍女頭は、しっかりと情報収集に勤しんでくれているようだ。基本は男性禁制の後宮だが、許可を得た親族であれば、訪宮は可能だ。
澄蘭が目を瞬かせていると、こちらに気付いたラナが、険しい顔で歩み寄って来る。澄蘭の元婚約者である遠珂の件で、澄蘭に大きなわだかまりを持つ彼だが、礼儀として妃を無視することは出来ないようだった。
「……皇女様におかれましては、ご健勝そうで何よりです」
「おかげさまで」
苦い薬草を大量に噛み締めたようなラナの表情に、澄蘭は苦笑気味に応じた。ラナは舌打ちし、わずかな敬意もかなぐり捨てて、低い声で囁く。
「……随分と、民をたらしこむのに熱心なようだな」
(本当に、どこからでも情報は広がるのね)
澄蘭は半分呆れつつ、ラナに微笑で答えた。
「何のことでしょう? 慰問が私の仕事です。ここに暮らす以上、彼らも私の大切な民です」
「お前はまだ、側妃候補だ。勘違いをするな。──少しでも妙な動きをしたら、消す」
獰猛な獣のような表情で、明確な殺気を滲ませながら言い捨て、ラナは乱暴な足取りで去っていった。涼しい顔で見送っていた澄蘭だが、ラナの姿が完全に見えなくなったところで、その場にへたり込む。
放心してしまった澄蘭を遠巻きに見つめる女官たちの中、姷明だけが主人の身体を苦笑しながら支える。澄蘭は苦い表情で、震える拳を握りしめながら呟いた。
「……遠珂様はいったいどうやって、あの方と親交を深めたのかしら」
「焦らずいきましょう。今はご自身の出来ることを、地道に積み重ねるしかありません」
姷明の暖かな手で背をさすられ、澄蘭は唇を引き結んで頷いた。
翌朝、夏の気配を帯び始めた霧雨の降る後宮に、女官の悲鳴が轟いた。




