もう何もいらない
私は兜坂君が完成させた「5A169」構造体のお陰で末期の脳腫瘍から奇跡的に回復した。
絶対に助かるはずの無い状態から、私は助かったばかりか以前と同じ健康を取り戻した。
あの後、兜坂君はアストラール社に全てを打ち明けた。
私のために貴重な研究素材である「5A169」構造体を盗み出し無断で患者に投与したことを。
本来は刑事事件であり、危険な人体実験を行なった犯罪者となるはずだった。
しかしアストラール社はその事実を隠蔽した。
開発責任者の兜坂君が非道な人体実験を行なったことで会社への批判が炎上し、今後の「5A169」構造体の発表に重大な支障となると判断されたのだ。
公になればアストラール社も存続を許されないことにもなるが、それ故に全力を挙げての隠ぺい工作が為された。
兜坂君はもちろん、彼の部下の研究員や成田教授たちにも事実は伏せられ、完全に兜坂君と会社の上層部の間だけの秘密として処理された。
お父さんも私も絶対の緘口令が強要された。
もちろん私たちは兜坂君のためにそれを受け入れた。
だから表向きは兜坂君は犯罪者では無くなった。
但し、兜坂君は研究の責任者から外され、「5A169」構造体の開発の実績も会社に奪われた。
開発記録は改ざんされ、別な兜坂君の上司の手柄となった。
成田教授の研究室も説得され、その説得には兜坂君自身が当たった。
成田教授は最初は反対されていたが、兜坂君が密かに事情を打ち明けて受け入れられた。
自分の犯罪のことではなく、私と父に影響が及ぶという説得だったらしい。
兜坂君の栄光はまだ奪われ続けた。
あの「トウサカ・ストラクチャー」の功績すら、兜坂君の携わった部分がこれまで知られていたよりも少ないことが発表された。
アストラール社は徹底的に兜坂君の栄誉を奪い取り、会社の利益としたのだ。
私への「5A169」構造体の投与の記録も全て会社が奪い取った。
人体へ使ったデータは貴重だったからだ。
そして兜坂君は会社を辞め、うちのお父さんもその1年後に退職した。
兜坂君の立場を出来るだけ穏便に済ませるように手配に尽力してからだ。
あれから8年。
「5A169」構造体は「アストラール・システム」と名称が決まり、世界中の研究機関に提供され動物を使った臨床実験が続けられている。
概ねガン細胞への効果は良好で、画期的なガンの克服治療法として期待されている。
その功績と期待でアストラール社の株価は130倍にもなり、世界最大の製薬会社となった。
ナノマシン開発に他の製薬会社も研究機関も乗り出したが、アストラール社に大きく引き離されている。
兜坂君という希代の研究者がいたからだ。
でもその栄光を知る人は少ない。
動物実験の後、日本に先立ってアメリカで「アストラール・システム」の人体への臨床実験の承認がなされ、末期ガンの患者たちに使われた。
その効果は目覚ましく、13人の全員の患者全員が回復したのだ。
CNNが取材したそのドキュメンタリーは世界中に放映され、私も観た。
その成功を知り、ようやく日本でも厚生労働省が臨床実験の認可検討を始めた。
恐らくは数年のうちに、ガン治療の有効な治療薬として広まっていくだろう。
「奈保美、今度の夏休みもアメリカに行くのか?」
「もちろんよ。年に何度も会えないんだから」
「そうか、楽しんで来てくれ」
「うん!」
兜坂君はあの後、スタンフォード大学の客員教授として招かれた。
私がアストラール社でのことを全て話すと大歓迎で迎えられたのだ。
「兜坂君に宜しく伝えてくれ。日本に帰ってきたら是非会いたいと」
「うん、伝えるね」
今、兜坂君は遺伝病に苦しむ患者のためのナノマシン開発に挑んでいる。
遺伝子を修復するという、ガン細胞以上の難題だ。
飛行機を乗り継いで、スタンフォード大学の研究所の近くの一軒家に住む兜坂君を訪ねた。
私が来ることを連絡していたので、わざわざ休みを取っていてくれた。
「奈保美、また来てくれたのか」
「もちろんよ、元旦那!」
「アハハハハハ!」
私を抱き締めて喜んでくれる。
「今回はどれくらいいられるんだ?」
「2週間はいられるよ!」
「なんだ、短いな」
「もう! これでも精一杯調整して来たんだから!」
「ああ、悪かった」
その晩は兜坂君が夕食を作りご馳走してくれた。
いつもここに来るとそうだ。
食事後にテラスに出て一緒にワインを飲む。
「まだ美咲の夢は見るかい?」
「うん、月に何度かね」
「そうか」
兜坂君は寂しそうに笑った。
いつも最初の晩にそのことを私に聞く。
まだ兜坂君が佐伯さんのことが忘れられないことを私も確認してしまう。
「いつもね、同じことを言うの」
「ああ」
「「タカちゃんの瞳は紫色だよね?」って。私もいつも「そうだよね」って言う」
「ああ」
「佐伯さんはあまりにも早く逝ってしまったわよね」
「仕方無いよ。そういう運命だったんだ」
「でも早すぎるよ。もう少し後なら「5A169」構造体で助かったかもしれないのに」
「奈保美が助かった。それで俺は十分だよ」
これもいつもの会話だ。
私たちはこの会話を終えなければ、他の話が出来ない。
「あのね、CNNが「アストラール・システム」の臨床のドキュメンタリーを作ったの」
「ああ、知っている。観てはいないけど結果は知ってる。良かったな」
「助かった13人の患者が言っていることも知ってる?」
「いや、喜んでいたんじゃないのか?」
「そうだけどね。みんな同じことを言うの」
「へえ」
《紫の瞳の天使が助けてくれた》
「!」
私は兜坂君の椅子の後ろに回って背中を抱き締めた。
「みんな、夢でその天使を見て回復しているらしいわ」
「……」
「あなたは素晴らしいわ、私の天使様」
「……」
兜坂君の瞳は今も紫色だ。
今後も誰かを救うのかもしれない。
そうじゃなくてもいい。
もう兜坂君は素晴らしいことを成し遂げたのだ。
「I wish Vioret」
「俺はもう君の……」
私は前に回って兜坂君の唇にキスをした。
もう何もいらない。
今、私の前に、紫色はあるのだ。




